恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第五章 心の曇りをとるための反省
反省してはじめてわからせていただいた母親の愛
先の続き・・・
もし、羽があれば鳥のように飛んでいって、
土下座してでも母にお詫びをしたいという気持ちが湧き上がってきました。
しかし、そうもまいりませんから、山を下り家に帰り着くと、
すぐに電話させてもらいました。
電話の向こうで「もしもし」という母のなつかしい声を聞いたとたんに、
心は幼な子に帰っていました。
私は子供の頃、母を「おかちゃん」と呼んでいたのですが、
電話で母の声を聞くと、
「おかちゃん、堪忍してや、堪忍してや」と言ったまま、受話器を持って
ワンワン泣いてお詫びしていました。
母親の愛とはありがたいものです。
突然の電話からの私のただならぬ声を耳にして、「お前、頭は大丈夫か。
頭がどうかなったのと違うか」と気遣ってくれるのです。
「僕は幼い頃から親不孝ばかりしてきました。
どうか赦してください」と言うと、「頭は大丈夫か」と尋ねられたのです。
「私の言っていることは頭がおかしいように聞こえますか」と聞くと、
「いや、別におかしゅうはないけどな、いい年をしてそんなに泣くな」と
言われました。
子は親の心配をありがた迷惑に感じたりして、
親の生きている間はなかなか親の愛の本当のありがたみはわからないものですが、
まことに親というのは、子の身に何か一つでもあれは心配してくださいます。
取越し苦労という面はあったとしても、
そこまでこまやかに愛を注いでくださるのはこの世では親だけです。
そして、その無私の愛は神様の愛に通ずることを知りました。
父母への感謝ができなかったならば、どうして神様への感謝ができましょうか。
しかし、この尊さを知るには、私たちにとって親の存在はあまりにも近すぎて、
改めて意識することはありません。
これは空気や太陽や水によって生かされながら、
その有難みをつい忘れ、当然のごとくに毎日を送っているのに匹敵すると思います。
では、どうしたらこの「慣れ」を克服して、感謝と報恩の心に目覚めさせて
いただけるのでしょうか。
そこで、反省が必要となってきます。
魂の自覚によって、人は神の分け御霊の名に恥じないように立派に生きていけます。
~ 感謝・合掌 ~