「大阪水曜ほっと集談会」公式ブログ

3月19日(水)14時~・3月18日(火)20時~(ZOOM)にてリモート集談会を開催します

太陽は私にも注がれていた!

2023年05月31日 18時43分46秒 | コラム 



大阪水曜ほっと集談会一世です。

紫陽花に、なぜか心惹かれる私です。

紫陽花が綺麗に咲くためには 太陽の光だけではダメなのです 。

梅雨の激しい雨が必要なのです。

紫陽花の花に、とらわれて出口の見えない苦しみに翻弄されていた、10代の頃の自分が重なるのです。

雨に打たれてばかりいたと思っていたが、光は私にも注がれていた。

ふと、そのような思いが心を過りました。

スピリチュアルな話ではありません。

私にも太陽の光が燦々と注がれていたのです。

気づかなかったのはただ一人 私だけでした。

なぜ今それに気づいたかと言いますと実はこれも集談会のおかげなのです。

皆さんに森田という光が注がれているのを感じるのです。

ただ皆さんがそれを自覚されるのは先のことになります。

これが理解できない間は森田の学びをやめないで下さい。

生老病死の問題に一歩踏み込めない、理論として感情に訴えかけるだけの森田には何の関心も興味もない一世です。

森田を学べば学ぶほど生死一如を感じます。

今日の森田博士の言葉

せんじつめれば、あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がない、あるがままでなければならない、とかいうことになる。



2023.5.31 一世

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加齢(華麗)なる日々と森田的生活!

2023年05月30日 07時18分38秒 | コラム 


大阪水曜ほっと集談会一世です。

関西が梅雨入りしたようですね。

雨や曇りになると、とても心が落ちつきます。

さて加齢(華麗)なる日々を森田とともに 二人三脚でトボトボ と歩いている私です。

今更ですが、ようやく「生活の発見」という意味が分かりました。

日々、若い頃には見過ごしていた、何かしらの発見がありそれを楽しんでいます。

今年は特に季節の移ろいが、はっきりと心に刻まれるようになりました。

ところで最近ちょっと嬉しいことがありました 。

この訳のわからんブログを「見ています、 これからもどんどん発信してください 」というメッセージを頂いたのです。

このブログを開設して苦節10年で3人ぐらいの方からこのような嬉しいコメントをいただきました。

皆さん苦しみから深く森田を学んでおられて、優しい方ばかりです。

まもなく延べ 閲覧数が13万人になり、延べ 訪問者数は既に8万6千人を超えました。

今まで大きな問題もなく、されとて大きな関心を得ることもなく潜伏期間10年です。

ところで 森田療法とは私にとって一体何だったのでしょうか?

辛く苦しいやるせない日々、 その日1日を仕方なくなんとか生き切るための杖であったような気がします

すでに給与は半減し住宅ローン 完済までまだあと5年、ATM の機能がすっかり低下し、配偶者への視線恐怖も相変わらず克服できていません。

それでも神経質センサーが外界に働き、私はとても幸せを感じています。



2023.5.30 一世




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今を輝いて生きるために!

2023年05月29日 07時33分14秒 | コラム 


大阪水曜ほっと集談会一世です。

コロナ禍後の社会で人と会うのが辛いと感じる若者が増えているという。

コロナという隠れ蓑が無くなった途端、本当の自分と向き合うことに不安やためらいを感じることは何となく理解できる私です。

コロナを神経質症状に置き換えた時それはより鮮明になることでしょう!

でもここからが本当の出発点ではないかという気がしています。

今日のタイトルは、龍谷大学大学院教授で外科医の田畑正久氏の「今を輝いて生きるために」よりいただきました。

仏教と医療の協力関係の文化を創るという取り組みをされています。

氏の法話を直接聴かせていただきとても共感させていただくことがありましたので、森田とはジャンルが違いますがこのブログで取り上げさせていただきました。

以下「今を 輝いて生きるため」により

※脳の意識は思考する時に向こう側に見る( 対象化)というところで いつの間にか自分が切り離されているために私を含めた全体を見る視点を失うという弱点を抱え込んでいるようです。

私の身と心を合わせて なおかつ 私の周囲をも一体として全体が見える時あるがままをあるがままに 見ていると言えるのです このような視点での受け取りができないのを仏教は迷いというのでしょう。※

近年の研究では脳は司令塔ではなく、各臓器に情報を発信する広報のような役割をしていると言われれています。

したがって脳が間違って情報を発信するとそれに各臓器が過剰に反応する。

極論ですがこれが心身のアンバランスを生み鬱や自律神経の乱れを引き起こすのかもしれません。

まあ、素人のたわごとですが。

ところであるがままという概念は森田療法に限ったものではありません。

すでに何百年も前から仏教では自然法爾という思想に表れていますし、近年ではビートルズのLet It Be(レットイットビー)やディズニー映画「アナと雪の女王」の主題歌Let It Go(レットイットゴー)にもその思想が地下水のように流れていると感じます。

