添付のお写真は「モーセの御足を慕って」の恩師「長尾弘」先生の
旅でエジプトからシナイ半島を渡りヨルダンに入って
モーセの終焉の地「ネボ山」に建立されているモーセの
教会を見学して後、カイロ国際空港へバスで移動していた時、
バスの車窓より天空にご覧のようなアラビア語を
この旅に同行されていた学びの友が見られ、
カメラに収められました。
意味は「何かが出現する」との意味だそうです。
お写真は恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」
にも紹介されています。(261ページ)
恩師のご著書「講演集」より
講演集、 一
「無我の体得」とは
先の続き・・・
私にはああいう生活はできない、いっさいそういう時間は与えられない。
でも肉体を持って生まれていますから、いいなあとは思います。
しんどい時は休みたいなと思います。
しかし、そういう自分を完全に捨てて人さまの中に生きさせてもらった時、
自分、自我はないのです。
自分があったら、こんな馬鹿げたことはできません。
これは無我の体得、無我の生活、自分自身のない生活です。
そして神の「僕(しもべ)」であり、
自ら人々の僕としてこの世に生まれ、
人さまに使っていただくために生きて行くのです。
その時、私たちは、自分が本当に神の御子だということを知りますね。
有我の間はそんなことは思いもできません。
だから常に僕であることです。
私の所に来ていただいたら反省会(禅定)のあとで、
私は皆さんにおやつを分けるのですが、
来て下さった方は坐って有難うございますと言って受け取ります。
心ある人は「先生にそんなことしていただいては勿体ない」と言って
代わってして下さいます。
「いやいや、ここの先生は男衆です」―――
「おとこし」とは僕のことですね。
―――といって、私は履物を揃えさせてもらったり、
お茶を汲ましてもらったり、
おやつを分けさせてもらったりして、神の僕、
人々の僕となって生きる実践をしております。
常に周りの方々のお役に立たせていただけるような日々を
過ごすことが大事です。
家庭の中では両親に対して、ご主人に対して、或いは奥さんに対して、
又子供に対して自ら僕となって仕えた時、
周りの方は必ずそのままでは置いておけません。
この人は大切な人だ、大事にしなくてはいけないと
今度は高く持ち上げてくれます。
私は偉いのだと反り返っていますと、
人々は下へと引きずり下ろします。
私は恵まれた環境をいただいて、こうして日本国中を
回らせていただいております。
私にはいっさいの求める心がない、ただ、
させていただいているだけで、
何ものをも求めません。
この心があるから、あの世のすべての霊を救うことが許される。
なぜかと言うと、霊の世界でも、救われない霊もあれば、
深く修業した霊なども一杯あるからです。