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大阪水曜ほっと集談会一世です。
今日は少し真面目な投稿です。
怒りの感情についての私の独断と偏見です。
昨日はブッダ(釈迦)の言葉を引用したお話でしたが本日はキリストの言葉を引用して投稿します。
興味がわけば音楽でも文学でも宗教書でも脳科学でも手あたり次第読んだりYOUTUBEを視聴している私です。
森田の話と違うんかいと言われそうですが森田博士は医学者、科学者のみならず様々な宗教家や故事や文学者の言葉を引用しわかりやすく森田人間学を私たちに伝えておられますね。
森田療法を知る上で、その成り立ちを様々な分野から検証することはとても重要だと考えます。
以前大阪で、僧侶・牧師・外科医・看護師の皆さんとあるテーマについて話し合う機会がありました。
同じテーマでも立場により解釈が異なることがよくわかりました。
ところで過去に知り合いの牧師に聖書に書かれている復習するは我にあり!とはどういう意味かと質問したことがあります。
彼は私の質問に答えてくれず一言、一世さんこれはとても難しい言葉ですと言いました。
一般的には「仇を受けても自分で復讐するな、 それは我(神)にまかせよ」 という意味らしいのですがよくわかりません。
さて長いサラリーマン生活の中で清濁併せのむことを要求されることが度々ありました。
黒いものでも白とする理不尽さへの怒りや辛さは人並み以上に経験してきたと思います。
その怒りを生きるエネルギーに転化してきた部分もあります。
そのような日々の中で復習するは我にありを森田的にとらえると、とてもわかりやすいのです。
森田の感情の法則には、こう記されています。
感情は、その刺激が継続して起こるとき、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるのである。
不愉快な感情もそのまま感じながら、必要な行動をしていくとき、感情は自然に流れ去り、行動したという事実だけが残ります。
怒りの感情そのままで言葉を発したり、行動に及ぶと怒りの感情に翻弄され、より人間関係に軋轢が生まれ無用の対立を生みます。
これは職場だけではなく趣味や自助グループにおいても同様です。
現実として社会的な地位や立場を振りかざし高圧的な態度で自分の欲求満たそうとする人間がもてはやされることがあります。
しかし長い目で見ると淘汰された事例も数多く見てきました。
そのような他者への攻撃や妨害を繰り返す人間とできるだけ関わらないこと。
怒りを怒りで返さない。
できるだけ自分の立場と相手の立場の両方をイメージすること。
微笑みや巧みな言葉に隠された偽善を見抜く力を森田は与えてくれたような気がします。
今日はご批判を覚悟で少し硬いお話になりました。
2023.1.31 一世