ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の荒神

2024-09-05 21:38:56 | 水戸

 自然の持つ大きな力を体験した人間が、畏怖の思いから、神様を誕生させたのでしょう。その力には、豊穣をなどもたらす和、穏の部分と、災害などをもたらす荒、烈の部分があって、後者を神とした一つが荒神なのでしょう。そんな荒神信仰に、陰陽思想や密教、山岳信仰などが入ってきて、さらに、食や暖などの部分(和)と、火事の部分(荒)をもつ竈神(かまどがみ こうじん)という信仰も、読み方が同じということもあって合流したのでしょう。その結果、複雑で、あまり解明の進んでいないらしい神様ができてきたようです。荒神の姿は、日本独特なもので、インド、中国から入ってきたものではないそうです。

 

竃神社(かまどじんじゃ 本町1-2-6)
 江戸氏の時代には水戸城内に三宝荒神(さんぽうこうじん)という名前であった神社だそうですが、寛永3年(1626)に赤沼に、さらに、元禄3年(1690)に現在地へ移り、天保年間(1830-1844)に徳川斉昭が竃神社と改名したそうです。荒神を竈神にかえたというのは、農人形の斉昭らしいといえるような気もします。

 

三宝大荒神(五十嵐建設 城東3-1-78)
 上の竃神社が、今の地に移る前にあった地あたりに、屋敷神として祀られている荒神社のようです。たぶん、かつて、今の竃神社がこのあたりにあったことを示すためにも建てられたのでしょう。

 

三宝大荒神(西大野529)
 神額には、三宝大荒神、金刀比羅大権現と刻まれていますが、拝殿には、八坂神社、稲荷神社も併祠されているようです。三宝荒神は、三面六臂(顔が3、手が6)で、仏法僧の三宝を守護する神仏混淆の神のようです。

 

竃天神(茨城県立歴史館 緑町2-1-15)
 こうした竈神(かまどがみ、こうじん)がかつては、竈の上に祀られていたようです。私の生まれた家にもすすで真っ黒になった竈神がありました。

 

荒人神社(見川36°22'06.2"N 140°26'36.4"Eあたり)
 いつの時代にか「神」が「人」にかわってしまったのでしょうか。

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徳川光圀の話あれこれ(17)

2024-09-04 21:55:36 | 水戸

 鍼灸に対しては奨励していたそうです。中国の鍼灸の書「千金方」を、儒臣・人見卜幽軒(ぼくゆうけん)に和訳させたそうですが、人見が老齢で、進み方がはかばかしくないところを見て、徳川光圀自身も筆をとって手伝ったそうです。写真は、千波湖西岸にある大きな光圀像のもとになったという、水戸市役所にある像です。

 

 神崎(かみさき)に、数寄(すき)を好む老人がいたそうです。光圀が立ちより、茶を一服していったそうです。足が痛くて正座できない老人は、子供のような座り方で茶を点てたそうです。光圀は、茶入れに銘がないということで、横雲と名づけたり、あとから筑前産の茶釜・芦屋釜を贈ったりしたそうです。

 

 隠居後、藩内にある八牟知山にわけいった光圀は、知られていない桜の老樹を2本見つけ、一ト木桜、二タ木桜と名づけたそうです。それを聞き知った人たちは、その花見に出かけるようになったそうです。

 

 世の人は末期に辞世の詩歌などを書くが、場合によってはそれをできないこともあろう、自分は隠居して江戸をたったときに、綱條(つなえだ)に残した詩が辞世である、と常々いっていたそうです。

 

 隠居後のこと、一門の婚礼の席で、小謡をうたいだしたそうです。その謡の最後に、「只松むしの独寝(ひとりね)の」という部分があるので、どうなるかと周囲は思っていたそうです。光圀はそこにいたると、乱酒になっていて聞こえそうにないと思ったらしく、伸び上がって右手の指2本を高くかかげ、声高に、「只松むしのふたりねの」とうたったそうです。

徳川光圀の話あれこれ(16)

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水戸のご神木(6)

2024-09-03 21:55:36 | 水戸

大井神社(飯富町3475)
 本殿前のご神木のほかに、本殿左脇に万歩杉というご神木がありました。願いを込めて万歩杉の周囲を1万歩回ると、願いがかなうということです。

 

鹿島神社(成沢町1708)
 元は、成沢の今鹿島という地にあったものの廃社になっていたそうです。徳川斉昭が、今の地に、鹿島本宮から分霊を遷して、扁額を書き、太刀一振りを奉納したそうです。写真はスギのご神木です。

