浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

偉大なる光の王に導かれ
我が身は動き口は語らん

「講演集」より。

2015-04-15 00:33:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

            恩師のご著書「講演集」より


                講演集、 三


         教えに縁ある私たちは生きた仏になろう


常に心がけるべきは、神の御心をわが心に頂いて、それをこの肉体をもって
あらわして行く実践です。
神の御心を私たちが現わしたらいいのです。
いつもお話させていただきますが、この教えに御縁のあった皆様方は、
救われたい側から救いたい側に立っていただかなくてはいけません。
一人でも多くの方を救う側、仏の側に、自らの心を高めることです。
菩薩はすべてを生かそうとされます。

ありとあらゆるものを生かそうとされる菩薩の側に、
自らの心を立たせてもらうことですね。
私たちは、仏になることはなかなかできません。
「われ、仏になれずとも、生きとし生けるものをみな、
残らず救い助けんと、祈る心ぞ仏なる」。
すべてのものを生かそうと祈り行う心こそ、生きた仏です。
悟った仏、そんな仏とは違うのですね。

日々の生活で、行いを通して私たちは仏になることができます。
このような仏に、お互いになっていきたいと思います。
そして、縁なき方々、苦しい方々に、一人でも多くの方に愛の実践をさせてもらい、
「このように思いを変えたら、こんなに楽になります、私も苦しんでおりましたけど、
このように心を変えた時、安らぎを頂きました」と言って、
お伝えさせてもらったらいいのですね。
それには組織も何も要りません。
私は死ぬまで組織は持たないということを誓いました。
全くフリーです。

この自由が無かったら、ほんとうの法は伝えられません。
経済的に人から恵んでもらわなくては生きられないようなことでは、
法を伝えることはできません。
調和された経済力が大事ですね。
「今生この世の出られた光の天使は、宗教などで、食を得ているような者は
一人もありません」と、高橋信次先生はよくおっしゃいました。
自分の生活ぐらい自分で何とかできる、その余った時間で人を救います。
私も、幸い神様から与えられ、どこへ行かせてもらっても、一銭も求めません。
要りません。

自分の電車賃ぐらいは自分でできます。
お話は皆さんに聞いていただいているのです。
こんな至らない私の話を大勢の皆さんが聞いて下さるという、
こんな幸せなことはありません。
講演料、そんなものはとんでもありません。
何も要りません。

ほしいのは、皆さんが救われてほしい、幸せになってほしい、
健康になってほしいことです。
ただそれだけで飛び回っております。
又それだけでいいと思っております。
地位も名誉も財産も何も要りません。
「よかったですね、御縁があってよかったですね」
この喜びこそ無上の喜びです。
長い時間、お付き合いして下さいまして、心から感謝申し上げます。
ありがとうございました(拍手)。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-14 00:19:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 三


          神に背いてもなお許される


或る宗教では、「神の御名において許しません。
自己顕示欲は神の名において
許しません」と、言っています。
しかし、神とは無限の許しです
どれほど私たちが神様に背いても、「目覚めなさい、自らに目覚めなさい、
そして幸せになりなさい」という思いだけが神のみ心です。

その無限の許しの神の御名を使って「許しません」という面白い宗教があるのですね。
その証拠に自殺という、神の御心に最も背いた者にさえ、神は目覚めなさい、
どうぞ救われなさいと言って、愛を垂れ給います。
イエスは、今自分を突き殺そうとしている者、今自分の命を奪おうとしている
者をさえ、許してあげてほしいと祈られました。
人間の持つ窮極の愛を、身をもって表されました。
ある所で、「イエスはその時、『ああ、神は私を見捨てられた』と言って、
死んだというのは本当ですか」という質問を受けたのです。
そんなことは絶対ありません。

もし、イエスがそう言って亡くなられたのなら、今のキリスト教は存在しません。
ただの人ですから、この話をさせてもらいましたら、ある方が突然泣き出されました。
「あなたもその時、見ましたね」と言いますと、
「この目で、私は確かに見ました」とおっしゃいました。
だから、窮極の愛とは自分の命を奪おうとしている者にさえ、その者への罪が
許されるように、罰があたらないようにと、幸せを祈る愛のことですね。
私たちも、その万分の一でも日々の生活の中で、その行いを真似させてほしい、
実践させてもらいたいと思います。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-13 00:32:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 三


