読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。
【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?
【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。
*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。
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★追加
昨日のブログに臥蛇島を含む記事をアップしたら、リアルタイムのタイミングで話題になっている。
えへん、と自慢したいところです(笑)。
地図、追加しておきます。
屋久島(青丸が遠望起点)から肉眼で見える陸地。
臥蛇島(屋久島南岸から約90km)は左端の赤丸。
緑は宇治群島と草垣群島で、屋久島からはチェックしていない。
図の上の桜島も未チェック、見えてもよさそうなのだけれど、噴煙または鹿児島市上空の空気が邪魔してる?
図の下の奄美大島は何人かの人から「見えたことがある」と聞いているのだけれど、僕は確認し得ていません。
図の左に大陸棚が迫っていて(真っ直ぐ進むと上海)、中国船がうようよ群がっています。
Ⅰ
種子島のロケット。打ち上げ失敗(←「失敗ではなく中止」でもどっちでも良い)の原因についての私見です(もちろん8割がた冗談ですが)。例えば、制御装置をAIが司った。AIの能力は完璧です。全てのリスクに繋がる、あらゆる可能性も見逃さない。どんなに小さなリスクであっても見つけ出せば自動的に制御。ということで、永遠に制御装置は解除されません。毎回中止。まあそのうちにそのことに気付いて、(対外的には有耶無耶のままに)誤魔化しのソフトランディングを選ぶのでしょうけれどね。コロナやマスクと同じように。
何も考えずに、片っ端からミサイル打ち上げてる北朝鮮は凄いですね(中国の風船気球も)。気が付いたら、日本はいつの間にか負けちゃっている、ってことにもなりかねません(たぶんそうなるでしょう)。
中国は徹底ゼロコロナ政策から、(何の説明もなく)一気に全面解除に至りました。そんな大技は、日本には出来んのですよね。民主主義ですから、説明義務が生じます。キチンと (理論立てて説明できる)言い訳を準備せねばならんです。集団性自己保身の(それを美徳とする)国ですから。
以前から度々挙げている僕の意見。「中国は近代的ショッピングセンターのフロアにウンチを垂れ流したまま世界一の先進国になって行く」。ウンチどころかゴミ一つ落ちていない日本は、置き去りにされていくでしょう。
レストランのテーブルの横に備え付けてあるゴミ箱に(小七を)ウンチさせていたモニカ曰く。「だって、どうせ一緒になるんだもん、もう日本人は、、、、」
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Ⅱ
さて、マスクの行く末について。日本人が今後どのようにソフトランディングさせていくのか(あるいはいかないのか)興味深々です。
たかがマスク、ではないのですよ。全ての問題の本質が、ここに集約している。コロナのマスク、遡って香港のマスク、、、それらよりもずっと前から、日本人はマスク好きの国民、という側面はあったわけですけれど。マスクは、“隠す”(「空気の形成」を含めた様々な意味で)という現象に直結している
香港・コロナ・ウクライナ以降、ニュースやコラムのコメント欄に度々投稿されている、ある意見。
(マスクに限らず様々な局面に対して)
「しないよりは良い」
そして、そのことを当然と考えること。
非常に深い意味を持っているのです。人類の未来、地球の未来に繋がる、、、。
長い話になるので、改めていつかきちんと掘り下げて行こうと考えていますが、以下、ちょっとだけ言及。
文明・科学・医学・AIとかを批判したとしますね。科学に頼ることへの危惧、便利性追求への疑問、リスク全面排除への反対意見。するとこういう意見が返ってきます。
「科学で便利になることに越したことはない」
「医学の発達で健康が保たれる(長生きが出来る)ことに越したことはない」
そこだけを見れば確かにその通りかも知れません。しかし、それで「答え」が完結するわけではない。「答え」の在りどころは、紆余曲折しながら、四方八方に繋がっているのです。
一歩引いて俯瞰すると、ポジティブに見える局面が、実はネガティブであったり、その逆だったりします。
でも、今の世の中(特に日本)では、それを考えちゃいかんのですね。
目の前にある「陽」を(空気に逆らって)否定することは「悪」と見做される。
マスクをすることの意味は、とりあえず雑菌の口腔内・気管内への侵入を防ぐ効果。それ以上に「顔を隠す」という快感・安心感(流行りの「個人情報」「人権」の問題もマスクが象徴している)から逃れられないでいるわけで。。。でもその“安心感”が、もっと大きなものの喪失に繋がっていくことに気付いてはいない。
冷房と熱中症の問題も同じです(その話題は夏になってから改めて)。
もうひとつ、さらに根本的な部分での「しないよりは良い」。
うまく説明できないのですけれど、「平和への願い」とか、「自由」とか「愛」とかに対する想いといったようなもの。
そんなに単純なものじゃないんじゃない?
