ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の曲線(9)

2021-12-10 19:03:25 | 水戸

仏像光背(宝蔵寺 谷田町633)
 光背は、仏像の背部にある、仏から発せられる光をあらわすものだそうです。写真の光背の模様は、発する光が唐草文(からくさもん)のような渦巻き状の曲線で彫られていて、唐草光というようです。この光背全体は、蓮の花の花弁をかたどっていて、舟型光背というようです。

 

須恵器横瓶(すえきよこべ 埋蔵文化財センター 塩崎町1064-1 大串貝塚ふれあい公園内)
 米俵のような形をした横長の土器です。俵壺ともいわれ、酒器なのかもしれないそうです。古墳時代終末期7世紀の、藤井町ニガサワ古墳から出土した、静岡県で作られた土器のようです。きれいな曲線が見られます。

 

二の丸角櫓(すみやぐら)土塀(三の丸2-5-18)
 よく見ないと気がつかないくらいなのですが、上下左右に微妙に曲がっている角櫓の土塀です。気がつくと、いいなあと思う曲線です。

 

イイギリの根(百樹園 元吉田町2618-1)
 根は、石などの障害物を避けながら延びていくようで、いかにも植物らしい曲線を形づくっているようです。

 

遊具(若宮団地 若宮1-7)
 よくこれだけ複雑な曲線にした遊具をつくったなと感心しました。だいぶ前に設置された遊具のようです。私などは面白いと思うのですが、たぶん今なら絶対に作られない種類のものでしょう。

水戸の曲線(8)

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水戸の子安観音(7)

2021-12-09 21:18:23 | 水戸

 今回は建立年の分かる子安観音を選んでみました。

 

開江町(36°24'13.3"N 140°23'54.2"Eあたり)
 比較的古い白御影石の子安観音です。御影石は他の石と比べて硬度が高く、風雨に耐えるようで、古い石造物には御影石が多いような気がします。上部にある梵字はサと読んで観音菩薩をあらわすようです。たぶん安永2年(1773)の建立でしょう。

 

ウエルシア水戸御茶園通り店駐車場道路側(千波町277-6)
 不動尊、馬頭観世音塔など5つの石造物群の中にありました。文化9年(1812)に建立されたようです。ほぼ正面を向いて、両手で抱いた子どもを見ているようです。

 

鯉淵東薬師堂(鯉淵町862-1)
 顔を左に傾けて両手で子どもを抱いています。これが水戸では正面を向いた形の次に多い形のように感じます。文化2年(1819)に建立されたようです。

 

大串町宝性院墓地(大串町526-3)
 4体並んだ石仏の内にある子安観音です。面長の顔で、いかにも観音らしい感じです。天保9年(1838)とあります。

 

塩崎観音堂(塩崎町1398-1)
 この子安観音は珍しいかたちをしていて、右手に宝珠?を持って、左手で子どもを抱いているようです。子どもも宝珠に手をのばしているようです。嘉永7年(1854)とあります。

水戸の子安観音(6)

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水戸の古木(16)

2021-12-08 20:05:01 | 水戸

 ぼつぼつ200年を越す、ご紹介できる古木がなくなってきたようです。これからは100年代の古木がほとんどになるでしょう。現在は、明治になってから150年くらいですから、そのあたりで経過した時間を感じて下さい。樹齢表示は市の表示板にある数字ですが、指定された時からそれぞれに年月が過ぎているので、その分は足してもいいのでしょう。ただ、植えたりした年月が分かっている樹木は少ないでしょうから、もともとの数字が正確なものかというと、なんともいえないというのがたぶん本当のところでしょう。

 

クロマツ(小泉町)
 樹高5m、幹周1.02m、樹齢200年(平成8年指定)というクロマツです。今まで水戸で見たマツでは一番の古木です。

 

タラヨウ(元石川町)
 樹高17m、幹周1.67m、樹齢170年(昭和54年指定)というタラヨウです。もう実はだいぶ赤く色づいていることでしょう。報仏寺や百樹園の駐車場にもタラヨウがあります。

 

ケヤキ(薬王院 元吉田町682)
 樹高28m、幹周3.9m、樹齢170年(平成11年指定)というケヤキです。同じ樹齢でも、上のタラヨウと比べるとずいぶん大きいようです。

 

ツバキ(報仏寺 河和田町887)
 樹高8.5m、幹周2.1m、樹齢150年(平成7年指定)というツバキです。ツバキは散った花を見るのも楽しいものです。幹周2.1mというのは、たぶん根元の分かれていない幹(みき)部分の数字なのでしょう。

 

ヤマザクラ(鹿島神社 全隈町255)
 樹高12m、幹周3.0m、樹齢150年(昭和63年指定)というヤマザクラです。参道側にそうとう傾いてはえています。写真ではあまりよく見えませんが、満開の様子です。右奥に見えるのは後継のヤマザクラのようです。