        法の力により、九十年間の罪が許される

  
今日お越しいただいておりますが、その方は横浜でのテープをずっと聞いて
いただいて、完全に健康になっていただけました。
極度のノイローゼで家庭崩壊の寸前でした。
言葉によって、人々の苦しみが消されていく場合があります。
なぜ消されるのかと言いますと、今まで西に向けていた心を東に向けるだけの
ことです。

それによって、地獄の底から即、極楽の世界へあがることができるのです。
死ねば肉体が無くなる、この世から無くなる、燃やされたら恐いなと思う、
しかし、そんなことは関係ありません。
もし肉体に思いを残しておりますと、心はその肉体から抜けることはできません。
そうすると、死後硬直が起きます。
科学的医学的に言いますと、私たちの細胞の間にある乳酸というものによって、
私たちの身体は動くようになっているそうですね。

これは血液循環で温度を保つことによって、乳酸が柔らかく動いており、
血液の循環が止まりますと、忽ちに乳酸が凝固してきます。
それが死後硬直の姿です。
法医学上では、殺人事件がありますと、まず法医学の専門家が来まして、
触ってみてその硬直の具合を見ます。
顎のあたりから硬直が始まって、ずっと全身に広がっていきます。
その状態によって、これは何時間前の犯行と判断するのですね。
しかし、心というものは物質を超えているのです。

先ほども話ましたように、亡くなって三日間も身体が温かくて綺麗な顔、
ということもあります。
九十何歳のおばあちゃんの皺が全部消えたといいます。
しかも、そのおばあちゃんは九十年間、過ちの人生を送られたのです。
その息子さんは「こんなことを話すのは恥ずかしいのですけど、
私の母は絶対に極楽へ行くことはできません。
何とか母を救うて下さい」と、相談に見えました。
しかし、九十何歳になったおばあちゃんが、九十年間持ってきた性格を、
私のような者が言っても聞いて改めてくれるはずがありません。

「もう言っても駄目でしょう。そういう生活をしておりますと、
いよいよあの世に帰らねばならない時、必ずそれ相応の苦しみを与えられるはずだから、
その時に何とかしましょう」と言って、それから一年、二年と経って、
そのお母さんにいよいよその時が来ました。
病院に入院されたのですが、
その七転八倒の苦しみを息子さんが見るに堪えない状態になって、
私のところに見えましたから、
「お話会のテープを聞かせて上げて下さい」と言いますと、
「テープを聞くような状態ではありません」
とおっしゃるのです。

「聞いても聞かなくてもかまいませんから、耳もとで鳴らしてあげて下さい」
と言うと、何巻か持っていかれました。
テープをかけて一時間ぐらいしますと、
その苦しみが突然とれて、そのおばあちゃんが「己が悪かったんじゃ、
己が悪かったんじゃ」と言って、泣き出されました。
そこへたまたま本宅の兄さん夫婦が見舞いに来て、
部屋に入るなりその声を聞いて、
「ほんとうにこのクソ婆は死ぬ時になってもまだおまえが悪いと言っている」と言って、
夫婦で顔を見合わせたそうです。

しかし弟さんが「いや兄さん、違うんや。自分が悪かったと言って泣き出したんや。
神様、かんにんしてくれなはれと言って泣き出したんや」と言うのを聞いて、
お兄さん夫婦もそれは良かったと喜びまして、
それから三日間全く痛みも苦しみもなしに、四日目に極楽往生されたそうです。
そのおばあちゃんの皺だらけの顔が、皺一本もないツルツルの顔になったということです。
法とはそのような力を目のあたりに見せていただけます。
自分の過ちに目覚めて、心の底から「神様、許して下さい。私はとんでもない
一生を送りました。取返しはできませんけど、どうぞ私の罪を許して下さい」
と泣いて泣いて詫びられたら、神の許しを戴けます。
安らかなお顔で、皺がなくなったのはその証しです。


               ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-12 01:10:02 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


