塾講師をしているとき特に国語は困った。
設問を読んで本文から答えを自分で探しなさい、としか言いようがない。
答え合わせをしているときなんか、
設問を読んで、答えは本文のココに書いてあるねーって場所教えていくだけみたいな…
もうみんな各自解説付きの答えを読めばいいだけじゃない?みたいな。
この話(「九月の海で泳ぐには」)は、そんな気分を思い出させる箇所があった。
周作はまず子どもたちに、試験問題として立てられた問いは、
かならず「閉じた系」であるということをしっかり理解させる。
設問が開いていると、一つの問いに一つの答えという、試験問題の鉄則が
守れないからだ。
(中略)
書いてない部分を、子どもたちは推測しようとする。
その推測は、概ね妥当なものだ。しかし入試問題というのは、
回答者の推理能力を問うものではない。
書いてあることから判断して、何が言えるかを問うているのである。
考えてはいけない。推論してはならない。とにかく目を皿のようにして
文章を読みなさい。
(『もしも私が、そこにいるならば』より「九月の海で泳ぐには」
片山恭一著 小学館)
ここに書いてあるのは正しいと思う。
でもなんだかなぁ。。。
生きていくには考えることの方が大事なのにね。
て思ってたけど、そういうのは道徳の時間で習ってたんだっけ?
そうか。
たとえば「走れメロス」とか同じ教材を使ったとしても
根本的に教える内容が違うってわけね?
知ってたようで、今の今まで混同していたかもしれない。
設問を読んで本文から答えを自分で探しなさい、としか言いようがない。
答え合わせをしているときなんか、
設問を読んで、答えは本文のココに書いてあるねーって場所教えていくだけみたいな…
もうみんな各自解説付きの答えを読めばいいだけじゃない?みたいな。
この話(「九月の海で泳ぐには」)は、そんな気分を思い出させる箇所があった。
周作はまず子どもたちに、試験問題として立てられた問いは、
かならず「閉じた系」であるということをしっかり理解させる。
設問が開いていると、一つの問いに一つの答えという、試験問題の鉄則が
守れないからだ。
(中略)
書いてない部分を、子どもたちは推測しようとする。
その推測は、概ね妥当なものだ。しかし入試問題というのは、
回答者の推理能力を問うものではない。
書いてあることから判断して、何が言えるかを問うているのである。
考えてはいけない。推論してはならない。とにかく目を皿のようにして
文章を読みなさい。
(『もしも私が、そこにいるならば』より「九月の海で泳ぐには」
片山恭一著 小学館)
ここに書いてあるのは正しいと思う。
でもなんだかなぁ。。。
生きていくには考えることの方が大事なのにね。
て思ってたけど、そういうのは道徳の時間で習ってたんだっけ?
そうか。
たとえば「走れメロス」とか同じ教材を使ったとしても
根本的に教える内容が違うってわけね?
知ってたようで、今の今まで混同していたかもしれない。