城東の馬場
旧町名も馬場といわれた馬場が、城東二丁目、今の城東保育園と城東児童公園のところにあり、隣には桜川が流れていたそうです。水戸藩初代藩主・徳川頼房時代からあったそうですから、古いもののようです。幕末の地図にもありますので、長く続いたということなのでしょう。写真の赤沼町の碑は、道向かいの地をさしています。
田見小路の馬場
今の北見町にあるクリエートパソコン教室の少し気象台信号よりあたりから、大坂の道の信号までのところのようです。かつてこのあたりには、今の水戸八幡がありましたが、元禄7年(1694)徳川光圀によって那珂西に移されて、そのあとに馬場と矢場がつくられたのだそうです。この馬場も幕末まであったようです。写真奥に信号が見えます。
弘道館の馬場
徳川斉昭によって創設された弘道館には、馬場が2本つくられていたそうです。ひとつは、濠に沿った北の馬場で、140間(約250m)、もうひとつは三の丸庁舎西南の梅林あたりにあった南の馬場で、120間(約250m)あったそうです。写真上は北の馬場あたりで、車の並んでいるラインをのばした一帯のようです。写真下は南の馬場あたりです。
外にも吉田神社で流鏑馬(やぶさめ)が行われた馬場が、藤柄町にあったようです。水戸八幡では今も流鏑馬が行われているそうです。それらは、武家のものではありませんから、小さな規模のものだったのでしょう。写真は藤柄町です。