「致仕偶成」という詩歌の一つです。徳川斉昭が、天保15年(1844)に幕府から謹慎・隠居を命じられて駒込の屋敷に蟄居(ちっきょ)したときの作で自筆だそうです。
「たれこめて 長き日数となるあさニ いつかハ晴む 五月雨の中」と読むそうです。水戸市立博物館にありました。
4歳で孝経を読み、5歳で和歌を作り、9歳で鳥銃を習ったそうです。神童型ではなかったようですが、それでもじゅうぶんすぎる広い才能を持っていたのでしょう。
斉昭は手まり歌までつくっているそうです。「一ツトヤー 人目わびしき雪の暮/\ 群れ居るかもめも仙波浦/\(仙湖の暮雪) 三ツトヤー 蓑笠さゝえて青柳の/\ 雨の夜の渡守/\(青柳夜雨)」といった歌詞で、自身で選んだ水戸八景をうたっているそうです。
斉昭は、彰考館にある大日本史資料にも目を通していたそうで、好文亭の作庭についても、「庭作秘伝」、「山水野景図」、「山水築制之伝」、「作庭記(前栽秘抄)」などの書物を見て研究したそうです。いろいろな分野に、しかもたいへん細かいところまで、書物や聞書で知識を広げていたようです。
斉昭が自身で書いた偕楽園記の文章について、「未だ会沢(正志斎)、杉山(復堂)、青山量太(延光 延于長男)へ見せ申さず候えば、この上右三人にて、文章宜(よろ)しからざる処は遠慮なく申し聞かせ候様致したく、跡々(後々)へも残り候ことゆえ-」、「量介(延于(のぶゆき))事も国中にて一二の大儒に候えば、心付き伏蔵(腹蔵)なく申し聞かせ候」と、青山延于宛の手紙で書いているそうです。殿様として、こうした姿勢は珍しいのではないでしょうか。
甥である、京の公卿・二条斉敬(なりゆき 斉昭の姉が母)の関白就任祝いに、正殿と茶室を贈ったそうです。その際、手水鉢(ちょうずばち)には、水戸藩内真弓山で産出される寒水石でつくったものが送られたそうです。