        人々の喜びが無限のエネルギー


先の続き・・・

人さまに喜んでいただけますと、その喜びは天にかえります。
その方その方の心の奥底に、喜びはしみわたります。
外に向けますと、天ですね。
その喜びは光ですから、神の意識に届きます。
そして、喜びを与えた者に注いでいただきます。
その喜びによって生きさせてもらい、
その喜びによってエネルギーを戴きます。

「死なないで下さい。先生が死んだら、私は何日も泣き続けます」と、
Fさんのおばあちゃんはおっしゃいます。
私は人さまの喜びの為だったら、命を捨てても何の悔いもありません。
それが喜びとなって与えられます。
無限のエネルギーです。

なぜ、こんなパワーが頂けるのか、光が頂けるのか、
―――それは、させていただくことによって、人々の喜びが光となって
注がれるからです。
何歳まで命をもたせていただくかは、神様のみ手にありますが、
しかし命ある限り、人さまのお役に立たせていただくように、
自分の身体の動く限り、走り回らせていただきたいと思っております。
そして少しでも心に安らぎと、幸せな心をつかんでいただけたらと思います。
このお話によって、ほんとうに死の恐怖から解脱することもできます。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-11 00:18:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


        人々の喜びが無限のエネルギー


私は常に全国を飛び回っております。
先週は山口県で、小郡と山口市と日本海側の長門市を回らせてもらいました。
休ませていただくのは、たいがい夜中の二時前後ですね。
その前の週は徳島で、夜中の三時半ぐらいまでお話させてもらってから五時に
起きて、こちらに送ってもらい、河内の国分に行かせてもらいました。
夜はMさんのお宅へ寄せてもらい、帰宅したのはもう十時を過ぎていましたね。
私は自分の身を、自分の生命を燃え上がらせております。
燃え尽きてしまいたいと思っております。
燃え尽きたら、あの世に帰らせてもらえばいいのですね。

精いっぱいこの命を燃え上がらせて、その結果として一人でも多くの方から
「会えて良かった」と、喜んでいただけたら、私の使命を果たしたことになります。
法には命をかけて実践させていただいております。
命などは要りません。
だから、無限のエネルギーが与えられます。
こんなことが人間としてできるのかというようなことを平気でやらせていただきますね。
お招きいただきますと、どこへでも飛んでいきます。
その時は、ただご奉公、一切の報酬は求めません。

せめてその時間だけでも、神の子に成りたいと思って、神の御心通りに自分が行い、
そのように生活しております。
求める心があれば、もし頂けない場合は、腹も立ちます。
たださせていただく気持ちでやれば、もともと頂かない気ですから、
どこへ行っても心安らかです。
癒しの方が何十人、何百人おられても構いません。
私の体が潰れるまでご奉公します。
この間、東京に招いていただきました。
まあ、たくさんのお方にいっぱい取り巻いていただきまして、汗だくになり、
もう帰らせていただく時間ギリギリまでお話をしました。
手で書いているズボンを穿かせてもらい、シャツを頭からかぶせてもらい、
走って飛び出したのです。

どこへ行かせてもらいましても、初めての所ではお茶一杯、
タバコ一服吸わせてもらう時間もいただけません。
しかし、又不思議なことに全く疲れることはないのです。
いくら大勢の方に会わせていただいても疲れません。
皆さの喜びによって却って元気が出てきます。
これは正に、見えない世界からのご協力を戴いているのだと思います。
しかし、全然水一滴要りません。
初めから最後まで同じように声が出ているそうです。
場所によると、ご飯もいただきません。
ずっと喋りっぱなしの時もあります。
自分でも、なぜか分からないのですが、そのようにできるのです。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-10 01:51:28 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


         聖書に説かれた深い意味


先の続き・・・

自分の可愛い子供、
その子供にできた可愛い孫を殺して私の所に持ってきなさいという親が、
どこの世界にあるでしょうか。
親を信じるのだったら、子供を殺して持ってきなさいなんて、
そんなひどいことの言える親は、あるはずがないです。
表の意味だけを見ますと、「神様って恐い人だなあ、アブラハムにわが子を
殺して連れて来いとおっしゃった」ということになってしまいます。
しかし、文字の底に秘められた意味を理解することが大事です。
文字の底にある言葉を読み取らないと、とんでもないことが起きます。
神様とは、幼な子に注いでいただくお母さんの心です。

