幼い頃、父親の徳川頼房から、手習いを一日に何遍と定められていたそうです。その回数が多いので、かしこい光圀は、筆を2,3本持って、書く回数を減らしたそうです。写真は、徳川ミュージアム庭にある徳川光圀像です。
青柳の菊池家(今はたぶん東京在住)には、当主・七郎兵衛と酒を飲んだ光圀が書いた、「月下対酌」という漢詩が残っているそうです。そこには、「のんびりと嫁のお酌で気持ちよく美酒を飲み高枕で寝た」といった描写があるそうです。七郎兵衛の妻は、美人で学問もあり、光圀の碁の相手もしたそうで、光圀自身が七郎兵衛に、「たびたび遊びに来られては幾分焼けはしないか」といったという話が残っているそうです。
光圀は漢詩にことさら難しい語を使っているそうです。それは、昔から公家が武士を見下していたことに対する反抗意識があったのだろうという説があるそうです。
光圀は元禄13年(1700)に公家・中院通茂(なかのいんみちしげ)の70歳誕生日の祝いに、紅で「ふく(福)寿」と書いた100個の饅頭を贈ったそうです。依頼されたのは虎屋(東京都港区赤坂4-9-22)で、今、虎屋で普通につくられる饅頭の5倍くらいの大きさだそうです。光圀はこの年に死去しています。
元禄13年は、この年だけ千波湖の蓮の花が咲かなかったそうです。光圀が死去したのは12月6日(西暦では1701年1月14日)ですが、前兆だったのだろうといわれたようです。
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