~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~
講演集 一
「自然の法則と私達」
先の続き・・・
私達の呼吸を見て下さい。
私は息を出すのは嫌だと言うてみなさい。
息が詰まります。
思い切って全部吐き出しますと、自然にたくさん入って来ます。
私達は自分のものを、自分より恵まれない方に使っていただく為に出す、
この行為を喜んで捨てる、つまり喜捨といいます。
例えば、十万円あればそのうちの一万円を恵まれない方に
喜捨させていただく。
一万円出せば損をしたなと思いますが、一万円を出したら、
この一万円は生きていますから、必ず形の違った所から入って来ます。
自分の中に取り込むばかりだったら、もう入って来ません。
この法則を私達はつい忘れるのです。
この肉体一つ見ましても、
出すことは不要といってお尻のほうも前も蓋をして、
大・小出さないようにしたら、
もう上からは食べ物が入らないようになってしまうのです。
下から出してもらうからこそ、
上から又おいしいものがいただけるのですね。
すべて出せば入る法則を私達はつい見落として、
取り込むほうへまわろうとするのです。
その時、自然の法則から離れた分だけ自分が苦しみを受けていきます。
ある宗教で、お金を上げなさい、家も土地も全部はたいて上げなさい、
主人に内緒でも上げなさい、というのがあります。
その宗教に入って、おじいさん、おばあさん達の全く素朴な信仰をされる方が、
自分のお小遣いを始末し、
食べるものも始末してその教団に捧げておられますが、
そういう素朴な方は亡くなった時に、安らかな往生をされています。
しかし、だんだん教団の上へ上へとあがりまして、
今度はお金を集める立場に立っていかれます。
例えば分教会、中教会、大教会となっていきますと、
そういう方の家庭は必ず不調和です。
病気があるか、家の中に心配事があるという場合が多く、
そして亡くなる時には、業病をもって亡くなって行かれる方が多いのです。
心当たりをずっと見渡されたら、そのようになっておられる筈です。
では、なぜそうなるかと言いますと、
出させていただくというのは心豊かです。
出すという行為は自分の心に良かったなあという安らぎが得られます。
しかし、自分が取り込むという立場に立った時、
自分の心が卑しくなっていくのです。
取り込む生活を積み重ねますと、この世を去る時に、
この世の総決算が出て来ます。
つまり業病を患って亡くなる場合が多いのです。
出す側は自分の心が豊かであり、取り込む側は自分の心を貧しくする。
心を貧しくすると苦しみを味わうことになります。