自分を燃え上がらせ、自分が犠牲となって、その子の為に尽くそうとする
母の心がそのまま神の心です。
「山より高き父の恩、海より深き母の恩、いつしか頭(こうべ)の霜白く、
衰えませる父母に、子は如何にして報ゆべき、幼な子一人育つれば花の
顔(かんばせ)色あせて、いつしか頭の霜白く」と、
「父母恩重経」にありますように、ほんとうに子供一人育ていただくのに、
お母さんはどんなに苦労されるか分かりません。
その無償の愛こそ、神様の心と思わせてもらって間違いありません。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-09 00:26:39 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 三


           聖書に説かれた深い意味


「汝の隣人を愛せよ」と、イエスは説かれました。
隣人とは隣家と違います。
家庭の中で、或いは職場の中で身近な隣にいる方達です。
その方達の為にたださせていただくことです。
なぜ愛さなくてはならないかというと、それは愛することによって、
自らが愛されることになるからです。
愛さない者を誰が愛してくれますか。

イエス様の説かれる愛とは、「私たちが幸せになる為に、他を愛しなさい」
ということです。
そうすることによって、自分が幸せになるからです。
なぜ「汝の敵を愛せよ」なのかと言うと、愛することによって敵がなくなるからです。
相手という対象を通して自らを愛することになるのです。
イエスは言っていられます。
「他の血をわが内に受け入れることなかれ」と。

聖書の中にあるこの言葉の表の意味だけをとって、聖書研究会の方は、
輸血を断っていとしい我が子を亡くしてしまったという例がありました。
又、輸血をすれば助かるものを、
「聖書にはこう書いてあるから、輸血は拒否します」と言って、
死んでしまった方もありました。
とんでもないことです。
イエス様がそんな馬鹿なことをおっしゃるはずがありません。

しかし、「血」とはその方の因縁、宿業、その人のカルマのことで、
欠点、悪い癖を、自分の心に受け入れてはならないとおっしゃたのであり、
それを「血」という言葉で表わされたので。
間違えば命とりです。
ですから、血液と書かないで血と書かれてるはずです。
旧約聖書の中に次のような話があります。
アブラハムが神様と話された時、神様から「あなたは私を信じることができますか」
と尋ねられて、「私は信じます」と答えました。

「では、どのようなことがあっても信じますか」と念を押されて、
アブラハムが「はい、信じます」と言うと、「それではあなたの子イサクを、
私の生け贅として供えなさい」と神様が言われたと、そのように書かれています。
神がこんなことをおっしゃるはずはありません。
アブラハムが、もう七十、八十歳になってからできた、そのいとし子を殺して
私に供えなさいなど、そんなことを言うのは、神でなくて悪魔です。
しかし、聖書には言葉としてはそのように書かれています。

それは、自分の可愛い子供より以上に神を信じる、それほどの思いをもって
神様を信じなさいという譬えです。
丸呑みをしてはいけません。
しかし、それを信じて堂々と説いている指導者もありますね。
とんでもないことです。
盲信、狂信の世界に人を引きずり込みます。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-08 00:24:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 三


       神の心を私たちが具現する


私たちの内なる良心の囁きこそ、神の囁きです。
又、神とは大いなる大生命です。
私たちのこの肉体には生命が宿っております。
この生命こそ、神の御子の証しです。
すべては神の御子です。
神の御子であることに目覚めて、
自らが神の御心をこの肉体をもって具現することです。
その時、すべての人は神の御子として、神様は平等に力を注がれます。
この肉体をもって神を現わすとは、神の御心を自ら行うことです。
神は一切の差別をなさいません。

自分のところにくる者だけに光をやる、
自分から離れたら光が無いなどというのは、真っ赤な嘘です。
そして、神は罰をお当てになりません。
本当の神様は絶対に罰をお当てになりません。
罰を当てる神様は悟っておられない霊です。
曾て肉体をもっていた者で悟っておられない霊が罰をお当てになります。
神は自らの身をその愛の故に燃え上がらせて、自らの身を犠牲にして、
すべてを生かそうとされるその大いなる愛の力です。