と問題提起したとします。それに対する反応。
>可哀そうなウクライナの人たちを思いやる気持ちがなんで悪いんですか?
>多くの人々を虐殺するロシアを憎むことが何故いけないのですか?
>なにもしないで考えているばかりよりも、戦争に反対し、平和を願う心を持つこと、弱者を助け、人々に愛を注ぐこと、それが人間として当たり前の、尊いことだと思うのですが、それは良くないことなのですか?
それはそうなのですね。でも同時にそうじゃない、ともいえる。眼前への対応と俯瞰的な捉え方には常に矛盾が生じる。でもその矛盾を受け入れて、両立させなくてはならない(不可能だとしても)。
様々な局面での「しないより良い(するに越したことは無い)」問題には、改めて正面から見つめ直す必要がある、と思うのです。
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Ⅲ
最近のメディアで配信される映像・画像は、人(通行人にも隣にいる人にも)の顔に皆ぼかしが入ってますね。人権とか、いろいろとあるんでしょうが、なんかすごく気持ちが悪い、、、恐ろしさを感じます。個人情報、隠す、、、、。
人間をモチーフにしてきた カメラマンは今後どうなるんでしょう。転向するか廃業か。たぶん、特定の(権力を与えられた)カメラマンには配慮が為され、そうでない者はアウトにされる。落書きした一般人は逮捕され、バンクシーとやらは称賛される。恐ろしい事だと思うのですけれどね。
顔を隠すといえば、イスラムの女性たちもそうなのですが、それを「非文明的」「非民主主義的」とか批判している、健全な思想の持ち主たる日本の大衆が、同じようにマスクで顔を隠している。おかしいよね、、、、。でも皆そのことに気付いていない。
我々がイスラム社会の風習、道徳、正義に対して、変なの、と笑ってるように、向こうだって、変なの、と笑ってます。もちろん、マスクをする理由(様々な意味でのリスク排除)はあるわけだけれど、それは向こうのスカーフだって同じ。こっちの理由が正しくて、向こうの理由が間違っている、、、、そりゃ戦争が起こります。
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Ⅳ
このあいだのテレビ番組で、明治以前から近代に至る、日本の近代文明開花期の、写真や映像記録の紹介が為されていました(その当時~150年以上前~の映像が残っているのは感動です)。西洋とは異なる文明や価値観に対する欧米人の手放しの称賛、そして(それを引き継いだまま)新たにかつ迅速に西洋文明を取り入れて行くことに対する驚愕、日本人の素晴らしさがストレートに伝えられていて、へそ曲がりの僕でも素直に感動します。
(僕の場合はともかくとして)そのことは今の時代に対しても同じですね。外国人を巻き込んでの、“日本はなんて素晴らしいんだ!”といった“日本上げ”番組つくりが流行りです。でも、実際に海外にいると、日本に対する批判も結構耳にはいってくるのですよ。
そのテレビ番組で、(そこまでは称賛一択だった)海外からの評価が、関東大震災の頃を境に、微妙に変わってきた。
いや、日本人に対する称賛は続いているのです。あの大震災の時でさえ、人々は私情を押し殺して助け合い、整然と復興に向けての努力を続けている。なんて素晴らしい民族なんだ、と。
でも、待てよ?という声もあるのです。朝鮮人の大虐殺。実は日本人の美徳の中には、それに真逆に相反するとしか思えない、どうしようもない野蛮な側面も付随しているのですね。別に不思議な事ではありません。トルコ地震に於ける、シリアに対する日本の大衆の反応でも浮き彫りになってきます。歴史は同じことが繰り返し続けてゆく。「平和」「自由」を御旗の許に振りかざしているかぎり、戦争はなくなりません。
