ジョン・レノン & ポール・マッカートニー

2005-05-07 | 人物
PROLOGUE

意識的な部分はとことん鋭い。
無意識的な部分ではとにかくおかしい。
ジョン・レノンその人。

意識的な部分がブッ飛んでいる。
無意識的な部分は常識人。
ポール・マッカートニー。

この二人の両面が絡み合い、爆発し、全世界を
巻き込む革命が生まれたのは事実である。
それはビートルズというバンドの形をとっていたが
やはり全てはこの二人の関係に起因している。
ジョージ、リンゴ。不可欠なメンダーだ。
だが今回はコアの部分、レノン/マッカートニー
を掘り下げてみる。

ジョン・レノン & ポール・マッカートニー

二人が出会ったのは1957年7月6日土曜日。

午後4時28分。イギリス、リウ゛ァプール
ウールトン地区、セント・ピーターズ教会横の広場。
当日そこではバザーが行われており、ジョンは
クオリーメンなるバンドのギター、ボーカルとして
ステージに立っていた。
のどかな広場のステージで酔っぱらいながらの
演奏。革新的であった。
曲はデル・バイキングスの『カム・ゴー・ウィズ・ミー』。
ポールは傍観者としてそのステージを見ていた。
ポール、「これはガーデン・バーティー。でもあいつは
ガーデン・バラエティーじゃない。ロックン・ローラーだ」
「演奏に関しては50点以下」
とかなり冷静に分析している。
ジョン、16歳。ポール、14歳。

実際ジョンのギターテクニックは母親から習ったバンジョー
の弾き方そのままだった。そして歌詞も暗記している訳ではなく
その場のアドリブで押し切っていた。
だがバンドを率いロックする魂は
音楽マニア、ポールをしびれさせた。

午後6時47分。同教会ホール、バンドメンバーが
くつろいでいる中、共通の友人につれられポールが
入ってくる。
ジョン、「あのガキ、エルビスに似てなくもねぇな」
無言のままポールはジョンのギターを手にする。
そしてチューニングを合わせエディ・コクランの
『トゥエンティー・フライト・ロック』をルーズな
タッチで弾きはじめた。
演奏、歌どれも完璧だった。
ジョンの目はポールの指使いと動きに釘付けにされる。
一曲目が終わって間髪入れずジーン・ヴィンセントの
『ビー・バップ・ア・ルーラ』そしてリトル・リチャード
のメドレーへとなだれ込む。まさに核弾頭3本一斉投下。
ジョンはまともにくらわされた。
そして数分後にポールはホールを後にしている。

その夜ジョンは激しい葛藤に襲われた。
「あのガキをバンドに入れるかどうか」
ポールが入れば格段にレベルが上がる。
「完璧なロックロールバンドになれる」
が、「オレが2番になってしまう」
そして結論。
「あいつを入れよう。年下だから
バンドを仕切るなんて言わないだろう」

二人はここから始まった。
その後、バンド名をシルバー・ビートルズと改め
徐々に本格的な活動へと進む。
職人的ギタープレーヤー、ジョージ・ハリスン
はポールが連れてきた。当初、ジョンからすると
3歳下ということで全く眼中にない存在。
一方、美大仲間のスチュアート・サトクリフ
が一番大事な存在だった。ジョンが無理矢理
バンドに入れ、ベースを弾かせていたともとれる
不思議なメンバーだった。演奏も下手だった。
ポールとしては意味が分からない。
このあたりは映画『バック・ビート』を観れば良く分かるが
かなりジョン美化に傾いている。
ポールの訴えは至極当然であり、シンプルだ。
「最高のバンドを造ろうぜ」と。

結局、スチュアートはバンドを去りその後不幸にも
死んでしまう。精神的な支えを無くしたジョンは
相当に悲しむ。バンドとしても先がはっきりとしない
混沌とした時期であった。
そんな中、カリスマ・ジョンに夢中になった男
ブライアン・エプスタインがマネージャーとなる。
レコード店を経営するそこそこの資産家で
なにより経営感覚を持った人間だった。
只、あまりのジョンびいきに度々ポールは
キレている。

やがてEMI傘下のパーロフォン・レーベルと
契約が成立する
そこのプロデューサー、ジョージ・マーティン
は彼等のサウンドの持つ独特の魅力に可能性
を感じていた。

つづく


コメント
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