私たちも日々の生活で、その神の御心を現わしたらいいのですね。
差別してはいけない。
自分を犠牲にしてでも、他を生かさなくてはいけない。
そして報酬を求めてはならない。
たださせていただく、それを行ったらいいのです。
その時、神様はこうおっしゃいます。
「あなたは私のいとし子としてよく目覚めてくれました。
私は愛の故にその身を滅した者である。私のいとし子として生まれたあなたが、
わたしの思いをよく行ってくれました。
ありがとうございました」と、神様が感謝して下さいます。
神様は、助けてあげたい、幸せにしてあげたい、と思っていて下さいます。
しかし、その御姿はありません。
では、その神様のしてあげたいという御心を、
私たちがさせていただいたらいいのですね。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-07 00:30:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 三


      救われたい「迷える意識」――竜の話


先の続き・・・

それでもその方は、「まだ何かいるみたいです」とおっしゃいますから、
「いや、もうおりません。あなたは三年間もお付き合いをしていたから、
そんな気がするだけで、もう安心しなさい」と言ってあげました。
そして、鏡を持ってきて、「一度お顔を見なさい」と言って鏡を見せますと、
「まあ、これ誰ですか」って。
自分の顔を見て、マアーと驚いておられます。
いっぺんに顔が変わってしまいました。

自分の顔を見て、「誰ですか」というほど豹変して、顔の相が変わりました。
「あなたが自分の顔を見てびっくりするほど変わっているのですから、
あなたに憑いていた人はもおうおらない証拠です。
自信を持ちなさい」と言いますと、だんだん自信がでてきまして、
「来てよかった。ほんとうに来てよかったです」と、喜んでくれました。
そのように顔の相まで、いっぺんに変わってしまいます。
まあ、こんな不思議なこともありますけど、これは見えない世界の、
しかも救われたいと思っている迷える意識の一例です。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-06 00:16:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


              講演集、 三


        救われたい「迷える意識」――竜の話


先の続き・・・

その方に、約束してもらおうと思いまして
「では私が、この場であなたに憑いている竜を救い上げたら、
あなたはS宗教を止めますか」と言いますと、
考えこんでいます。
「じゃあ、どうぞそのまま帰って拝んで取ってもらいなさい」と言うと、
「いえ、取って下さい。私、もう止めます」と決心して、おっしゃいました。
「では、取ってみましょう」と言って、その方に入れますと、
最初はなかなか口を切らなかったのですが、
「はい、口を支配しなさい。この方を支配しなさい。

口を通して語ってみなさい」と言いますと、
竜が乗り移ってきてこう言いました。
「この女は、ものすごく信仰厚いから、この女に憑いていたら、
わしはお経文をいただいて救われると思っておりました」と、
今日までまる三年取り憑いていたというのです。
「では、あなたは救われましたか」と尋ねると、
「なかなか救われない」と言います。
それはそのはずで、お経文によって救われることはありません。
なぜ救われないかというと、お経文の意味が理解できないからですね。
難しい中国の漢文である上に、当時のお経文です。

いくら読んでも、意味を理解しない限り、百万遍唱えても功徳はありません。
意味を理解して、そして日々の生活に実践してこそ、経文の功徳は現れます。
その竜さんに話しました。
「あなたは、よく自分自身を振り返ってみなさい。
今あなたはそういう竜の姿です。
しかし、ようく振り返ってみなさい。あなたも、私たちと同じように
この地上において生活をした同じ人間のはずです。あなたはこの世に生きた時、
あまりにも物事に強く執着しました。如何ですか」と聞きますと、
「その通りでございます」と言います。

そこで、「この世に生きた時、怒り、妬み、謗り、愚痴、或いは取越し苦労を
してみたり、恨んだり、憎んだり、そういう思いはいかがですか」と言いますと、
突然鼻汁をバーッと流してきまして、汚い汚い鼻汁がいっぱい出ます。
そして涙をぶるぶるこぼして、そういう間違いの生活をしていたことを
自ら認められました。
そして、その人生を悔い改め、神にお詫びをされました。
そこで、「あなたの帰る世界に帰りなさい。私がお送りしましょう」と言って
送りますと、その方から抜けましたから、
突然、すごく可愛い顔になってしまったのです。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-05 00:38:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 三