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Ⅴ
種子島の衛星打ち上げの話。前後して、アメリカの気球、北朝鮮のロケット、すぐ隣の馬毛島の基地問題、屋久島沖を通過した中国の艦船、沖縄の無人島の中国人女性の購入、、、、。なんか、(いろんな意味で)関連がある。
それはともかくとして、みなさん「宇宙」が好きですね。でも僕は「宇宙」という言葉を聞くたびに、そこはかとない胡散臭さを感じてしまいます。
平和、自由、愛、平等、人権、文明、科学、多様性、個人情報 自然保護、人類の進化、、、、もう胡散臭い(称賛の)言葉に溢れているのですが、「宇宙」は最たるものですね。
そもそも、「宇宙」って言葉は、地球の表面に接した大気圏外、人工衛星の飛んでいるところに対して、実質的に使われているわけで、それを、無限の空間である「宇宙」と、同じ言葉、同じ概念で一括りに出来るわけないでしょう?
まあ、100年前も1億年前も、一個人という立脚点からすれば、(次元が異なってはいても)計り知れない昔であることは同様なわけで、地球表層の大気圏外も、遥か星雲の彼方も、日常からみた(全ての)非日常という意味では同じなのかも知れませんが。
ちなみに、過去は計測が可能で1年前と1億年前は明らかに異なる対象として存在するわけだけれど、未来というのは違ったベクトルですね。1年後も1億年後も等しく未知の存在です。
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Ⅵ
地球外生命体の話題。胡散臭いといえば、これに尽きます。お前らバカか、と言いたくなってくる。概念の把握が全くできていない大衆が余りにも多すぎる。時間とか空間とか物質とか存在とか認識とか生命とか、、、、全く異なる次元の認識(平和とか自由とか愛とかもそうですね)。宗教や哲学の領域になってくるのでしょうけれど。
我々の認識に於ける生命とか時間空間を基準に捉え得る宇宙人なんて存在するわけがないし、その基準を別次元に置き換えたなら、たぶん宇宙人は無数に存在している。
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Ⅶ
俗っぽい話に戻します。空間の利用。なにも宇宙なんてことを言わなくても、もっと身近な空間、地中と空(宇宙ではなく成層圏内)に、無限のキャパシティが存在しているわけで、なぜそこを活用しないのだろうと。まあ、気球とかドローンとかは、その糸口ではあるのでしょうが。今後(それも思っているより遥かに近い近未来に)急速に展開していくと思います。それこそ世の中の価値観が一転してしまうぐらい。その際、様々なルール作りとかで、とんでもない騒ぎになって行くのでしょうけれど(気球問題はその嚆矢になるのかも知れないですね)。
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Ⅷ
種子島ロケットの話題が出ると、なんかウキウキしてくるんですよね。この基地の、場所としての魅力。僕は、ここに打ち上げ基地が建設された前後から、この辺り(南種子町の沿海一帯)を歩きつづけてきました。隣の屋久島や三島列島・トカラ列島などとセットで、生物相の探索(題材は主にツクツクボウシとカンツワブキ)を行ってきたのです。あと、当時小笠原によく通っていたので、種子島で打ち上げたロケットを小笠原で追跡する基地の周辺が僕の小笠原に於ける主要フィールドだったという縁もあります。