 

飯綱神社(東赤塚2173)
 鳥居入って右脇にあるスギのご神木です。市の保存樹に指定されていて、樹齢200年だそうです。

 

日鷲神社(金谷町227)
 水戸のご神木(3)でご紹介したスギのご神木のほかに、もう1本、ケヤキのご神木がありました。

 

香取神社(小吹町876-1)
 香取神社では、すでに枯死したご神木の根株を、屋根を懸け保存して祀っているようです。市の保存樹に指定されていたスギの1本のようです。指定されたのは昭和54年のようですが、たいへん大きな木だったようです。佐竹氏が水戸城を建設したとき、この神社の大杉を建材として使ったそうです。

水戸のご神木(5)

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水戸の難読地名(18)

2024-09-02 21:51:31 | 水戸

  今回は、「改訂水戸の町名」と「常澄村史地誌編」とにある小字(こあざ)名です。

青谷柵(おやざく) 旧・山根村成沢
 「あおや」の「あ」がなくなったのでしょうか。ネットなどで、地名や名字を見ても、そうした例はないようです。でも、水戸の小字名を見ていると、全く同じ例はないものの、省略で、「小塙」(旧・酒門村谷田)を「こばな」と最後の「わ」を省略する場合もあるようです。

 

囲際(かこえぎわ) 旧・緑岡村見和
 囲という字は、藩が囲い込んだということで、藩の狩場を意味しているような気がします。見和にはほかにも、囲裏(かこえうら)、囲後(かこえうしろ)という小字もあるようです。「囲え」は、「い」を「え」という方言なのでしょう。常磐村には、御囲道北(おかこえみちきた)、御囲道南(おかこえみちみなみ)という小字名があります。この場合の「御囲」がまさに狩場でしょう。

 

鵠田(くげだ) 旧・上大野村浜田
 鵠は、「くげ」と読むようですが、東京にも鵠沼(くげぬま)がありますので、読める人は多いかもしれません。クゲは、古語のククヒ(白鳥)から来たようで、白鳥が飛来する田という意味なのでしょう。今も水戸には千波湖などに白鳥がきますので、昔からよくきていたのでしょう。旧・上大野村中大野には、白鳥沼という小字があります。

 

部連山(へづれやま) 旧・大場村大場
 全国方言辞典を見ると「へつれ」は「崖下の通路。茨城県久慈郡。」とあります。このあたりに関連する語なのでしょうか。

 

夕暮田(ゆうげだ) 旧・下大野村小泉
 漢字を見ると、「ゆうぐれだ」が、「ゆうぐだ」になって、それが「ゆうげだ」になったという順路は考えられますが、どうなのでしょう。

水戸の難読地名(17)

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水戸で見かけた外国語表示の看板

2024-09-01 21:45:03 | 水戸

 最近、外国語で書かれた看板をよく見かけるようになったようです。実際に外国で使われたものの中古品や、複製としてつくられたもの、普通の日本語看板を外国語で書いてグローバル化の雰囲気を楽しもうとするものなどがあるようです。たぶん、見たところの新鮮さを楽しもうという趣向なのでしょう。以下は、それぞれが上のどれにあたるのかはよく分かりませんが、並べてみます。

 

スローチルドレン(イングリッシュスクール メルズ 千波町2293-2)
 子どもがいるのでスピードを落とすようにという、飛び出し注意をあらわすアメリカのロードサインのようです。英語学校としてはふさわしい看板でもあるのでしょう。

 

バイカーパーキングオンリー(海鮮料理 滝元 木葉下町403-4)
 バイク以外を駐めると壊しますと、乱暴な表現をしているようです。アメリカ流の過激ユーモアなのでしょう。

 

パーキングオンリー(元吉田町)
 フォード車だけの駐車許可ということなのでしょう。これも、それ以外は解体し、スクラップにして売却すると、上と同様に過激なことを書いているようです。

 

猛犬注意(元吉田町)
 CAVE CANEM(カウェー カネム)は、ラテン語で、犬に用心せよという意味だそうです。ポンペイで発掘された詩人の家などにあったモザイク画をモデルにした、猛犬注意の看板のようです。

 

パークプラッツ(元吉田町)
 これはドイツ語の駐車場看板のようです。

 

セキュリティーアラート(千波町)
 24時間監視の警告看板のようです。アルミニウム製のようです。

 

ノー自転車・スケートボード・ローラーブレード(泉町)
 ハリウッドサインCO.という会社の製品のようです。

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