浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

偉大なる光の王に導かれ
我が身は動き口は語らん

「御垂訓」

2018-02-20 23:58:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第五章 心の曇りをとるための反省

       自分を赦すことの難しさ

先の続き・・・

どうにもならない心の壁に突き当たってしまいました。
どうしても破れない心の壁でした。
とうとう最後にあきらめざるをえなくなりました。
私のような者が心に法灯をいただくとか悟りを得るとかいう、
大それたことができるはずがない。
それは偉大なる魂をお持ちの尊い方にして初めてできることであって、
私のような凡夫のできることではないのだと気づき、
もうこれ以上はやめようと決心しました。
あきらめて山の木々の間に仰向けになって寝転んでいました。
長い時間が過ぎていきました。
この時、梢の間から差し込んでくる光を見たのです。
もし、光、法灯、悟りというものがあれば、
やはり私も欲しいという思いが、心の中から持ち上がってきました。

むっくり起き上がって、再び座って反省にとりかかりました。
そして、己と向き合いました。
何時間かが過ぎていきましたが、どうすることもできません。
後になってわかったことですが、私たちはこの世に生まれた後に、
環境、教育、思想、習慣、時代の条件の中で、それぞれの人格をつくり、
人生をつくっていきます。
「人に寛大、己に厳しく」これも私の受けた教育でした。
その結果、自分の思想をつくっていたのです。
その自分のつくった思想によって、
自分自身をがんじがらめに縛りつけておりました。
「人に寛大、己に厳しく」は人間の理想であり、道徳的観念であって、
法とは別のものだと思いました。
法においては、ある意味において、己にも寛大でなければなりません。
でなければ、悟ることもできません。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-02-20 00:06:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第五章 心の曇りをとるための反省

       自分を赦すことの難しさ

先程の私の幼少時の反省の話しに戻りますが、
わるいのは親に嘘をついて怪我をしたことばかりでなく、
その嘘のために友達の家で勉強してくると名前を利用された友達のほうも、
もしこの事実を知れば迷惑したであろうと思います。
自己を追及した時、本当に数々の罪、過ちを犯してきたことが
浮かび上がってきます。
嘘、盗み、人の悪口、非難、中傷、恨み、憎しみ、
数えてみればきりがありません。
幼い頃につくった数々の過ちが私の人生を大きく支配していたことが
よくわかってきました。
幼い頃から常に「自分に厳しく、他に寛大に生きなさい」と、
父母から教えられてきました。
また、学校の先生からも教えられました。
これが正しいことであると信じてきました。

その後、道を説く書物の中にも、道を説く方々の教えの中にも、
よく出て来る言葉です。
ですから、このことは自分の人生の一つの目的でもあり、
指針でもありました。
常に己に厳しく生きてきたつもりです。
それだけに、私の人生も厳しいものでした。
また、人にできるだけ寛大に生きる努力をしてきました。
それがある意味では、人に甘え心を与えていたかもしれません。
とにかく、己に厳しく生き、己れを甘やかせてはならないという思いが、
私の信条でもありました。

この思いにより、どうしても自分を赦すことができませんでした。
自分を赦すことは、自分に寛大にならなければできません。
しかし、そうすることで、かえって自分を甘やかすことになると
思っていました。
これでは教えにそむくことになってしまいます。
このような思想を持っていましたから、
どうしても自分を赦せなかったのです。
赦せない結果、自分に対して責め裁くこと以外、できません。
どう考えても、どう思っても赦せないのです。
何回、何十回と反省しても、堂々巡りの繰返しです。
これから先へ進むことができませんでした。


           ~ 感謝・合掌 ~



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