浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

偉大なる光の王に導かれ
我が身は動き口は語らん

「御垂訓」

2017-11-16 00:09:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道

        ◆神を知りたければあの太陽を見なさい◆

完全に調和している神仏の心に自分の心がどれだけ近づいたか、
その度合いに応じた光の量があり、同じレベルの者同士が住む区域が、
明暗さまざまな段階に分かれています。
それがこの世でも魂の高さや低さ、霊格の違いなどという形で現れてきます。
神仏の心と己の心との違いを知ることです。
ところが、神仏の心とはどんなものか、神とはどのようなお方かを知らないと、
自分の心がそこからどれぐらい近いか、また隔たっているかもわかりません。
神を知りたければ、あの太陽を見なさい。

太陽の心とは太陽の熱と光に象徴される無償の愛です。
太陽は、自らの身を犠牲にし、自らの身を燃え上がらせ、
自らの生命を燃焼させ、
その結果として現れる熱と光を放出して生きとし生けるものに
エネルギーを与えています。
この熱と光こそは神の慈悲と愛です。
地球がいただいている熱カロリーは一秒間に石炭二百万トンを
燃やすほどのものだそうですが、
それでもお日様から請求書が来たこという話は聞いたことがありません。
神の御心もこれと同じで、与え放しの愛です。
私たちは、人に何かしてあげたと言ってはつい見返りを期待したり、
要求したりします。
期待がはずれると相手を恩知らずと決めつけ、かっかりしたりします。
もし、与えること自体に喜びを見出すことができたなら、
どんなにか心が楽になることでしょう。
これこそが神様の本当のお気持ちなのです。

そして、本当の幸せというものもここから実感できるはずです。
得ること、取ること、奪うことばかりを求めていれば、
あくなき欲望のためにいつまでたっても心に安らぎはありません。
私たちも本質は神であり、神様とまったく同質同根の生命をいただき、
内に偉大な神の分け御霊をいただいております。
私たちが結果や見返りを期待することなく、
人のため世のために一生懸命に善き行いを積み重ねていったならば、
神様の御心をこの現象界の肉体次元に具現することが出来る筈です。
太陽の心とは、完全なる無差別平等です。

いかに社会的地位、名誉の高い方であっても、また低い方であっても、
いかに金持の方であっても、また貧乏な方であっても、健康な方にも、
感謝する人にもしない人にも、宗教を信じる方にも信じない方にも、
まったく同じ量の熱光(神の慈愛)を与え給うのです。
もちろん、国境や言語や皮膚の色の違いをも超越してのことです。
太陽はどんなものにも差別なしに熱と光を与え給います。
それと同じく神も、私たちに対してまったく差別なしに慈悲と愛を
与えられています。
それを私たちは自覚できないでいるだけです。
知らないということは無智です。
無智なるがゆえに、

その大いなる愛と慈悲とをもって私たちを包んでくださる神の懐の中に
生かされながら、私たちは神の子として当然行うべき愛を知ることも、
慈悲を行うこともできないでいるのです。
神様の御心を私たちが行い、実践させていただくこととは、
すべての人を好き嫌いなく、すべての人に慈愛の心で接することです。
それは自分自身の幸せのためです。
太陽の心(神様の慈愛)は、人の過ちに対して絶対に責め裁きをなさいません。
どのような罪深い者でも、すべて赦してくださっています。
バチなどお当てになりません。
完全なる赦しの心が神の御心です。
ただ、天に唾する時は、その唾は太陽(神)には届きませんが、
必ず自分にかかってきます。


                ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-15 00:09:21 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

     ◆肉、魚、野菜、植物。鉱物、我が身に一つの命は流れる◆

生きていく限り、肉体を保持しなくてはいけません。
そのためにあらゆる動物の命、
つまり肉や魚などの生きものの命をいただいています。
また、植物の命や水、鉱物の命をいただいて、
そのお陰で生きさせていただいているのです。
見えない宇宙の中心から流れどおしの神の愛が命となって
動物や植物や鉱物に注がれていると同時に、また私たちにも注がれています。
花の命も私たちの命も同じです。
生きるということは、他の命をいただき、
他の命のお陰で生かしていただいています。
米も肉も野菜もすべて「生きた命」を私たちはいただいています。
それらの犠牲と奉仕に対して報いるということは、
食物が私たちの肉体の中で血や肉となって、
いっしょに修行してくださいという気持ちで祈りつつ、いただくことです。

