2019年 管野千代子 写真展 「新天地の人々」
1月19日、管野千代子先生よりご案内を頂いた、大田原市で開催された先生の写真展へA&Kで伺いました。当日は、抜けるような真っ青の快晴、内陸の大田原市は放射冷却で、陽射しのあるところは幾分寒さも和らぎますが、日陰は底冷えのする冬らしい寒さでした。
開催三日目の土曜日、「お手伝い」の名目なので、10時開場の少し前に「那須野が原ハーモニーホール」駐車場に着きました。コンクリート打ちっ放しの建物は、パイプオルガンを設置した大ホール、小ホール、交流ホール、2つのギャラリーを配置して、市民の芸術性を高め、地域住民交流の場の拠点のようです。交流ホール横の屈曲したスロープを上り詰めたところが、写真展が開催されている「第2ギャラリー」でした。すでに、先生とお手伝いの女性の方が一人、受付の準備をされているところでした。
(管野千代子 写真展 案内葉書)
(写真展受付前のお祝いのラウンドブーケと先生のプロフィール)
午前にお一人、午後にお二人のお手伝いの女性の方々が、受付をされていました。皆さんは、(先生の)旦那さんの浪江時代のお仕事関係の皆さんと伺いました。やはり、那須周辺へ移住された原発被災者の方々でした。
掻い摘まんだお話を先生より伺ったところによると、
「東日本大震災による原発事故以来、相馬・福島と移転、那須塩原に居を定めて4年余り、移転の合間をぬって、故郷に近く原発事故により全村移転の憂き目を見た飯舘村の過去・現在の有様を、多くのボランティアとメディアの力を借り、各地各場所の写真展を通じて、その恐ろしさを訴えてきました。移住先と定めたこの那須塩原の地にも、多くの故郷・浪江町を追われた方々が、おりました。新たな移住先にも、新しい生活があり、新たな人々との出会いがありました。地元有力紙の下野新聞の方よりお話を頂き、そのご後援により、今回の写真展が実現しました。全くの真新しい環境の中で、不安を抱えた被災者を優しく迎え、受け入れていただけた地元の方々、その喜びを表現し、感謝の意味を込めて、また、この写真展を、各地に散ってしまった同郷の皆さんの思い出を語り、近況を知り合える一つの場となってもらえる事を込めて、開催しました。写真展会場は、片側が新天地での新しい出会いの人々、もう片側は、3.11以後の飯舘の地と被災者のその後の近況を撮したものです」。
(写真展は、二つの大きなテーマがありました)
その日の晩の夕食は、先生ご夫妻と浪江町縁(ゆかり)の実業家と医者の方、それぞれのご夫妻の三家族の方の中に、お招きいただきました。更なる復興を目指し、現地・彼の地で精一杯の役割を務められる方達のお話は、晩餐会場に私たちが取り残される時間まで、続きました。
Aは、縁(ゆかり)の方々との会食の話を、事前に先生より伺っておりましたので、ブログ原稿より、「アニメ「浪江町消防団 無念」を見てきました」と「憂郷の町民の思い」の2部をそれぞれの方へ差し上げる積もりで用意、宴席でお渡ししました。A&Kが、それぞれ相馬出身ということで、大分盛り上がったことは、言うまでもありません。
翌日、A&Kは福島市内を所用で訪問、夕方、6時過ぎに無事帰宅しました。
後日、先生より連絡を頂きました。写真展は、地元那須塩原の方々と、浪江町から訪れた人、遠隔地へ移住された出身者、市内在住の移住者、他写真展訪問者、等々の多くの人々が来られて、盛況に終始したとの事でした。
また、Kに連絡を頂いた日は、先生より「これから、写真展を盛り上げて、お手伝い頂いた方々と、打ち上げ会よ!」と、当日のお礼と共にの報告でもありました。