浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2017-12-11 23:39:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

たしかに人間は自由意志を与えられています。
しかし、心も肉体も神様から与えられており、
自分のものではありません。
神の子神我すなわちキリスト意識が、
肉体というサタンの装いをして現れているのが人間です。
なぜサタンなのかと言いますと、肉体の服をまとうことによって、
五感による煩悩である自己保存と自我我欲の思いを
満たすことのできる状態に置かれるからです。
ところが、この肉体の服というサタンの装いこそは、
内なる神我の目覚めにはどうしても必要なものなのです。
それは、ちょうど蓮の花が咲くのに泥が必要であるのと同じことです。
中身は神から分けられた清らかな魂であり、
まとっているのは欲の心へと誘惑する五官を
備えた肉体の衣であるというのは一見矛盾のようでありますが、
これがあるために魂は様々な過ちの経験を通して
だんだんと進化向上して立派になっていけるのです。

私たちの本来の曇りなき心は例外なく神様の意識の中にあります。
わかりやすい比喩を用いてみましょう。
金の延べ板の上の厚く積もった塵を払えば、
それまで覆われていた金の輝きが現れてきます。
すでに金は金として光っているものですが、
塵があまりにも厚く覆い隠していたため、
その輝きが見えなくなっていただけです。
これと同様、
私たちの心も自己保存や自我我欲などエゴの思いの雲が晴れたなら、
光そのものとして、愛と慈悲の塊としての心の本質が現れてきます。
ノミで木を彫るとおが屑が出て来ますが、
だんだんと中の立派な象が現れてくるようなものです。


             ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-12-11 00:01:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

都合の悪いことは何でも環境や境遇のせいにしてしまう癖がつくと、
そのうちに過去に溯って、育った環境が悪かったとか、時代が悪かったとか、
親の育て方が悪かったとか、
こんな相手と結婚したばっかりに不幸になってしまったなどと言いだしかねません。
これでは心の進歩はありません。
すべての原因を環境や時代や境遇に求め、物や人のせいにするなら、
自分の心は変わらなくていいことになるからです。
過去に思いを果たせず挫折したり、失敗したりしたことから、
落胆の思いが現在まで続いており、積極的に新たな取り組みをする気力を失ったら、
これも自分が損です。
過去のせいで残りの人生までもが決定的にダメージを受け、
もうどうしようもないのだと心を沈ませながらどうにかやっと生きているのです。
重い足取りで歩いてゆくようなものです。

心は数々の記憶への執着とか悲嘆の思いが詰め込まれています。
砂袋のように重い心です。
前の章に述べたとおり、死んだら心だけになりますから、
その重い心はもし地獄があればそこに落ちてしまいます。
また、過去の過ちをいつまでも悔い、罪悪感にとらわれている場合もあります。
これも心に重荷を負い、自らの心を苦しめていることに変わりはありません。
人は誰でも過ちを犯します。
それを二度と繰り返さないことができたなら、
その過ちゆえに心が進歩したことになります。
しかし、これと反対に過ちゆえに自分の心を苦しめることは、正しくありません。
「悔い改めた時、汝の罪は赦される」というのも真の神の御心です。
「過ちを改めるのに憚ることなかれ」とあるように、自分が間違っていたと気付けば、
心を素直にし、勇気をもって悔い改めればよいのです。
過去の過ちのために自分を責め、心を苦しめたらいけません。
必ず不幸になります。
自分の心なのだから苦しめたって勝手ではないかと言う方もいらっしゃるかもしれません。
これは自分の肉体なのだから自ら命を絶ってもかまわないじゃないかと言うのと
同じ大間違いです。


               ~ 感謝・合掌 ~



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