PROLOGUE
'00年の春に私はJBLのスビーカー、4312B MK 2と
型番は忘れたがサンスイのアンプを手に入れた。
欲しいものは全てが揃った。
その時点での音響設備は6畳程度の部屋にしては
申し分のないスペックだった。
当時、大滝詠一の『ア・ロング・ウ゛ァケーション』
をヘビーローテーションで流していた。
部屋を意識しだしてから、狂ったように模様替え
を繰り返した私だったが今回の配置はある意味
非常に落ちつく空間になっていた。
大学3年の夏を迎え就職活動の準備もその部屋で
行なった。前の模様替えから実に1年がたち、
'01年3月私は旅行へでた。中国シルクロード。
約2週間半程の日程であったと思う。
帰国し、家に着いた私は呟いた。
「部屋を壊そう」
マイ・ルーム 3
すっきりしたかったのだ。
そして大学の最後の年、学生のノリとともに
こだわりも捨て去ろうとした。
第一段、「音楽断ち」
部屋から全てのCD、レコードを出し遠く離れた
両親の経営する店の倉庫にしまった。
JBLのスピーカー、アンプもその店に譲った。
ここから部屋の解体作業は始まった。
私の部屋にはベッドしか置かないと決めた。
机、本等は屋根裏のスットッカーへ。
もちろんブチ込むのではなくそこを部屋として
使おうという計画だった。
旧来の私の部屋は、瞑想の間。
屋根裏は作業部屋。この明確なコンセプト
を忠実に再現しようと決めた。
部屋の中身を出す作業はまさに自分と
向き合うものだった。
新しさを求める私にとって、その作業は
ワクワクする程に新しかった。
約1ヶ月でその部屋は完成した。
まるで僧侶が佇むような空気があった。
頭が冴え渡るような気がした。
屋根裏部屋は、中腰でないといられない
天井の低さであったが、その空間に
本が溢れている光景はまさに
「籠るための部屋」だった。
新たな新境地で心弾んでいた私だったが
その直後の5月にとんでもないことが起こった。
大学の健康診断から、「肺の影」を指摘され
大きな病院で再検査をした。
「結核の疑い」とのことだった。青天の霹靂。
中国か?それともその前行ったニュー・オリンズか?
何はともあれ病気が病気なだけに私は即隔離された。
結局、検査の結果なにも出なかったが予防法で定められた
治療を1年間続けるハメになった。
強いクスリをのみはじめ、私の気分は徐々に
すさみはじめる。
検査入院から戻った時、自分の部屋がまるで
病院の一室のように思えた。
スッキリさせるはずの部屋は病んだ私を
狂気へと誘った。
大好きだった北の窓からの光も只寒々しく
ベッドしかない部屋で横たわる日々が続いた。
そして夏、私は音楽を求めレコード屋の
試聴コーナーにいた。
アンクル・クラッカーの『フォロー・ミー』
乾ききった体に音楽を注入していたその時
肺に激痛が走る。
翌日病院にいくと「肺気胸」と診断された。
即入院、すぐに胸に管を通されベッドから
動けない体となってしまった。
ここにきて私は両親にCDウォークマンを
運んで欲しいと頼む。音楽解禁だ。
そうでないとやっていけなかった。
欲しいアルバム名を列記し、妹に託す。
大滝詠一の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』
を久々に聞いて驚く程興奮した。それが
病室だったからかもしれないが、とにかく
音楽が嬉しかった。
タワー・レコードは正しい。
ノー・ミュージック、ノー・ライフだ。
逆らった私は愚かだった。
一週間半程で退院し、私は部屋に
Technicsのコンポを戻し、最低限の音楽を運んだ。
「全てどかす」ことに必死だった
私の頭はシンプルではなくねじ曲がって
いたのだと気付く。
この後も再び「肺気胸」になり手術を経験したり
結核治療のために等で、病院通いの日々だった。
しかし、病室でのノーマルな暮らし新鮮
だった。終盤には献立表の裏に絵を描くゆとり
もでてきた。そしてこんな生活の中でも就職は
内定をもらい、卒論も病室で仕上げられた。
'02年2月、病を克服した私はシルクロード帰り
にも増してふっ切れていた。
そんなさなか父から一言。
「家を安くで借りれるけど、一人暮らしするか?」
一人暮らし。
唐突に出てきた話に驚きつつも
未知なるものへの好奇心が
ふつふつと沸き上がった。
つづく
