添付のお写真の裏面には次のような説明書きがありました。
“愛の光”の不思議
福岡市内のお寺のご住職の叔母さん(アメリカ在住)が
由緒あるご本尊(室町時代作阿弥陀如来像)の写真を
持参しました。
長尾先生が浄心庵から“愛の光”を送った後、確認の為、
尋ねたところ電話に出た姪の方がビックリして
「大変!!ご本尊様がお風呂からあがり、
光輝いています・・・!!」。
“愛の光”の後(向かって右) “愛の光”前(向かって左)
前後の“輝き”の差をご検証下さい。
恩師「長尾弘」先生が少しお祈りをしますと仏壇や
仏像は勿論のこと、教会の壁、教会内に置かれている
品々が五分もしない内に輝きだします。
恩師のご著書「講演集」より
講演集、 一
「無我の体得」とは
人間として持っている三大欲望から完全に遠く離れた時に、
高い境地が得られます。
よく山奥に入って修業して無我の境地を求めたり、
禅宗のお坊さんが坐禅三昧に入って無我を求めます。
ところが無我というのは坐って習得するものとは違います。
自分の自我を滅した日々の生活こそが大切です。
「私が、私が・・・」という根性を完全に捨てて周りの
方達の為に生きた時、
これを無我の体得というのです。
分かり易く言いますと、私は方々から呼んでいただいて
三百六十五日休みなしです。
今日は一度ゆっくり寝てみたいなあと思っても眠ることもできません。
夜もそれこそ夜通し電話を下さいます。
ああ一晩ぐらいゆっくり寝かせて欲しいなと思う時もあります。
しかし夜中の一時、二時三時、四時に電話を下さるということは、
まともな電話ではありません。
辛い、助けて下さいという電話です。
だからハイハイと言って受けます。
私は四六時中、いつ電話を下さってもちゃんと起きています。
寝ている時間はありません。
何時でも寝とぼけた声は出ていない筈です。
そしてお祈りをさせてもらったら、救われて下さいます。
受話器をちぎって、
電話のない国でゆっくり寝られたらいいだろうなあと思いますけど、
これが自我ですね。
「いやいや私などどうなっても構わない、私の声によって、
或いは私の言葉によって救われてもらったら有難い」と、
自分を完全に離したら無我です。
又、あちこちへ寄せてもらうと、良い景色の中で、
玉をころがして遊んでいる人があります。
テレビを見てもやっていますね。
ゴルフというのですか。
私は一度もしたことがありませんが、一日中芝生の上で
ああして玉をころがしたり、
飛ばして遊んだらいいだろうなあと肉体を持ったら、
そのように思う時もあります。
海辺に旅をしたら釣りをしています。
一日中何も考えないで坐って釣糸を垂らしていられたら
極楽だろなあと思います。
これらは「有我な生活」をなさっているのです。
自分のある生活です。