浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

自我越えて肉の己れを
捨し時 神と我とは
一つなる知る

「御垂訓」

2018-02-22 23:38:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省

      幼い頃から今日までの自分の姿を立体映像で見せられる

先の続き・・・

小学校一年の秋のことです。
取り入れで稲刈りをして干し、乾燥すると田圃の真中にゴザを敷いて
脱穀をするのです。
干してある稲束を脱穀する場所まで運ぶと、
父が足踏み機でギコギコ脱穀しては済んだ藁を後ろに
放っていくのですが、
その時、積んである束を父に渡すのが私の役目でした。
この稲束を父が最も受け取り易いように一つずつ渡すと、
父はザアーツと脱穀してパッと後ろに放ります。
すると、次の束を渡さなくてはいけないのですが、
父の手許の受け取り易いところへ持っていかないと、
「何をしているのか」と怒られます。
父のしやすいように次々と渡していくのです。

こうすれば、一つ一つ取る時間が節約できるわけで、
父の体も少しは楽になります。
その田圃のすぐ近くは堤防でその上は平地になっており、
友達が来てワイワイ遊んでいるのです。
その中に好きな女の子がいたのです。
私はちょっとおませでして、小学校一年でもう好きな
女の子がいました。
「あの子、かわいらしいなあ」と、まあ私の初恋です。
その子もいっしょに遊んでいるので、
行きたくて行きたくてたまりません。
「男女の愛は苦しみである」とはよく言ったものです。
神の愛につながる純粋に精神的な愛、
アガペの愛には苦しみはありません。
しかし、幼い男女でさえも、男女の愛には苦しみが
つきまといます。

女の子のそばに行きたいけど行かれないというつらさ、
そして、友達が楽しそうに遊んでいるのに、
稲束を父に渡さないといけない。
その時のつらかったこと。
そのうち、だんだんと日が暮れてきます。
友達は帰ってしまいます。
私の好きな子も帰ってしまいました。
私は涙をポロポロ流しながら、稲束を渡していたのです。
すると、父が、「お前は何を泣いているのか」と言うのです。
私の気持ちなどわからないから言うのです。
もし、私の心を知ったら、
お父さんは腰を抜かしたかもしれません。
小学校一年生で好きな子がいるなんて。
私は泣きながら叱られながら、稲束を渡したものでした。
夜、暗くなるまで続きました。


          ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2018-02-22 00:32:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第五章 心の曇りをとるための反省

   幼い頃から今日までの自分の姿を立体映像で見せられる

どうしても自分を赦すことができないという心の壁の前で、
もうどうすることもできないでおりました。
人知では越えることのできない心の壁です。
人はどうすることもできなくなると、苦しい時の神頼みになってしまいます。
「もし、私の中に守護指導霊がおられるならば、
どうぞこの反省を正しくお導きください。
私の力ではこれ以上、どうすることもできません。
できることなら、この突き当たっている心の壁を打ち破ってください」と、
必死でお願いしました。

すると、この時、考えられない不思議なことが起きました。
右手前方の手の届くあたりに、幼い頃から四十半ばまでの人生のすべてが、
次々と出現したのです。
立体的に現実に自分の人生がそこにあるのです。
どれくらいの時間が過ぎたのかわかりません。
あまり長い時間はかかっていなかったと思います。
まさに意識の世界は時間、空間、距離などいっさい関係がないということが
はっきり確認できました。
そこに写し出された自分の姿は、またなんとも言えない哀れな、
悲しいものでありました。
自分に与えられた環境の中で、「ああしたい」「こうしたい」と思いながらも
どうすることもできない、人生のしがらみにがんじがらめになりながら、
必死に生きている姿を、まざまざと見せられました。


             ~ 感謝・合掌 ~




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