    救われたい「迷える意識」――竜の話


先日、沖縄へ寄せてもらった前夜のことです。
今夜はちょっと早めに休ませてもらおうと思っておりますと、
七時過ぎに富山県から電話がありました。
S宗教を十何年も信仰されている方だそうです。
その方が、ある拝み屋さんに拝んでもらったところ、
そこに竜の掛軸がかけてあって、
その拝み屋さんがエイーヤーとやりますと、竜がポッとその人に
飛び込んでしまって、それ以来、その人のおなかの中やら、
胸の中やらを這い回るそうです。

そして、首は蛇のように動くし、目はつり上がってくるし、
顔は表面が引きつって、鬼の顔ではないかと思うほど恐ろしくなって、
その方は自分の顔を鏡で見るのもこわいとおっしゃっています。
五十歳前後のご婦人ですけど、昔は嫁ぐ時三面鏡を持ってきてますね。
その三面鏡が古くなると、自動的に開いてきます。
蝶番が甘くなって自然に開きます。
開いた鏡の前を通って、自分の顔が映るのが怖いから、
閉じて紐でぐるぐる巻きに縛っているそうです。

そして、体の中を何やらぐにゃぐにゃ回るのが自分で分かると言われます。
電話を戴きましたから、「いや明朝、沖縄に寄せていただきますので、
明日は留守です」と言いますと、「まあ、困りました。
これから行くから何とかして下さい」と言って、お見えになりましたのが、
もう十一時を回っていました。
「何やら体の中を這いまわるのが分かる」と人に話すと、
「そんな阿呆なことはない、あんたは気違いだ」と言われるたそうです。

精神病院に何ケ月か入院して調べてもらったけれど、
どこも悪いところはないと言われる。
ところが、本人は、そういうふうに思うし、顔は変わってしまって、
見るのも恐ろしいとおっしゃいます。
その方は助かりたいが為に、S宗教の信者さんに何十人と集まってもらって、
何時間もその方を前に置いてお題目を唱えて拝んでもらったそうです。
何千回も拝んだけれども、取れなかったのですね。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-04 02:04:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 三


            救われた霊の報恩


A町内に、Uさんと言いまして、えらいお金持ちさんがおられます。
自分が育った家を、お父さんが勝負事が好きで、
その為に家を売ってしまったのです。
しかしその後、Uさんは大成功をして億万長者になられ、自分の育った家を
買い戻されたのですが、その家にはS宗教の偉い人達が住んでいたのです。
事あるごとに皆さんが集まって闘争闘争と言って、祈っておられました。
そして、その家を売ってよそへ出ていかれたのを、今度買い戻されたのですね。
折伏、闘争の中に安らぎがあるはずがありません。
闘争は破壊を呼びます。

それだけならいいのですが、あの宗教は現世利益を願う教えです。
健康になる、金持になる、商売繁盛する、拝んだら拝むほど良い、という教えです。
拝んでうまくいくはずはありません。
もっと拝んでいたらと思って、夜も寝ず拝むとしたら、今度は死んでしまいます。
拝んで幸せにはなれません。
恐いのは、我欲の世界の念によって見えない我欲の世界のものが集まってくることです。
念によって、我欲の故に迷う想念が、その場所に集結して来て不調和起こします。
その人達を救うて下さいと頼まれて、その家に行きました時に、まず光を
頂いてからその場所に行きますと、足許から数え切れないほど多くの迷える
者が寄ってくる気配がするのです。

何とか這いずり上がろうとする想念ですね。
そこで数え切れない想念をお救いさせてもらいました。
その後、Uさんの奥様のお里で家を建てている間、ここの家に入られたのです。
すると、商売をなさって以来、最高の売上があったそうです。
それは、救われた諸霊が報恩の行為をするのです。
救われてくれますと、光となって注がれてきます。
浄化されて綺麗になるだけではなくて、今度は喜びの光が注がれますから、
大変有難いのです。