常にこのエネルギー源への感謝の心を忘れないようにしなくてはなりません。
ところが、あって当然という思いから、感謝を忘れています。
足ることを忘れて、欲望だけを太らせていったら、どうなるか。
やがて人類は滅亡してしまいます。
戦後の日本では、機械化農業で手間を省いたり、
経済合理化主義の考えにより除草剤を大量にまいたり、
また経済を発展させ消費をますます増やすために、不必要なものまで
工場で過剰に生産してきました。
そのため、環境を汚染する化学物質をまきちらし、
最近では生物界での「メス化現象が話題になるほど地球上の
生命が絶滅の危機に瀕したり、
人間の健康が害毒にさらされたりしている始末です。
除草剤や農薬のかかった米や野菜、ダイオキシン類に汚染された牛乳、
環境ホルモンによって生ずる水産物の汚染や生物界の異変。生殖異常など、
挙げればきりがありません。
これでは生命や神への感謝どころの話ではありません。
おまけに、これらへの冒瀆とも言えるのは、
神聖な領域を汚してしまっている科学上の発見や技術上の発明です。

様々な生命操作、そして除草剤の毒性に対して強い抵抗力を持つ作物へと
つくり変えられた遺伝子組み替え食品などもその例です。
常に自分たちを生かしてくださっている力に意識を向けて感謝していれば、
私たちは健康で幸せに暮らさせてもらえます。
ところが、これを忘れて勝手に金儲けのためや快楽追求のために
自然を破壊しながら、自分の心の喜びや身体の健康さえも失っています。
顔からは笑みが消え、体からも心からもエネルギーが抜けてしまっています。
こういう方々が増えています。
それでも、神様はいつも太陽のごとく平等に絶え間なく、
私たちにエネルギーを注いでくださっています。

ただ、人間のほうで命を育み守ってくださる神様の愛の流れを
遮断しているだけなのです。
神仏を否定したり、生かされていることへの有難みを忘れてしまうということは、
愚かにも生命の光、生命の力をお断りしているということになります。
常に「もしなかったら」と思って感謝を忘れないことです。
そうすると、自分の心が喜びに満たされます。
「私はこんな辛い環境の中で何も喜べません」とおっしゃる方がありますが、
太陽と熱と光に感謝しなさい、空気中の酸素に感謝しなさい、
水に感謝してみなさい。
そうすれば喜びいっぱい与えられます。
現在の苦しい環境はだんだんと消えていきます。
金や物はたくさん持っていても火事に遭えばなくなりますが、
心の喜びはどんなことがあろうと、
なくなることもなければ盗まれることもないのです。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-14 00:03:38 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

        ◆宇宙の中心から流れどおしの愛の光◆

先の続き・・・

死は実在界の側より見れば、単に古くなった衣を脱いで、
生命の源により近い実在の世界
に魂が帰っていくだけの話です。
宇宙の中心には泉のようにあふれ続ける命のエネルギー源があります。
それはこの物質の現れの世界から見れば、はるかに高次元の段階にあり、
私たちのところまで、その愛は注がれています。
この流れは遮られれば一日も生きてはいかれません。
死の心配や恐れを心にいだいていても、
死期が遅くなるわけでもありません。
心にこういう思いを詰め込むと、重い心となり幸せになれません。
それよりも、惜しみなく、限りなく流れ来たって私たちに注がれている
神様の大いなる愛に対する感謝と報恩の心を常に忘れず、
喜びをもって日々の生活の中で、
神様へのお返しとしての善き行いをこの身を現わしていくほうが
大切だと思います。
それには今を生きることです。

