恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵
◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
その人よりも自分が愚かとなる◆
先の続き・・・
提婆達多(ダイバダッタ)という人は生涯お釈迦様を目の敵にし、
あの手この手で評判を落とそうとしたり、命を狙ったりしました。
街頭にいた貧しい妊婦に金を与えてお釈迦様が孕ませた子だと
街中を触れ回らせたのもその一つですが、お釈迦様はこれを捨て置き、
何ら弁明はしませんでした。
もちろん、こうした悪意からの卑劣な行為は天に向かって
唾を吐くことになりますから、神様が罰を当てなくとも、
結果は自分に戻ってきて哀れな最期となって当然です。
ここでもしお釈迦様が相手に反応してしまったならどういうことになったかは
想像に難くありません。
自分の心を苦しめてはなりません。
まして自分に非がないのに相手から喧嘩を仕掛けられて、
それに心を動揺させたら丸損になります。
提婆達多とまったく同じような人が私にもありました。
私を目の敵にし、なんとかして評判を落とそうと、
卑劣にもまったく事実無根のありとあらゆる悪意を尽くした作り事を
十年間言いふらしてくれました。
私もただの凡夫ですから、弁明や抗議の一つもしたくなった時もありましたが、
いっさい捨て置くことにしました。
今から三年前、その人は全身マヒで口も聞けず、手足も動かず、
意識だけはハッキリしている生き地獄の中で死さえゆるされずに
生きているようです。
近づく人もなく、やせ衰えて見る影もない哀れな姿だということです。
自らの行為を反省され、神の愛し子として目覚められることを祈るばかりです。
先程は五蘊の説明をしましたが、
人間には肉体を持ったがために避けられない困難や苦悩がついて回ります。
「色受想」までの段階で生んだ迷いを、そのまま「行」すなわち行為に
もたらしてしまうまた罪をつくり、苦しみの原因となります。
~ 感謝・合掌 ~