実は、種子島の打ち上げセンター宇宙センターそのものには行ったことがないんです(笑)。その周りは歩き回っているのだけれど(交通の便が悪いので結構大変)。半径10㎞ほどの空間に、過去と未来のいろんな要素が凝縮されています。詳しいことは「世界遺産の森屋久島~大和と琉球と大陸の狭間で」(平凡社新書)に書いてあるので、読んで下さい。
思いつくまま列記しておきます(それぞれ時間軸が全くことなる事例)。遺存種カンツワブキ生育地。北方系(南限)種と南方系(北限)種の混在。前者の代表が北限の隆起サンゴ礁海岸とマングローブの河口。それに接した(幾つかの分布南限種が生育する)砂浜。「赤米」栽培が引き継がれている茎永の神社。鉄砲伝来の門倉岬、、、、。それらを結ぶ地に 宇宙基地。感慨深いです。
冗談半分、半分本気で。将来首都遷移が為されるとすれば、種子島一押しです。西之表市の人口1万4000人とか、中種子町・南種子町併せても、3万人に届きません。ほぼ同じ面積の横浜市が400万人近いので、その過疎の程度が分かります。まっ平らな島ですから、その気になれば全域が都市化可能です(現状ほとんどがサトウキビ畑なので自然破壊とやらの心配もほぼない)。面積人口地勢で言うなら、香港やシンガポールも同じですね。目指せ、日本の香港・シンガポール!
すぐ背方は九州本土で、前方に沖縄。東は太平洋。西の上海も、北のソウルも、距離的には東京とほぼ等しい(むしろ近い)。隣の屋久島には水がたっぷりあるし、、、。アジアの中心として、うってつけのロケーションなのです。
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Ⅸ
北米での気球捕獲。ロケット打ち上げ失敗(表現は「失敗」でも「中止」でもどっちでも良い)。北朝鮮ミサイル打ち上げ成功(「成功」という表現で良いのかな?)。
馬毛島の基地化問題。屋久島沿海に中国艦船侵入。中国人女性による沖縄屋那覇島購入。時を接して、微妙に密接に結びついた関連事項が重なっていますね。
北朝鮮のミサイルが着弾したのは、渡島大島から200㎞の海上、TVの映像でも、函館あたりから火の玉がくっきりと見えていました。これ、結構大変な出来事だと思いますよ。
渡島大島・渡島小島は、もっと注目されても良い離島です。生物地理上も、北海道と本州の関連を考える上で、非常に興味深い地なのです。それはともかく、こんな場所を無人島のまま放っておいて、ロシアや北朝鮮に目を付けられないのだろうか、、、。
北方領土、竹島、尖閣諸島以外にも、問題の島々は沢山ありますね。
南に目を転じて、まず男女群島。よく考えたら、ここは凄い位置にあるんですよ。(ある意味尖閣と対を成す)東亜のジャンクションです。
南西諸島の北端に位置する、宇治群島と草垣群島。35年前、僕が中国に赴いた目的の一つは、神戸から上海までの途上、この2つの島嶼の間を通過する際に、洋上から島影の写真を写すことでした。
両群島の手前が僕の大好きな三島列島黒島。黒島と屋久島の間にある岩礁が湯瀬(デン島)。屋久島とトカラ列島口之島の間にあるのが平瀬(ニョン)。
屋久島の海岸から南西の洋上を眺めると、口之島の手前に、波が煌めいているのが見えます。船が座礁しているようにも錯覚しますが、その波の煌めきは、いつも変わらず同じ所にあります。ここには灯台があるのですね。
口之島の西には、臥蛇島と小臥蛇島の2つの無人島。無人島と言っても、比較的最近まで人が住んでいたのです。無人島になってから、もう50年以上経つのですね(ちょうどその頃隣の中之島に行った)。 ちなみに、東京‐台北・香港の機上から(飛行ルートによっては)最後に(最初に)見える島影が、この両島だったりします。
トカラ列島有人島の南端・宝島のさらに南は、上之根島と横当島の2つの無人島があります。奄美大島の名瀬港からもよく見えます。横当島は、渡島大島と並ぶ、スケールの大きな無人島です。
