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徳川光圀の話あれこれ(12)

2022-01-17 19:47:42 | 水戸


水戸市立博物館にあった、松平頼隆宛書簡に書かれた光圀の花押です。

 

 毎年元日の早朝には、直垂(ひたたれ)を着て京都の方を向いて拝したそうです。「我が主君は天子也、今将軍は我が宗室なり、あしく(間違って)了簡仕(りょうけんつかまつり)、とりちがへ申ましき(とりちがえないよう)」といっていたそうです。

 

 人形町にあった旧吉原が明暦の大火(明暦3年(1657))で焼けたこともあって、浅草に移るとき、水戸家の所有だった浅草千束の地を提供したそうです。水戸藩のゴミ捨て場だったとか。ただ、光圀の藩主就任はそれより後の寛文1年(1661)なので、どうかなとは思いますが、光圀のことと書いたものがありましたので、一応この話も加えておきます。

 

 光圀は藤井川で鮎狩りを楽しんだそうですが、その折、帰途に成沢村の加倉井家で休んだとき、粟餅(あわもち)を大変よろこんだそうです。そのため、加倉井家では、光圀お成りのときは必ず粟餅を出すようになり、その後、7代治紀(はるとし)、8代斉脩(なりのぶ)、9代斉昭お成りの際にも粟餅を出すのが例になっていたそうです。

 

 橘村の長島家に伝わる親鸞筆阿弥陀三尊像を光圀は嘆賞し、複製を画工に作らせたそうです。光圀はたわむれに、二つを並べて、どちらが汝の所蔵かと聞くと、あるじは、一方は笑みを含んで私を迎えてくれたと涙を出して真筆を選んだそうです。光圀は大事にするようにいってご褒美を与えたそうです。

 

 屋敷の中に薬室を設けて、各種の薬を調剤させたり、中国、朝鮮、オランダから来た薬を貯えさせて、士民の求めに応じて与えたそうです。

 

 隠居後、自分も綱條(つなえだ 3代藩主)の家来なのだから、群臣は同輩であるとして、小姓以上の人々に対面するのには、袴をつけたそうです。また、外出するとき、道行く人を止めさせたりすることを嫌ったそうです。

徳川光圀の話あれこれ(11)


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