尾 藤 三 柳
もう一度、250年前8月25日に戻ります。
のちに「稀代の判者(点者に同じ)とか「前句の聖」とか称揚され、文芸がその名をもって呼ばれるほどの偉大な点者(選者)となった川柳(名前)ですが、250年前の第一回の開キは、まことに微々たるものでした。
万句合などといっても、この第一回の応募総数(寄句高)はわずかに207、入選句として発表された勝句にいたってはたった13という結果でした。
まだ海のものとも山のものとも知れない新人点者(選者)の上に、この種の催しには欠かせない前宣伝も充分ではなかったのでしょう。もし、川柳万句合が、以後もこんな状態を続けていたら、現在にいたる250年の歴史は、もちろんなかったはずです。
しかし、それからわずか5年後の宝暦12年(1762)には、毎年8月5日から10日ごとに年間15回の開キのうち1回だけで一万句を超えること3度、さらに17年隔てた安永8年(1779年)10月25日の開キでは、一回の総句高が25024を記録、勝句だけでも660という驚異的な数字を残しています。
この間の明和4年(1767)には年間のトータルが136615とすべて記録づくめで、押しも押されもしない第一人者の座を維持し続けました。
続く・・・。
もう一度、250年前8月25日に戻ります。
のちに「稀代の判者(点者に同じ)とか「前句の聖」とか称揚され、文芸がその名をもって呼ばれるほどの偉大な点者(選者)となった川柳(名前)ですが、250年前の第一回の開キは、まことに微々たるものでした。
万句合などといっても、この第一回の応募総数(寄句高)はわずかに207、入選句として発表された勝句にいたってはたった13という結果でした。
まだ海のものとも山のものとも知れない新人点者(選者)の上に、この種の催しには欠かせない前宣伝も充分ではなかったのでしょう。もし、川柳万句合が、以後もこんな状態を続けていたら、現在にいたる250年の歴史は、もちろんなかったはずです。
しかし、それからわずか5年後の宝暦12年(1762)には、毎年8月5日から10日ごとに年間15回の開キのうち1回だけで一万句を超えること3度、さらに17年隔てた安永8年(1779年)10月25日の開キでは、一回の総句高が25024を記録、勝句だけでも660という驚異的な数字を残しています。
この間の明和4年(1767)には年間のトータルが136615とすべて記録づくめで、押しも押されもしない第一人者の座を維持し続けました。
続く・・・。