NHKスペシャルでミラクルボディーというのをやっていた。
その第3回ハイジャンプ。
人は翼がなくても飛ぶことができる。
身体の持つ跳躍力って奴で空を目指すことができる。
25年間、飛ぶことが好きでハイジャンプをやってきた選手がいる。けして背が高い訳ではなく、恵まれた身体的条件を備えている訳じゃない。
しかし誰よりも飛びたい、その思いを強く持った選手がいる。
かたや、1年半練習しただけで一躍、時の人となる選手がいる。身体的特徴がハイジャンプに向いていた。その理由が彼を栄光へと向かわせる。
元々バスケットボールをやっていた選手は、あまりに高くシュートを決めるので、「やってみたらどうだ」と人から勧められ気楽に始めたハイジャンプだった。
この選手のフォームが変っている。
水平に置かれたバーを飛ぶ時、ハイジャンプは起こし回転と呼ばれる飛び方をするのが普通らしい。
つまり棒の片端が地面につくと、その反動で、もう1度棒が跳ね上がる。その跳ね上がる力を借りてバーを越える飛び方だ。
飛び跳ねてる棒を想像していただけるといいのかもしれない。
前者の選手は長い訓練によりそれができている。美しいフォームを手に入れている。
しかし後者の選手は、踏み切りもバーに近すぎるし飛び上がってバーを跳ぶときですら足をバタバタさせた自己流フォームで美しいとは言えない。
走り高跳びをしてきた選手からすると、走り高跳びのセオリー外の飛び方をする。
後者の選手の跳び方は持って生まれた身体特徴をそのまま利用しているだけだ。
脚力の強さで飛んでいるのであり、助走はなんの意味もなしていない。
しかし飛べてしまう。
それが天賦の才というものだろうか。
努力なのか、天賦の才なのか。
人はもって生まれた能力を最大限に生かすことによりその可能性を高めることができるのか。
それならば努力とは何になるのだろう。誰よりも高く飛びたいと思っていても身体的能力が低いのであれば、努力とはなんだろう。
ハイジャンプにとってその翼はアキレス腱となるらしい。
前者の選手は長い間鍛えられた硬いアキレス腱が翼となっている。どれだけ助走をつけようとその硬いアキレス腱により全ての衝撃を吸収できる。その吸収した力を反動として高く飛び上がる力に変えることが可能となる。
後者の選手は生まれつき長いアキレス腱を思っている。長いアキレス腱も瞬時に高く飛び上がることを可能とする。彼が助走の力を借りなくても飛び上がることができる理由がここにある。
やはりもって生まれた身体的特徴が彼を支えている。
そして後者の選手はジャンパーが飛んでいるのではなく、バスケットの選手がダンクシュートを決めるつもりで飛んでいるという。
彼はバスケット選手であっても、ジャンパーではない・・・本人の意識の中にその思いが強いのだ。
ただ勧められたから、たまたま軽く関門をクリアーできてしまったから、飛んでいるに過ぎない。
よく役者でも作家でも自分でなりたいと言った者より、人からやればいいじゃない、と進められた者の方がいいって言われることがある。
自分がしたいと思う情熱があったにしても。
それが誰より強かったとしても、それがプロとして通用するとは限らない。
本人の自己満足だけの世界に終わる能力しか持ち合わせてないかもしれない。
けれど、誰かに「いいよ、やってみなよ」と勧められるということは、第1の関門を既にクリアーしてることだと思う。
誰かに、いいよー、面白いよーって言ってもらえることが仕事だから。その素養はあるんだよ。後からじゃやってみようかなって本人の情熱がついてきたらこんなに強いものもないと思う。
ハイジャンプの2人の選手だけど。
25年間好きでコツコツ練習してきた選手がやはり優勝を勝ち取るようになる。
後者の選手に動揺が生まれる。
腰掛感覚でいたのに。彼には鍛えれば身体能力を最大に活かし必ず世界1になれる可能性があると、そこまで伸びる筈だと予測が出ていたのに。
負けることを知り、彼が本気でハイジャンプに向き合う瞬間が来たのだ。
恵まれた身体特徴にやりたいと、頑張れば世界1になれる可能性を賭ける彼のハイジャンプはより変化するだろう。
その時にこの2人のジャンパーはどんな勝敗を迎えることになるのだろうか。
やりたいとコツコツと続ける努力か。
もって生まれて能力に意志が加わる時か。
その答えはまだ先にならないと判らない。
いろんな望みの叶え方のアプローチはあると思う。
ライバルがいることも大切だ。
両者にとってよい結果が出ることを望むしかない。
人は己の意志で選ぶ時、そこに始めて何かを成し遂げた実感を得るのかもしれない。