私はどこへ行きましても、そのあと、その家は商売繁盛するし、お金が
儲かってしようがないようになりますから、「先生は福の神様だ」と言って
いただきます。
ただ行かせていただくだけです。
私と言う人間は未熟な至らない存在ですが、私の存在を通して、
神の大いなる御業が示されます。
いといと小さき神のみ使いを自覚しております。
いくら小さくても、神のみ使いとして生きさせていただきたいと思っています。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-03 00:30:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             
              講演集、 三


            土地の因縁、地神様


先の続き・・・

次に、その場所に、曾(かつ)て神として祀られ、
或いは仏として祀られていた意識があり、
うっかりしてその上に便所を建てたりしますと、
えらいことになります。
さらに家を建てるなど、
とんでもないことをした為に不幸になる方があります。
怖いのは、目に見えないので分からないことです。

曾て神として、仏として、祀られたご神体と称するもの、
これが土に中に埋まっている場合災いをするのです。
探知機をもってきても見えませんが、
有難いのは、そこに住まわせてもらう
人間が、常に光に満たされて、感謝し、喜び、
そして安らかな生活をして、
もしもそのようなものがありましたら、
「どうぞ、私のように幸せになって下さい。

この幸せになるにはどのようにしたらいいと思われますか」と言って、
話させてもらったら、皆救われて下さいます。
新しい土地に家を建てるような場合は、
「縁あってこの土地に住まわせていただくことになりました。
曾てこの土地を所有して、ここに思いを残しておられる方がありましたら、
よく聞いて下さい。

神として仏として祀られておられた皆様も、共に聞いて下さい。
私たちは本来あの光り輝く天上の世界からこの地上の世界に自らの魂の修行に
来ております。
この地上の修行が終われば、又あの光り輝く天上の世界に帰ってこそ真の
成仏ができます。

この地上の思いを残しますと、その思いが執着となって救われることはできません。
この地上界から一切の思いを放して下さい。
そして、この地上において生活をなさいました五十年、百年を、
よく振り返ってみて下さい。
私たちは、この肉体の故に、或る時は怒り、妬み、謗り、愚痴、恨み、憎しみ、
足ることを知らぬ欲望に捉われて、自らの心を苦しめてきました。
その苦しみが錘となり、あの光の世界へ上がることができません。
真の神、仏は言われます。

私たち人間に対して、『いとしき我が子たちよ、そなたたちは幸せに生きよ、
健やかに生きよ、おのれ自身を苦しめること勿れ、己を大切にし、
己を大切にするがごとく他を大切にせよ」と言われます。
自らの心を苦しめることは、神のご意志に背きます。
神のご意志に背いて、何者も救われることはできません。
その過ちに気付けば、自らのこの世での生活をよく振り返り、
自らが作った過ちに気付けば、今、心を素直にして、
自ら作った過ちの一つひとつを真の神に
お詫びしてみなさい。

その時、あなたの心は安らぎ、必ず天上の世界へ救われます。
よく反省しなさい。
神よ、光をお与えください。
願わくば、調和と安らぎをお与え下さい。
諸霊の意識に光をお与え下さい。
諸霊の罪をお許し下さい。
あの光の世界へお救い下さい」と言って、祈らせてもらいますと、
救われて下さいます。
皆様も是非私の真似をして下さい。
その時、その地上界は清められ、自らの住む場所が清められます。
災いは起きてきません。
そして、救われた方は必ず喜びのご恩返しをしてくれます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-04-02 02:42:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

          恩師のご著書「講演集」より


               講演集、 三


            土地の因縁、地神様


よく、土地をお払いしてほしい、事故が起こるのを止めてほしい、
幽霊が出ないようにしてほしい、それはそれはいろいろ言ってこられます。
が、それは必要に応じて全部与えられます。
望み通りにしていただけますね。
土地の因縁の中には、いろいろ種類があるのです。

よく拝み屋さんに頼みますと、
地神さんがいられるから祀りなさいと言います。
あの地神さんというのは、人の執念です。
低級な霊能者が見ますと、人の執念が蛇に見えるのですね。
それを地神様というのです。
土地というのは、次々持ち主が変わっています。
先祖代々からずっとその土地を持っておられる方というのは、
恐らく一軒もありません。

