観音とも、明王とも考えられていたという馬頭観音は、ヒンズー教から仏教に取りいれられて菩薩となったものだそうです。多くは怒りの姿で、頭に馬の顔がついているそうです。これが、江戸時代に民間にひろまるうちに、馬の神様という信仰が成立して、馬が死んだときの供養や運送の安全を願うために碑が建てられるようになったようです。
数的には文化(1804-1818)・文政(1818-1830)・天保(1830-1844)期が多いそうで、馬頭観世音がほとんどのようです。馬頭尊は幕末から明治・大正にかけてが多いそうです。明治になって廃仏毀釈が行われたため、仏教から神道への転換が図られたようで、馬頭神とか馬力神といった碑が明治以降多くなったそうです。
海野庄一著「水戸の石仏」では、調査した石仏が674体で、そのうち91体が馬頭観世音、14体が馬力神で、地蔵、子安観音に次いで3番目の多さです。
馬頭観音、馬頭観世音、馬頭尊、馬頭明王尊、馬力神などの碑があります。ほかに、牛馬観音、軍馬の供養といった碑もあります。
馬頭観音(中央) 川又観音(川又町)
馬頭観世音 本行寺のそと(上水戸4-8-1)
馬頭尊塔(享和3年) 沼津ケ沢不動(東原1-2-20)
馬頭明王尊 和光院そと(田島町415)
馬力神 水戸四中(元吉田町1987-3)前三叉路