最後に日本心理学会機関紙「心理学ワールド」において、「森田療法におけるあるがまま」について考察された久保田幹子教授のデジタル記事を紹介させていただきます。

※森田が述べる「あるがまま」とは,不安のやりくりは不可能な努力とし,事実は事実としてそのまま受けとめる姿勢と同時に,生の欲望に従って日常生活に関わる姿勢を促すといった二つのメッセージを含んでいる。※

様々な視点であるがままをとらえることは、とかく自助グループ内で語られることがすべてのような誤解を払拭することにつながり森田療法そのものの多様性につながると感じる一世です。

2023.5.29 一世

※田畑正久氏著 「今を輝いて生きるために」樹心社発行
※久保田幹子氏 法政大学大学院人間社会研究科臨床心理学専攻 教授 公益財団法人日本心理学会機関誌「心理学ワールド」より抜粋



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リハビリからリカバリーへ

2023年05月28日 06時38分58秒 | コラム 

大阪水曜ほっと集談会一世です。

最近あるメンタルヘルスの講座を受講している。

一般向けの講座ということもあり森田療法の森の字も出てこないのが不満であるが様々な学びがある。

特に 臨床の現場で日々悪戦苦闘されている精神科医の方には専門家としての深いジレンマがあることが伺い知れる。

自助グループとは全く立ち位置が違う。

やはり患者をある一定期間内で治さなければならないというプレッシャーがあり再発へのジレンマが拍車をかける。

現実はやはり抗うつ薬や抗不安薬だけでは治らない患者がいるのも事実であるが薬を使わざるを得ないのが現実である。

減薬させたいが再発とのバランスが難しいのが本音であると思った。

そんな中で今精神医学の流れの中でリハビリという考え方からリカバリーという考え方に変わっていると言われたことはとても共感できた。

精神保健福祉分野で言われるリカバリーとは回復ではなく、精神疾患を持つ患者が自己実現や生き方を主体的に追求するプロセスのこと。 

私も常々森田療法はリハビリの側面もあるが、主眼はリカバリーではないかという思いがあった。

具体的には 症状を発症する前の自分に戻るのではなくて症状から何かを学び従来の生き方を変え、新しい価値観を見いだすことが森田ではないか、というような思いがあったのでとても共感をさせていただいたのである。

自助グループで陥りやすいことは例えば中途半端な知識で森田療法がすべての精神疾患に対応できるかのような誤った発想である。

森田博士自身が、私の療法で治るのは神経質のみであると断言されている。

そういうことをわきまえることは大切だと思う

以下は私の勝手な思いであり感想である。

親の仇のように言われているかくあるべし思考及び 思想の矛盾についてであるが、私は 様々な精神疾患を考える時に自ら治そうとする発想がとても大切ではないかと思う。

自ら良くなりたい、治したい、変化したいという思いがなければやはり治療が難しいと思う。

かくあるべし思考がすべて悪いわけではない。

それは諸刃の剣であり、大切なのはバランス感覚ではないだろうか?



2023.5.28 一世 

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続、神経質を伸ばす!

2023年05月27日 07時18分59秒 | コラム 


大阪水曜ほっと集談会一世です。

1年前にも同じタイトルで投稿しましたので続を付けました。

それぐらい気に入っている言葉です。

今日のタイトルは、「そのままのあなたですべてよし―私の森田人間学―」からいただきました。

読むたびに深い気付きをいただく私です。

神経質を伸ばす。

いまもっとも心にしっくりとくる言葉です。

最近アドラーから森田へ軸足を戻している私です。

神経質は変えるものでも治すものでも乗り越えるものでもなかった。

私たちは神経質を伸ばしていく過程で一番心の満足を得られるのかもしれないと思う日々です。

同様に私は幼弱性は打破などできない、幼弱性はこれを育むものであると言いたい。

子供が笑うそれだけで何かしら幸せな気持ちになる私です。

人が成熟するとはどういうことなのでしょうか。

私は未だに自分が人間的に成長したとか、大人になったという気持ちが全くしないのです。

むしろ そうなることを意識的に遠ざけて来たような気がします。

あらためて、何かにとらわれたり、恥ずかしいとか、好奇心を感じたりハラハラドキドキしたりすることは、とても素晴らしい心の動きであると思います。

それはいつまでも変化する可能性を秘めているからです。

若い神経質者の皆さんに伝えたいことがあります。

できれば自分と同じ神経性格の方と出会いこの性格の素晴らしさを体験的に知ってほしいのです。

人は良い意味でも悪い意味でも自分だけで完結することはできないのです。

同世代でもなくても良いのです。

年齢差も性別も、職業も関係ありません。

神経質傾向を持っている人たちとの関わりは、森田的感性を磨くことにつながります。

間違っても世間基準で生きることをめざないでほしいのです。

森田基準(神経質基準)で生きる。

それが神経質者が幸せになる唯一の道だと思う一世です。


2023.5.27 一世





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