天皇様でさえ、都を次々に変えておられます。
今は東京におられますが、
京都に奈良に或いは近江(滋賀県)におられました。
ましてや、我々一般庶民は先祖代々ずっとその土地を持っている例など
恐らく一軒もありません。
先祖から大きい財産を譲り受けても、仕事をせず遊んでばかりいますと、
全部売ってしまうことになります。

栄枯盛衰、これは避けることのできないこの世の習いですね。
土地を自分のものにする為には、大変努力して、爪に火をともすようにして、
食うものも食わずに働いてやっと自分の土地にするのです。
その土地を自分のものにするのに苦労した人が、「私は死んでもこの土地は
離さない」という執念をもってこの世を去りますと、
その方の思いがその土地に残ります。
それが蛇の姿となって残っている巳さんです。
これが一つの因縁です。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-04-01 02:01:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 三


        見えないものの存在


死んでから、蛇の姿になり、
或いは狐の姿になって迷っている方がいっぱいあります。
ほんとうは蛇とか狐とか或いは狸とか、そういうものは、
人を化かしたり祟ったりはしないのです。
そういう意識になり下がった人の意識が災いを起こします。
そういうことが分からないものですから、「これはえらいことだ、祀れ」
「これは供養しなくてはいけない」ということになるのです。
地神さんというのは、大体蛇の姿を見せます。

それは人の執着です。
これをゴミに譬えてみますと、拝み屋さんが来て、
「ここを祀りなさい」と言って、地祀り或いは棚祀りをすることは、
ゴミを掃除してゴミ箱に入れて、
屋敷の側に置いているのと同じことです。
うまいこと管理しないとまた出てきます。
神主さんが来て、「祓い給え、清め給え」とやったら、
塵叩きでゴミを払っているようなもので、
その時は、なるほど綺麗になるけれど、
また、そのゴミはそこへ落ちます。

一番いいのは、掃除機を持ってきて、
バーッとゴミをみな吸い取ってしまって、
然るべく処置をしてしまうことです。
こうすれば、もう出てきません。
私の場合は、
掃除機でそういうゴミを全部吸い上げてしまいますから、
後がうまくいきます。
私たち人間は、この世に生きさせていただいて、
肉体或いは物質の中で、
ただこの世だけが総てだと思って暮らしてきましたが、
この世だけではないということです。

目には見えない世界があります。
目には見えないから、
「この空間に何かあるのですよ」と言いますと、
「この空間には何もない」と普通は言います。
しかし、目に見えないこの空間の中にも、
ラジオの電波、テレビの電波など、
いろいろな電波が飛び交っています。

私たちの目に見えないだけで、現実にはあるのですね。
もっと分かり易いのは、部屋を閉めて、夏にクーラーをかけますと、
もうどんどん水が出てきます。
この空中に水がいっぱいあるのです。
水と言えば語弊があります。
水の原子(H2O)が、もういっぱい充満しているのです。
熱作用によって水が分散して軽くなって、
空中にいっぱいあるのです。
ところが、私たちはそれを見ることはできません。

それと同じように、見えない世界に、
私たちのこの肉体が無くなった後の意識、
その人がもっている心があるのです。
本当なら、「成仏」と言いまして、
生まれてくる前に住んでいた世界に帰らなければならないのです。
そこは極楽或いは天上の世界と言います。
ところが、そこへ帰れないで、この世に残しているその思いが、
見ることはできないけれども、霊として現実にいっぱいおられるのです。

病院などへ行きましても、もし自分の心ができていないのに、
霊視してそういう世界が見えますと、
もう恐ろしくてそこにはいられないはずです。
病院には死んで迷っている人がいっぱいおられます。
病院は自分を助けてくれる所、ここにいれば、病気を治してくれると
思ってそこで死んだ人が、「ここにおったら助かるのだ、
治してもらえるのだ」と思って、ウロウロしているのです。

ところが、普通は見えません。
触れることもできません。
だから、どこの病院に行きましても、必ず怪奇現象の起きる部屋が
二つや三つはあるはずです。
部屋へ入ったら、誰かが枕元に立ちにくるとか、ドアを開けに来るとか、
そういうことはどこの病院にでもあるのです。
それは皆、亡くなった人の意識が残っているからです。


         ~ 感謝・合掌 ~



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