まだ来ぬ先の心配ばかりしている方によく言います。
「生きている限り絶対に死にません」。あるいは、
「死ぬまでは間違いなしに生きています」。
これは真理です。
大安心の中に生きてこそ神様とともに生きられ、
肉体的生死を超えた永遠の生命のもとに帰ることができます。
永遠の生命とはなんでしょう。
私たちの住まわせていただいている地球は、太陽系の中の一つです。
太陽系には太陽を中心として、
九つの惑星と三万数千個の小惑星があると言われています。
銀河系宇宙には太陽系のような星の集団が約二千億個もあるそうです。
この銀河系星雲のはるか彼方に、
また銀河系星雲のような星雲が無数に点在し、その数、
数千億個が集まって島宇宙をつくり、その島宇宙が数千億個集まり、
大宇宙がつくられていると言われています。

なんたる広大な、なんたる壮大な、なんたる荘厳な、
なんたる叡智に満ちた大宇宙であることでしょう。
この大宇宙の中心か流れ出る一つのエネルギーと数々の法則によって、
全宇宙が動かされています。
循環、生産、破壊、調和、今現在もこの大宇宙の中で数百億年の年を経て、
自ら爆発、破壊し、宇宙の中に分散している星もあり、
この分散したガスがまた集まって新しい星が生まれていることも事実です。
なんたる壮大なドラマでしょう。
小さくこの地球に目を移した時、
地球の大自然の中にもまったく同じ法則が働いています。
現れては消え、消えては現れる永遠不変の真理です。
私たちは人間も例外ではありません。

また、小さく原子の世界に入ってもまったく同じ法則によって
動かされています。
この大宇宙の中心から流れ出る一つのエネルギーを大生命と呼び、
愛と呼び、神と呼んでいます。
また、大宇宙の数々の法則を正法と呼んでいます。
この書の中で神という言葉が数多く出て来ますが、
この世の宗教とはいっさい関係ありません。
大宇宙の中心から流れ出るエネルギーを神と表現し、
大宇宙の数々の法則を正法と表現させていただいています。
このことをご理解の上、読んでいただければ幸いです。


           ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2017-11-12 23:47:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第二章 必要なのは正しい生命観の確立

       ◆宇宙の中心から流れどおしの愛の光◆

魂が自分の本質を悟って死ぬ時にうまく肉体を離脱できれば、
成仏できます。
この時に不思議な現象が起きます。
それは先に述べた死後硬直が起きないということです。
なぜ、一般にこれを「不思議な」現象と言ってしまうかというと、
肉体に現れたものだけを見て、心の状態のほうを見ないからです。
この世の法則からすれば、肉体や物質を主に考えるために、
「いかにも不思議に思える」にすぎません。

命のないはずの死体が柔らかいだなんて、
そんな馬鹿なことはあり得ない、と。
医学的には、体温によって私たちの細胞の間にある乳酸によって
身体は動くようになっているそうです。
血液循環で温度を保っていれば、乳酸が柔らかく働いていて、
血液が止まると体温がなくなり、乳酸が凝固してきます。
これが死後硬直の姿です。
の具合を調べます。
顎のあたりから始まり、全身へと硬直が広がっていきます。
その状態によって、これは何時間前の犯行であると判断します。
死後硬直が起きないという事態に遭遇した時、
私たちの中には非常に戸惑う方もおられるでしょう。
亡くなって三日間も身体が温かく、綺麗な顔、
ということもあります。
本来、心は物質に支配されないものです。
心は物質を超えています。

肉体がこの世の法則を超えた奇蹟を現わすのも、
心の本来の働きが肉体に影響しているからです。
人間は何度も肉体という衣を着脱しながら、
生まれ変わり死に変わりしています。
一方、魂は永遠に生き通しの命として持続していきます。
人間の本来は永遠の存在です。
ところが、肉体を自分と思っていれば、
魂は肉体に支配され拘束されたままです。
自分の正体、魂本来の使命やふるさとを忘れ、
眠ってしまっているかのようです。
あの世へも行くことができ、生き通せるはずの魂が自由になれず、
肉体がなくなるのは嫌だなとか、
死ぬと燃やされるからかなわないな、
恐ろしいなという思いにがんじがらめに縛られ、委縮していると、
たちまち肉体は石のように硬直し、本当に生命の根っ子から
プツンともがれた花のように美しさを失います。


         ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-11 23:44:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第二章 必要なのは正しい生命観の確立


        ◆命のふるさとと光の量の区域◆

先の続き・・・

なぜ、この現象界が修業に適しているかというと、
ただ厳しい荒波の世界であるからというだけではなく、
別に重大な理由があります。
生まれる以前の素晴らしい世界には、
それぞれの魂の浄(きよ)まり具合に応じた光の量の区域があります。
百ワットの人は同じ百ワットの人だけが集まり住む区域に、
また五十ワットなら五十ワットの人々同士が集まり住む区域に住んでいます。
つまり、同じ心のレベルの者同士が一つの区域に集まっています。
そうすると、魂の修行にとって不都合なことが生じてきます。
魂の次元の同等なもの同士が出会っても、
他を見て己れの至らなさに気づかされたり、
お手本を見させてもらったり、
逆にあのようになってはならないと見せられたりすることがありません。
つまり、他人と自分との違いから学ぶということができません。

光の量の区域という実在界の法則から、
異なる魂のレベルが同居する現象界に心が移行することで、
いかに魂の次元の高い方も次元の低い方も、同じ肉体に宿りますから、
今度は様々な光の段階の人と出会い、
そこで起きる出来事を通して効果的に学んでいくことができます。
魂の速い進歩のためには、
この苦労の多い「苦海」とお釈迦様が言われる現象界に
生かしていただけることはとても幸せなことです。
魂の次元の高い方を見て、次元の低い方は、
「あのように生きなくては」と学ばせていただき、
また低い方の言動を見て、
「あのように生きてはいけない」と学んでいきます。

実在界と現象界との大きな違いは現象界がいかに
教育的な環境であるかということです。
姿形だけみれば、個人差はそれほどないようですが、
心は「あの世」のものです。
それが「この世」の五官を備えた肉体の中に宿ることにより、
自己保存や自我我欲などの「業」の思いを生み出し、
もともとの愛や平安の心を忘れてしまいます。
ところが、自らつくり出してしまった悩みや苦しみ、
「この世」の災難、苦労や困難などを経験することによって、
心の誤りを反省させられ、軌道修正することで成長を遂げつつ、
再び魂のふるさとにいた時の平和な安らぎの心を思い出し、
より次元の高い心へと導かれ成長させられます。


        ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-11 00:12:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


     第二章 必要なのは正しい生命観の確立

     ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆

先の続き・・・

私たちは人間として生まれる以前は
調和と安らぎに満たされた世界におりました。
今私たちが住んでいる次元とは異なる世界です。
こちらが本当にある世界、実在界です。
私たちにはあるよう思える空間や距離や時間さえも、
実在界(あの世)には存在しません。
そこから、私たちはこの仮の世界、
地球上の一時だけの物質化された現象界に厳しい魂の
修行のために出て来ています。
実在界から現象界を見ると、
それはそれは粗悪な危険極まりない修行の場所です。
一歩踏み外せば断崖絶壁から転げ落ちる、
あるいは深い深い泥沼にはまるかもしれない。
又、あの蟻地獄そのものです。

それほどこの現象界とは危ない所です。
誰しもが幸福な人生というものを望みます。
自らの欠点を直さなくてもいいのだと言われる方でも、
自分が不幸でもいいとおっしゃる方はおられません。
それは、調和した光あふれる「魂のふるさと」において味わった幸福感、
至福の芳香というものが、記憶の底に残っているからにほかなりません。
望郷の思いであり、郷愁、ノスタルジアの思いです。
再びかつての幸福感を体験するには、
この現象界の様々な困難や危険や誘惑に負けることなく、
それらをのりこえて、自らの心の奥深くへと探求していかねばなりません。
そのための悪癖の修正とも言えます。

