西国は、近畿の2府(大阪、京都)、4県(兵庫、滋賀、奈良、和歌山)と岐阜県を指すようです。そこにある33ヵ所の観音菩薩を祀る寺々を巡拝する信仰習慣が古くからあり、巡拝の記念に石碑を建てたようです。ですから、以下は、西国三十三ヵ所供養塔と同じ性格の石碑なのでしょう。
西国巡礼供養塔(大日如来尊 飯富町36°25'45.1"N 140°24'49.9"Eあたり)
ここには、下の碑と並んでこの碑がたっています。天明4年(1784)建立の碑のようです。この前年に浅間山の大噴火があり、天明の大飢饉が起こった時期で、6代・徳川治保(はるもり)の時代のようです。上部にある梵字は阿弥陀や千手観音をあらわすキリークのようです。
奉納西国巡礼供養塔(大日如来尊 飯富町36°25'45.1"N 140°24'49.9"Eあたり)
上部の梵字はこれもキリークのようです。文化8年(1811)のように見えますが、8の数字は?です。このころは、7代・徳川治紀(はるとし)の時代のようです。大日本史の6割位である紀伝(紀は天皇の年代記、伝は臣下の伝記と外国の叙述)刻本(版木で印刷した本)が初めて幕府に献上されたのは文化6年(1809)だそうです。ただし、紀伝243巻の内26巻だそうです。
西国供養(仏性寺 栗崎町1984)
「明治七戌(いぬ) 七月十日出立」とありますが、碑が建てられたのは、その後そうとうたった、明治25年だったようで、台石にその年号と16名の名前が記してあります。上部の梵字は観音をあらわす、サのようです。
記念 西国巡拝(鹿島香取神社 小泉町36°20'34.5"N 140°34'08.6"Eあたり)
これは、「昭和5年 旧正月24日参宮」とあります。参宮というのは、たぶん、三十三ヵ所巡拝の途中に、伊勢神宮にも参拝したということなのでしょう。下部に12名の名前があります。
奉納西国(供養)?(駒形神社(黒磯町221)東側)
奉納西国の下は、たぶん「供養」のように感じられるといった程度です。コケが多くてよく見えないのですが、上部に3つの梵字があり、これはたぶん、上が主尊のキリーク(阿弥陀)、下は左からサ(観音)、サク(勢至)で、阿弥陀三尊をあらわしているのでしょう。こう見てくると、西国巡拝碑では、梵字の使い方が一定していないようです。日にちは「八月吉祥日」とあり、普通の碑にある吉日という書き方とは違ようです。下部には人名が並んでいるようです。グーグルマップでは加茂神社となっています。