2022年12月21日の出来事
8月頃、Kの方に実家の義兄さんの体調が悪く、手術をするかもしれないと知らせがあった。その前後Kには実家や親族より逐一細かい状況を知らせる話がラインで入ってきているようでした。手術が近づくにつれ田舎からの話は、次第に深刻な内容のものになり始めました。「実は!」とAにも驚天動地の内容がKの口から出ました。コロナ禍で2年前の元気な様子を最後に、「収まってから!」訪問と実家とは連絡をKが取り合って、何くれと無く情報交換をしていたようですが、実家では事が進行していたようです。手術が終わっても、ますます重い話が伝わってくるようになり、11月末に二人で行くことになりました。聞いてはいましたが2年前とは全くの別人で、唖然として言葉が出ませんでした。義弟として40年近い交誼をつむぎ、随分お互い好きな酒を酌み交わしました。近年は、徐々に酒量が落ちていき、A&Kで帰省した時に飲酒するだけになっていたようです。もしかしたらこれが最後の…という帰埼当日、義姉さんが「どうしても ゛土産に海苔の佃煮を持たせてやれ ゛とお父さんが頑固に言うので、~ちゃんに買いに行ってもらったの!」と、Kに包みを渡しました。Kは「あの時、無理矢理所払いされたのは、この事だったのね!」と、ハンカチで目を拭っていました。義兄さんの手を強く握ると、見掛とは違う驚くほどの力で握り返してきました。この時が義兄さんとの最後の別れとなりました。
いよいよ「危ない!」と連絡が入り、Kは4日間再帰省し、「もう思い残すことは無いわ!」と4日目に帰埼するKが常磐線に乗っている頃、義姉さんより連絡が入りました。「Kさんが電車に乗ってからすぐだったわ!」。
21日午前中、朝食を済ませ昨晩用意しておいたメール便を地元郵便局に届け帰宅する時でした。両手でブレーキを掛けた時「ガチッ!」と右手に小さな衝撃を感じ、「おっとっと」とフラつきました。右ブレーキのインナースチールワイヤーが、ブレーキレバーに引っ掛かるタイコの部分から切断していました。中学生から60年近い自転車ライフの中で、初めての経験です。付き合いの長い期間はドロップレバーですが、切断経験はありません。今回フラットレバーの丸いタイコ切断ですが、ウェブサイトでググると、案外、タイコの切断はあるようでした。それでも、初めての経験で事故には繋がりませんでしたが、ちょっとショックで驚き、思わず切断箇所と時間の記録として郵便局の領収書を撮影してしまいました。午後に、Kより23日に帰宅する旨の連絡がありました。
23日午前中、「常磐線に乗車しました」とKのメールの後、数十分後「亡くなった!」と義姉さんからA直接に電話が入りました。「本人には帰宅してから話します」と伝えました。「あと1時間かな?」と思っているところへ、Kより「駅に着いた」と連絡が入り、慌て迎えに行くと、「水戸より上野へ向かっていた特急が遅延により、途中駅柏に停車。開く予定の無いドアが開いて下車して良いことになったので、柏経由で大分早く到着できた」とのKの話でした。今日も含め、ここ一両日珍しい事が連続したことになります。
(切断した右側インナースチールワイヤーケーブル)
(切断した自転車の左側インナースチールワイヤーケーブル)
(滅多に無い事なので記録としての郵便局の領収書)
ご不幸や弔事があった時、理由の分からない話や事象が起こると、思い出す事があります。
16年前、2ヶ月ほど入院していた母の体調が急変、出勤途中に病院に呼び戻されました。意識の無くなった母を前に担当医より親族に連絡するよう促され、当時、旦那さんの転勤で神戸に在住していた妹に連絡を入れました。自宅との往復でバタバタする中、Kが言い出しました。「今朝、二階の和箪笥の蝶番(ちょうつがい)が外れたの! 何かの前兆だったのかしら?」。「そうかもしれない!」と相づちを打ちながら、そのことは雑事に紛れてそのままになった。午後、神戸より駆けつけた妹が言い出した。「出掛けに下駄箱の蝶番が外れたのよ!」と。Aは「魂は千里を走る」とう言葉を思い出しました。