私たちは食べるために働き、生活のために汲々としたり、
時には間違ったことも認めなくてはならなかったり、
人の嫌な面や自分の汚らわしい部分にも直面させられたりと、
肉体を持つかぎり不自由きわまりない人生を強いられています。
しかし、人間はただ食べて寝て働いて、適当に遊んで、
肉体の終わりとともに一生を終えるだけの存在ではありません。
なんのために命をいただき、この地上に出て来ているのか。
それは少しでも魂を進化させ、向上させるためだったはずです。

もちろん、その結果としてこの世の生活が充実し、
幸せも健康も自分のものにできるものでなくてはいけません。
その上で魂のふるさとにいつの日か帰り着き、神様と、
そして魂の兄弟たちとの約束を果たしてまいりましたという
安らかな喜びをお伝えすることです。
そのためにも毎日を心豊かに過ごせるよう、
反省と善き行いの努力をすべきです
一休和尚に次のような道歌があります。
「世の中は喰うてくそして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりか」
物質だけを追い求めて生きると、どれほど地位、名誉、財産を得ても、
このような一生になります。


        ~ 感謝・合掌 ~



当ブログを開設(2008-11-11)から本日(2017-11-11)で丁度9年になりました。
この期間中に当ブログへ訪問して頂きましたたくさんの皆様に心より
深く感謝申しあげます。
訪問者数と閲覧回数を下記のようにご報告申し上げます。
(インターネットやパソコン等の不具合により投稿できなかった日数を
100日として計算)

  訪問者数 合計 236,772     一日平均  74名
  閲覧回数 合計 767,548     一日平均  241回

恩師(故)長尾弘先生も天上界でたくさんの皆様に当ブログへ訪問して頂き、
閲覧して頂いていることを大変喜んでおられることとご推察申し上げます。
ありがとうございました。
これから後も宜しくお願い申し上げます。



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「御垂訓」

2017-11-09 23:50:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

        ◆魂の修行という生命の目的を知ること◆

私たちはなんのために生まれてきたのでしょうか。
誰しもがこんな疑問をいだいたことがあるかと思います。
子供の頃になぜ自分はここにいるのかとふと思ったり、
青年期に自分の生きる道を模索して、
どんな生き方をしたらいいのかと思ったり、
また社会に出て障壁にぶつかり、このままでいいのか、
私の本当のなすべきことはなんなのかなどと悩んだりしたことは、
どなたにでも経験のあることと思います。

人生とは、人との出会いの中で展開してゆきます。
そして、あらゆる出来事を通して、悩み苦しむのです。
人と出会えば出来事が起きて来ます。
この出来事により、私たちは魂の修行をさせていただきます。
魂の修行とは、人間は人それぞれに素晴らしい面もあれば、
また素晴らしくない面もあります。
その素晴らしくない面を素晴らしくするためにこの世に
生まれて来ています。
自分の持っている悪い癖、欠点の修正です。
なくて七癖、あって四十八癖というほど、
人はそれぞれの心の癖を持っています。
その癖は遭遇する出来事によって引き出され、強く出て来ます。
わるく出る癖もよく出る癖もありますが、
特にわるい癖のほうは「業」と呼ばれています。

しかし、自分の欠点を直らないものと決め込んでいる方もおられます。
人間は不完全なのが当たり前だと信じていらっしゃいます。
赤ちゃんを見ると人間は生まれながらの天使であるとわかります。
それが成長するにつれて、心が曇ってゆき、
天使失格となってしまいます。
縁ある赤ちゃんで一番早く合掌してくれた方は、
生後一か月で抱きかかえられながら
モミジのような手を合わせて綺麗に合掌してくれました。
また、生後九カ月で、
ハイハイがやっとできる赤ちゃんが綺麗に正座して合掌してくれました。
浄心庵にその写真があります。
正に小さな汚れなき仏像のようです。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-08 23:47:53 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第二章 必要なのは正しい生命観の確立

