浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「講演集」より。

2015-04-25 00:16:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 三


       人を救う実践は「光」である


先の続き・・・

東京のAさんというお宅に、いっぱい大きな金が出たといって、
私の所へ手紙に貼り付けて送ってくれました。
(会場での会話。「あれは小豆より大きいですものね」「大きいですね」)
小豆より大きいのを三つ送っていただきました。
それがたくさん出てきて、桐の箱いっぱい入れてあるそうです。
山口でも、ものすごく劇的なことがあったのですよ。
ちょうどお寺のお坊様がお見えになっていたのです。
婦人会館を会場に貸していただいて、七十人ぐらい集まっていただいた中に、
お坊様が後ろのほうにおられるのです。

ところが、その時に限って、またお釈迦様のお話ばかりが出てきます。
専門のお坊様がお見えになっていますのに、
素人の私がお釈迦様のお話をさせていただき、
ほんとうに申し訳ないと思うのですが、言葉として出るものは止められません。
そして、お釈迦様のお話をいろいろとさせていただきました。
もし、わたしが間違っておりましたら、後ほど宗教家としてお坊様の立場で、
私を御指導下さいとお願いしておきまして、お話をさせてもらいました。
禅宗の偉いお坊様で、ものすごく恐い顔をして、私を睨みつけておられるのです。
ところが、嫌みなことに、次々と仏教の話が出て来るのです。

大きなお寺の法要などで、花を散らすと書く「散華」というのをしますね。
印刷した蓮の花びらを散らすのです。
それをみな、有難いといってもらってくるのです。
なぜ、ああいうことが仏教に伝わっているかと言いますと、
蓮の花は、お釈迦様が常にたとえとしてお説法下さった花です。
泥池と蓮の花、あの泥池は誰が見ても汚いです。
しかし、あの水面に咲く花は泥の汚れを何一つ受けていません。
清らかな花が咲いています。

「私たちの肉体は正に泥沼と同じものである」と、
信次先生もよくおっしゃいましたね。
「目から目くそ、鼻から鼻くそ、歯から歯くそ、耳から耳くそ、
そして下からは大きな糞或いは小便、膚(はだ)からは汗や垢、
どれ一つとして清らかなものはありません。
譬えてみれば、肉体は、不浄なものを詰め込んだ皮袋であり、
浄なるものは何一つなし」このようにおっしゃったのです。
不浄なものばかり出て来る、その不浄なものを詰め込んだ皮袋のような肉体に、
私たちは捉われるのですね。
顔を綺麗にお化粧して磨いているけれど、中を開けたら不浄なものばかりです。
なるほど、そう考えてみますと、まともなものは出てきませんね。


            ~ 感謝・合掌 ~



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