'00年の春に私はJBLのスビーカー、4312B MK 2と
型番は忘れたがサンスイのアンプを手に入れた。
欲しいものは全てが揃った。
その時点での音響設備は6畳程度の部屋にしては
申し分のないスペックだった。
当時、大滝詠一の『ア・ロング・ウ゛ァケーション』
をヘビーローテーションで流していた。
部屋を意識しだしてから、狂ったように模様替え
を繰り返した私だったが今回の配置はある意味
非常に落ちつく空間になっていた。
大学3年の夏を迎え就職活動の準備もその部屋で
行なった。前の模様替えから実に1年がたち、
'01年3月私は旅行へでた。中国シルクロード。
約2週間半程の日程であったと思う。
帰国し、家に着いた私は呟いた。
「部屋を壊そう」
マイ・ルーム 3
すっきりしたかったのだ。
そして大学の最後の年、学生のノリとともに
こだわりも捨て去ろうとした。
第一段、「音楽断ち」
部屋から全てのCD、レコードを出し遠く離れた
両親の経営する店の倉庫にしまった。
JBLのスピーカー、アンプもその店に譲った。
ここから部屋の解体作業は始まった。
私の部屋にはベッドしか置かないと決めた。
机、本等は屋根裏のスットッカーへ。
もちろんブチ込むのではなくそこを部屋として
使おうという計画だった。
旧来の私の部屋は、瞑想の間。
屋根裏は作業部屋。この明確なコンセプト
を忠実に再現しようと決めた。
部屋の中身を出す作業はまさに自分と
向き合うものだった。
新しさを求める私にとって、その作業は
ワクワクする程に新しかった。
約1ヶ月でその部屋は完成した。
まるで僧侶が佇むような空気があった。
頭が冴え渡るような気がした。
屋根裏部屋は、中腰でないといられない
天井の低さであったが、その空間に
本が溢れている光景はまさに
「籠るための部屋」だった。
新たな新境地で心弾んでいた私だったが
その直後の5月にとんでもないことが起こった。
大学の健康診断から、「肺の影」を指摘され
大きな病院で再検査をした。
「結核の疑い」とのことだった。青天の霹靂。
中国か?それともその前行ったニュー・オリンズか?
何はともあれ病気が病気なだけに私は即隔離された。
結局、検査の結果なにも出なかったが予防法で定められた
治療を1年間続けるハメになった。
強いクスリをのみはじめ、私の気分は徐々に
すさみはじめる。
検査入院から戻った時、自分の部屋がまるで
病院の一室のように思えた。
スッキリさせるはずの部屋は病んだ私を
狂気へと誘った。
大好きだった北の窓からの光も只寒々しく
ベッドしかない部屋で横たわる日々が続いた。
そして夏、私は音楽を求めレコード屋の
試聴コーナーにいた。
アンクル・クラッカーの『フォロー・ミー』
乾ききった体に音楽を注入していたその時
肺に激痛が走る。
翌日病院にいくと「肺気胸」と診断された。
即入院、すぐに胸に管を通されベッドから
動けない体となってしまった。
ここにきて私は両親にCDウォークマンを
運んで欲しいと頼む。音楽解禁だ。
そうでないとやっていけなかった。
欲しいアルバム名を列記し、妹に託す。
大滝詠一の『ゴー・ゴー・ナイアガラ』
を久々に聞いて驚く程興奮した。それが
病室だったからかもしれないが、とにかく
音楽が嬉しかった。
タワー・レコードは正しい。
ノー・ミュージック、ノー・ライフだ。
逆らった私は愚かだった。
一週間半程で退院し、私は部屋に
Technicsのコンポを戻し、最低限の音楽を運んだ。
「全てどかす」ことに必死だった
私の頭はシンプルではなくねじ曲がって
いたのだと気付く。
この後も再び「肺気胸」になり手術を経験したり
結核治療のために等で、病院通いの日々だった。
しかし、病室でのノーマルな暮らし新鮮
だった。終盤には献立表の裏に絵を描くゆとり
もでてきた。そしてこんな生活の中でも就職は
内定をもらい、卒論も病室で仕上げられた。
'02年2月、病を克服した私はシルクロード帰り
にも増してふっ切れていた。
そんなさなか父から一言。
「家を安くで借りれるけど、一人暮らしするか?」
一人暮らし。
唐突に出てきた話に驚きつつも
未知なるものへの好奇心が
ふつふつと沸き上がった。
つづく
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