~ 恩師の御著書「講演集」より ~
講演集 一
「般若心経」の一節「観自在菩薩」
何事が起きても悪く見る見方と、喜びに見る見方とがありますから、
このことを般若心経の中に「観自在菩薩」と説かれた教えに沿って
考えてみたいと思います。
まさに読んで字の如し、観ることが自由自在のことです。
菩薩はインドのボサターといって、仏を目指して修行する人のことを
言ったのですが、私たちがこうして正しい教えを学んで、やがては仏に
至らせてもらおうという方へ心を向けることができれば皆菩薩です。
仏道を行じる者を菩薩といいます。
「菩薩」はのちに大乗佛教になり、観世音菩薩とかいろいろな名前で
呼ぶ特殊なお方に限定されましたけれど、
本来は仏道をめざして修行する者を言ったのです。
「観自在」とは、例えばここに一つの灰皿がありますね。
上から見るとタバコを置く窪みがあってボコボコの面、
横から見ると梯形で角ばった面、
底のほうから見ると丸く調和した面というように、
一つの灰皿を見ても見る面を変えるとそれぞれ違って見えます。
これと同じで、私たち人間を見ましても、大層嫌な面、角の立った面、
人を見たら突っかかって行くような面を持っている反面では、
調和されたすばらしい心を持っているのです。
こんな簡単な灰皿一つを見ましても、いくつもの面を持っていますのに、
私達人間のこの複雑怪奇の心は、あらゆる心を持っていて、
それで一人一人の人格を構成しています。
私達は自分にとって都合の悪い、角のある、デコボコの面を見て、
あの人はいやらしい人だと評価します。
ところがその人の或る面には、すばらしい調和された心が
備わっているのです。
これは、すべての人が持っているのです。
私達はこの良い面を見ることができないのですね。
特に夫婦の場合、何十年と経った時に、
そういう良い面を見るに至るのですが、
その道中に嫌な面ばかりを見るのです。
そして苦しむのです。
「観自在」とは、人を見ても自由自在に見通す能力を言います。
人に会った時に、自分にとって都合の悪いことをされても、
この人は今こんなことをしているけれども、
反面ではすばらしいものを持っている、
とその良い面を見て褒めてあげるのです。
その時、角ばったことを言われたら人は怒りますが、
その人自身も知らない良い面を見つけて褒めてあげれば、
必ず「あの人は何とすばらしい人だなあ、
私のこんな面を知ってくれている。
あの人の為だったら私の命を捧げてもいい」という程、
その人の心を掴むことができます。
その人の隠れたすばらしいものを取り上げることができず、
愚かな私達は、つい嫌な面ばかり見詰めて、
しかもそれがその人であると決めつけようとします。
これは大きな苦しみの原因を作っていますね。
「般若心経」は、私達が生まれ変わり生まれ変わりして転生輪廻を
繰り返して、心の奥底に内在する偉大な智慧に
達するということを言っています。
近代佛教思想では、「あの世は無い」と説かれていますが、
実際あの世はあります。
これは私自身が掴んでおります。
今見せてもらった金でも、
あの天上の世界から降らしてもらっているのです。
あるから出て来るのです。
無かったら出て来ません。