              ◆心の重量と行き着く先◆

先の続き・・・

これは私たちの誰もがそういう心になれば、体験できることです。
誰にでも該当するということは、
重力の法則が物理的な真実としてこの現象界を支配しているのと同じく、
「心の重さの法則」も心の世界とこの世における境遇を結ぶ法則でもあるからです。
ところがこの法則は人が死んだ瞬間に、
「この世」だけのものではないということが証明されます。
反対に砂を詰めた砂袋のような重い心でいれば、現象界の下のほうへと沈んでゆき、
最下層にぶら下がりながら生きていることになります。
「苦しみ」を心の中に一杯詰め込んでしまった場合です。
砂袋の材料は何かというと、怒り、妬み、謗り、愚痴、貪欲などです。
相手をわるく思ったり、わるく言ったり、恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労をしたり、不安や恐怖にとらわれたり、
嘘をついたりすることもそうです。
もちろん、人のものを盗むとか、足ることを忘れた欲望の虜になるとか、
そういうことも心を苦しめ、心を重くします。
心が軽い場合、重い場合、そのどちらもこの世に生かされている限りは、
物質、肉体の世界に心がつなぎとめられていることに変わりありません。

一定の範囲内で上のほうに風船のごとく漂っているか、
それとも砂袋ように下のほうに重く沈んでいるかの違いです。
しかし、臨終を迎え、この肉体界、現象界に心を結びつけていた
肉体の命の糸がプツンと切れると、
軽い心は自ずと上へ上へと上昇して喜びの世界へ行きます。
重い心は鉛のように垂直方向に落ちて、苦しみの世界へ行きます。
これは自然法則と同様に私たちにとっては逆らうことのできぬことです。
いかに厚い信仰をしても、どんな宗教に入っても、どんなに善い事をしても、
その結果、自分の心を苦しめますと心は必ず重くなります。
下に行きたくない、上に昇りたいと言ったところでどうしようもありません。
先に「心の重さの法則」は「この世」だけに
適用されるものではないということを述べました。
それは、こうした意味においてです。

肉体にあるうちに魂の目的を知り、自らの心を綺麗にし、
自らの心を高める努力をすることによってのみ、
死後は自分の望む方向に行くことができるわけです。
己れ自身を愛することを神様は私たち一人一人に望んでおられます。
死んで自分が行くことになる所が、
苦しみの世界ではなく光に満たされた世界であるためにも、
日頃から自分の心を苦しめないように心がけることが大切です。
「火の車つくる大工はなけれども己がつくりて己が乗りゆく」のとおりに、
火の車を造って乗っているのは他ならぬ自分であり、
地獄へ行くのも自分が行くべくして
行っているということです。
これは厳然とした法則の中における人間の選択の自由ですが、
その自由も魂の度合いに応じたものです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-07 23:41:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第二章 必要なのは正しい生命観の確立


           ◆心の重量と行き着く先◆

地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間のはかない存在が人間というものです。
形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていくこの世のあらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。

そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世いる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。
肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。
ところで、その方の思いがどんな状態か、言葉がどんな状態か、行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。

まず、風船のようにごく軽い心なら、この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、「手の舞い足の踏む所を知らず」
とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。
すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の状態を言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の生活を送っていらっしゃる方は、
心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-06 23:57:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

      ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆

先の続き・・・

浄心庵ではそこに集われた人々とともに現在も週に二度、
一日の反省をしますが、昭和六十二年頃でしたが、
その頃には毎日禅定を行っていると、ある時期毎日のように
不思議な現象が起こりました。
今日はどんなことが起こるのでしょうね、
と楽しそうに言われる方もおられるくらいでした。
たとえば、
禅定に入ると天上界からのものとしか思えぬ美しい音楽が流れ、
禅定を解くまでずっとそこに集う大勢の人々が
それを聞いていたことがありました。
はじめはかすかな音ですが、それがだんだんと大きくなり、
また寄せては返す波のように大きく鮮明になってきます。