以前、名瀬の港から漁船に乗って、単独上陸して、一晩テントを張って、ツクツクボウシの鳴き声を調べたことがあります。そのうちに改めてその時の記録を紹介しますね。
さらにその(阿蘇・琉球火山帯の)延長線上に、硫黄鳥島。さらにその南に、久米鳥島。
その間に位置する有人島が、伊平屋島と伊是名島。隣接した島なのに、別個の行政で、フェリーも別々に出ています。両島の距離は近いのですが、(沖縄本島ともども)生物地理的に見れば、複雑に入り組んでいます。そのことと関係があるかどうかはともかく、人間の関わる行政も複雑に入り組んでいる、というわけです。
僕は、伊平屋島に於ける、トカラアジサイやヘツカリンドウの、不思議だとしか言いようのない特殊な分布様式に惹かれて、この島に通っています。島の山頂から南を眺めると、平らな伊是名島越しに、小さな屋那覇島が煌めいています。ここが無人島だったってことは、今回の報道で初めて知りました。もっとも無人島とはいっても、上記した洋上の孤島である各島とは違って、すぐ横の有人島に接した属島ではあるわけですが、中国人はこんなところにも目を付けます。 そのうち、上記の孤島群にも眼を向けられる時がやってくるかも知れません。
その辺りの事は、以前の現代ビジネスの記事を再読願います。
なぜ中国の地図には「国境線」が書かれていない場所があるのか(青山 潤三) | 現代ビジネス | 講談社(3/3) (gendai.media)
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Ⅹ
ブログのアップを保留にしていると、どんどん次の話題に遭遇して、執筆が追いつかなくなってきます。一昨日は、こんな話題がありました。伊平屋島・伊是名島の東に対置する、沖縄本島北部の与那覇岳での遭難記事。
ヤフコメ恒例の「山叩き」。
与那覇岳(498m、ただし最高点は数m上)で道に迷った72歳が、無事生還、という記事。
「年寄りは山登るな」「登山にはGPS必須」の合唱です。
マスクと同じですね。文明の利器(GPSとか)に頼り切ることで、本来備わっていた能力が喪失してしまいつつある。
「無いに越したことはない」そうかも知れないけれど「必須」となると、長い目で見ればマイナスの要因になってきます。
確かに山は怖い(「風邪」「ウイルス」が怖いのと同様に)。低山だって結構奥が深い(ことにこの界隈にはハブもいるし)。だからといって、リスクを避けることだけを考えていればいい、というのは、ちょっと違う。
僕も与那覇岳では何度も迷いました(正確に言えば敢えて道の無い山中を歩き回った)。様々な植物(メインはリュウキュウコンテリギ)をチェックするために。むろん細心の注意を払いながら。林道ある場所(の方向)を、常に他の稜線や谷の地形(国土地理院地図持参)を羅針盤のように見比べ把握しつつ前進していきます。GPSに頼りきっていれば、 そのような能力は失われてしまう。
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Ⅺ
(日本生まれの)パンダの香香が、中国に返還。おばさんたちが、悲嘆にくれています。なんかみっともないというか、、、。また会いましょう、とか言ってますね。成都の動物園で会うのね。そう思っているんだったら(成都まで追っかけて行くのなら)、もう一歩足を延ばして、野生のパンダに会いに行けばいいでしょうに。おばさん達には行けんでしょうね。行けないのじゃなくて行かない。本気で行こうと思えば行けるんだけれど。
僕のメインフィールドなのです(「东拉纪行2010年夏/四川省・雅安市・宝興県・隴東鎮・崇興村」読んで下さいね)。
コロナ規制が解禁になったら、行きます!