その第3回ハイジャンプ。
人は翼がなくても飛ぶことができる。
身体の持つ跳躍力って奴で空を目指すことができる。
25年間、飛ぶことが好きでハイジャンプをやってきた選手がいる。けして背が高い訳ではなく、恵まれた身体的条件を備えている訳じゃない。
しかし誰よりも飛びたい、その思いを強く持った選手がいる。
かたや、1年半練習しただけで一躍、時の人となる選手がいる。身体的特徴がハイジャンプに向いていた。その理由が彼を栄光へと向かわせる。
元々バスケットボールをやっていた選手は、あまりに高くシュートを決めるので、「やってみたらどうだ」と人から勧められ気楽に始めたハイジャンプだった。
この選手のフォームが変っている。
水平に置かれたバーを飛ぶ時、ハイジャンプは起こし回転と呼ばれる飛び方をするのが普通らしい。
つまり棒の片端が地面につくと、その反動で、もう1度棒が跳ね上がる。その跳ね上がる力を借りてバーを越える飛び方だ。
飛び跳ねてる棒を想像していただけるといいのかもしれない。
前者の選手は長い訓練によりそれができている。美しいフォームを手に入れている。
しかし後者の選手は、踏み切りもバーに近すぎるし飛び上がってバーを跳ぶときですら足をバタバタさせた自己流フォームで美しいとは言えない。
走り高跳びをしてきた選手からすると、走り高跳びのセオリー外の飛び方をする。
後者の選手の跳び方は持って生まれた身体特徴をそのまま利用しているだけだ。
脚力の強さで飛んでいるのであり、助走はなんの意味もなしていない。
しかし飛べてしまう。
それが天賦の才というものだろうか。
努力なのか、天賦の才なのか。
人はもって生まれた能力を最大限に生かすことによりその可能性を高めることができるのか。
それならば努力とは何になるのだろう。誰よりも高く飛びたいと思っていても身体的能力が低いのであれば、努力とはなんだろう。
ハイジャンプにとってその翼はアキレス腱となるらしい。
前者の選手は長い間鍛えられた硬いアキレス腱が翼となっている。どれだけ助走をつけようとその硬いアキレス腱により全ての衝撃を吸収できる。その吸収した力を反動として高く飛び上がる力に変えることが可能となる。
後者の選手は生まれつき長いアキレス腱を思っている。長いアキレス腱も瞬時に高く飛び上がることを可能とする。彼が助走の力を借りなくても飛び上がることができる理由がここにある。
やはりもって生まれた身体的特徴が彼を支えている。
そして後者の選手はジャンパーが飛んでいるのではなく、バスケットの選手がダンクシュートを決めるつもりで飛んでいるという。
彼はバスケット選手であっても、ジャンパーではない・・・本人の意識の中にその思いが強いのだ。
ただ勧められたから、たまたま軽く関門をクリアーできてしまったから、飛んでいるに過ぎない。
よく役者でも作家でも自分でなりたいと言った者より、人からやればいいじゃない、と進められた者の方がいいって言われることがある。
自分がしたいと思う情熱があったにしても。
それが誰より強かったとしても、それがプロとして通用するとは限らない。
本人の自己満足だけの世界に終わる能力しか持ち合わせてないかもしれない。
けれど、誰かに「いいよ、やってみなよ」と勧められるということは、第1の関門を既にクリアーしてることだと思う。
誰かに、いいよー、面白いよーって言ってもらえることが仕事だから。その素養はあるんだよ。後からじゃやってみようかなって本人の情熱がついてきたらこんなに強いものもないと思う。
ハイジャンプの2人の選手だけど。
25年間好きでコツコツ練習してきた選手がやはり優勝を勝ち取るようになる。
後者の選手に動揺が生まれる。
腰掛感覚でいたのに。彼には鍛えれば身体能力を最大に活かし必ず世界1になれる可能性があると、そこまで伸びる筈だと予測が出ていたのに。
負けることを知り、彼が本気でハイジャンプに向き合う瞬間が来たのだ。
恵まれた身体特徴にやりたいと、頑張れば世界1になれる可能性を賭ける彼のハイジャンプはより変化するだろう。
その時にこの2人のジャンパーはどんな勝敗を迎えることになるのだろうか。
やりたいとコツコツと続ける努力か。
もって生まれて能力に意志が加わる時か。
その答えはまだ先にならないと判らない。
いろんな望みの叶え方のアプローチはあると思う。
ライバルがいることも大切だ。
両者にとってよい結果が出ることを望むしかない。
人は己の意志で選ぶ時、そこに始めて何かを成し遂げた実感を得るのかもしれない。