時にはその妙なる調べとともにどこの国の言葉かはわかりませんが、
厳かに説法をされているような声が聞こえてまいりました。
ワァ-ッとすごい音がなり響いた時もありました。
UFOの飛行する音はまだ聞いたことがありませんが、
おそらくそんな音に近かったのではなかったかと思います。
禅定の最後にどうぞこの場に集う方々に光をお与えくださいと祈ると、
小さなうすい金の鈴を何百個も一度に振ればこのような
音色になるのかと思われるような、
とても涼やかで繊細優美な音が奏でられました。
マクドナルド・ベインさんの著書に、
イエス様が入ってこられると天から音楽が鳴り響いてくると
書かれているのも、自分の体験からよくわかるのです。


          ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-11-05 23:52:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


       第二章 必要なのは正しい生命観の確立

      ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆

先の続き・・・

「心身の神癒」を読むと、
そこには私たちの命そのものは永遠に死なないということが、うかがえます。
肉体は時間の中で成長し、衰え、ある時間が来ますと、
この世界から消えていきます。
物質だからです。
ところが、生命そのものは死にません。
魂は天上界に帰って、何回も生まれ変わるうちにいろいろなことを学んで、
それぞれの心の癖や欠点を修正していきます。
やがて、完全に成長すればこの世に生まれることはありません。
「如来は再生されないだろう」という仏典の言葉もあります。
イエス様はあの世に帰られたけれど、ベインさんの体を通して説法をしている。
この死んでも死なないというのは、命そのものです。
生命のことなのです。

本当は生かす力と言うほうがよく、一なる神の御命だけが存在し、
私たち一個の命はそれにより生かされているだけです。
どんな聖者でもその肉体は滅びます。
ですから、「私を信じる者は私の中に生きる」という言葉の意味は、
イエスの教えの中に生きるということです。
花々を通し、動物たちを通し、人間と天使たちを通し、愛が全宇宙の中心、
神の御心より泉のように流れていると言っておられます。
神の愛とは命そのものであり、常に私たちの内なる意識へとそそがれています。
「神、我とともにあり、我、神とともにあり」という言葉の
意義深さもここからわかってまいります。
あらゆるものを生かそうとするその愛と生命の力こそは、
形なき神様から発せられるものです。
そして、人に嘘をつけても自分に嘘をつくことのできない心、
これが神のささやきです。

これにいつも耳を傾けることです。
世の宗教家の中には、過去の聖者が自分の中に入ってきたと言って、
その言葉を述べる方がいらっしゃいますが、
証拠がなければそれが本当にイエスやお釈迦様などの語られているものなのか
どうかもわかりません。
外なる言葉と内なる言葉を識別すべきです。
ところが、このマクドナルド・ベインにイエスが入った時には、
この世では聞いたこともないなんとも言えぬ美しい音楽が説法の期間中
その会場に鳴り響いたり、ご本人よりも一回り大きな姿に身体が伸長したり、
誰が見てもイエス様がのりうつっておられるとわかるほどにお顔が
変貌されたりしたそうです。
霊的なものはこのように証拠がない限りは信じてはなりません。
これも身体に現わされた心の現象の不思議の一例です。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-04 23:52:56 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第二章 必要なのは正しい生命観の確立

     ◆マクドナルド・ベインに入ったイエスの霊◆

マクドナルド・ベインという方の書物は、
現在のキリスト教では認められていませんが、
イエス・キリストの語られた真理の言葉が書かれています。
この方はヒマラヤでいろいろな勉強をされました。
『心身の神癒」や『解脱の真理』などの著書があります。

第二次大戦後、
南アフリカのヨハネスブルグに暮らしていたマクドナルド・ベインに
イエス様の霊が入ってきて、彼の口を通して語られました。
現代の教会の誤りを指摘しつつ、真理はキリスト教徒だけのものにあらず、
万人のものであるということを明らかにしています。
人間を神の分霊であるとしています。
現代の教会ではなぜイエス様の現わされたような奇蹟が起きないのか言いますと、
神学に頼るばかりでイエス様の説かれた心を本当には実践していないからです。
イエス様は、「私のごとく生きた者は、
私以上の力を現わすであろう」とおっしゃっています。
私はお釈迦様の説かれた法やイエス様の説かれた真理を行うことによって、
もっとも近き弟子になろうと努力しています。