水戸の古木(15)

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水戸の井戸(8)

2021-12-07 09:13:17 | 水戸

千波町
 玄関脇に掘られた井戸です。帰宅時や地震等万一のときに便利そうに見えます。

 

赤塚
 柔らかな、感じのいいデザインの井戸まわりです。蓋の上にはリスの像までありました。

 

赤塚
 ブリキのバケツを下げて、なかなかオシャレです。井戸の口にバケツをつるすためのフックがついていました。よく見ると上の井戸にもついているようです。

 

小吹町
 がっしりとした石を井桁に組んだ四角い井戸です。母屋と蔵の中間あたりにありました。どちらでも使いやすい場所を選んだのでしょうか。

 

徳川ミュージアム(見川1-1215-1)
 徳川ミュージアムの庭園にも角井筒(つのいづつ)がありました。ただし、この井戸は、崖下にある「光圀公御茶の水」の湧水をポンプアップしているようです。庭園内にある茶室で茶会を催すときに、崖下まで汲みに行かなくてよさそうです。今はこのあたりから先は散策できないようです。

水戸の井戸(7)

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水戸の柳河八勝

2021-12-06 09:30:13 | 水戸

 〇○八景(八勝)選びは、中国に源流があるそうです。中国北宋(960-1127)の時代、宋迪(そうてき)が洞庭湖周辺の名勝八ヶ所の山水画を描き、それが瀟湘(しょうしょう)八景(瀟湘夜雨、平沙落雁、煙寺晩鐘、山市晴嵐、江天暮雪、漁村夕照、洞庭秋月、遠浦帰帆)といわれて各地で流行したそうです。面白いと思うのは、日本なら花の景色が選ばれるはずですがそれがないことや、ほとんどが夕暮れから夜の風景が選ばれていることなどです。当時の知識人の好みが反映されているということなのでしょうか。中国では南宋(1127-1279)時代に流行は終わったようですが、それを輸入した日本では、徳川斉昭が天保4年(1833)に水戸八景を選んだように江戸末期も、さらに最近までも八景選びは続いてきたようです。日本人の好みにあった習慣なのでしょう。
 下は、平成18年に柳河小学校の創立130周年記念事業実行委員会「柳河八勝」部会が作成したという柳河八勝です。多くは名前の雰囲気を余り残していない風景になっているようですが、碑によってその名前の思い入れを想像することはできそうです。

 

日光冠雪(にっこうかんせつ 36°24'41.4"N 140°27'26.9"Eあたり)
  上河内(かみがち)町共同墓地の中にあります。北西に男体山を中心にした日光連山が見渡せる地だそうです。写真で山は中央左側奥のようです。

 

長堤夕照(ちょうていせきしょう 36°24'41.6"N 140°27'26.9"Eあたり)
 県道63号線端の竹林の中にあります。少し見つけにくいかもしれません。写真の背後が那珂川の堤防です。このあたりは那珂川の曲がる所で、道路に川が近づいています。

 

菜圃暮雪(さいほぼせつ 6°24'53.4"N 140°26'35.4"E あたり)
 那珂川の洪水で運ばれた肥沃な土壌が広がる地で多様な野菜作りが行われているそうです。写真左が一面に広がる野菜畑で、右が那珂川堤防です。

 

芸術館燦塔(げいじゅつかんさんとう 36°23'47.4"N 140°28'10.8"Eあたり)
 校庭の南西隅あたりに石碑があります。水戸市制100周年を記念して建てられたアートタワー(写真矢印)を見るのに、ここが万代橋と共に最高の場所と碑の解説にあります。

 

田毎名月(たごとめいげつ 36°23'59.5"N 140°28'04.1"Eあたり)
 水戸市柳河市民センターの駐車場にあります。写真、碑の奥手には、圃場整備の行われた田が広がっています。

 

小場江恵流(おばえけいりゅう 36°24'14.6"N 140°28'54.7"Eあたり)
 常陸津田駅と国道349号線の間の道路に沿う小場江堰の対岸にあります。小場江堰は、徳川頼房の時代、明暦3年(1657)に、永田茂衛門がはじめ下江戸あたりから那珂川の水をひいた農業用水路だそうです。

 

青柳夜雨(あおやぎやう 36°23'21.1"N 140°28'26.8"Eあたり)
 秋鮭遡上の碑すぐ近くにたっています。道を隔てた所に斉昭の青柳夜雨碑もあります。

 

秋鮭遡上(あきざけそじょう 36°23'21.2"N 140°28'26.4"Eあたり)
 那珂川の漁は江戸時代、菊池家が網代元という権利を持っていたそうです。菊池家は明治10年には日本で初めての鮭ふ化事業に成功したそうです。

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