あくまでも法というのは、日々の実践によってその命が宿るものです。
お釈迦様は、
「行いなく、ただ聖句だけを唱える者は他人の牛の数を数えるが如し」という
言葉を残されています。
当時、牛は財産を意味していました。
他人の財産をいくら数えても、
自分のためにも他人のためにも利益がないということです。
また、イエス様は、
「あなた方は祈りによって信仰の証しを立てようとしますが、
私は行いによって信仰の証しを立てましょう」と言われたそうです。
言うより行えということです。

「遠くにありても近き弟子。近くにあっても遠き弟子」とは。
お釈迦様の言葉です。
高橋信次先生のお口から聞き、大変感激した言葉です。
たとえ身近に仕えて師の教えを実践しない人は、遠く離れた弟子であり、
いまだ巡り逢うこともなくとも、その教えを理解し、
実践する者は最も近き弟子であるという意味です。
「心身の神癒」は、第一話から始まって第十四話までありますが、
その第一話に「我はよみがえりなり。命なり。
すなわち神の愛なり。
私を信じる者は私の中に生き、
けっして死なないのである」と記されてあります。
イエス様は肉体の生死を超越して永遠の生命があることに気付かれ、
それを得られたのですが、
私たちもまったく変わりのない本質というものを持っているのだということを
自覚したいと思います。
私が言っていることを信じてほしい、
そしてみなさんにもこの素晴らしい真理に到達してほしいという願いは、
イエス様の人類への愛でもあります。
ただし、疑問があれば追求し、もはや疑う余地がなくなってはじめて、
本当の信頼ができてくるので、無理に信念を持つのとはちがいます。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-03 23:25:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

      ◆仏壇とお墓――誤やまった生命観からの迷い◆

先の続き・・・

先祖供養を主としてやっている宗教は多くあります。
この先祖供養の究極の目的はなんでしょう。
ある宗教では、六親眷属の中から亡くなった人を一人でも多く
寄せ集めてきて拝んだら、功徳があると言って、
それに戒名をつけてもらい、何百体という親戚縁者の亡くなった人を集めて、
一生懸命に拝んでいます。
もし悟っておられる方であれば、戒名をつけようが、名前を呼ぼうが、
あの狭いお仏壇の中などには来られません。
悟ったお方は自由なのですから、高い次元の世界に通常はいらっしゃいます。
この地上界のお仏壇にとどまる必要はないはずです。
そういうものに救いを求めて来られる諸霊があるとすれば、
これは成仏できていない不成仏霊ばかりです。
そういう方々を自分の家にたくさん招かれますと、良い結果は出ません。

先祖供養の本来の目的というのは、
亡くなった方々にこの現象界から思いを離して、魂のふるさと、
天上界に帰っていただくことにほかなりません。
供物やお経や線香や燈明を献じても、それで成仏できるわけはありません。
それどころか、「ここにおれば安心だ。ここにおれば、
お経も線香供えてくれる。
ああ、長いこと放ったらかしにされていたけれど、ここにいたら安心だ」と、
かえって霊をその場所にとどめてしまって、
その結果成仏できなくしてしまいます。
執着を与える結果となります。
先祖供養は先ず己が成仏することからと心得て下さい。
私たち自身の生活態度が大切です。
何時間も念仏を唱えて拝んでいても、
一家が喧嘩ばかりで不調和な生活をしていれば、
ご先祖様はちっとも救われません。

ご先祖様に成仏していただこうとすれば、まず己れが成仏し、救われて、
その幸せな姿を見てもらうことです。
それが物質のお供えなどより、何よりの供養となります。
「ご先祖様のお陰で本当に幸せに暮らさせていただいております。
お金はたくさんありませんけれど、貧乏はしておりません。
身体もお陰様で健康でございます。
いつも感謝に満たされております」というようにご先祖様の前で
報告させていただきますと、ああよかったと喜んでくださいます。
お墓というものに意義があるとすれば、自分がこの世に生きた、
ささやかな記念碑であればよいと思っています。
自己という一個の肉体をいただいた人間が、自らの使命に目覚め、
どれだけ多くの人々に喜んでいただいたか、
どれだけ多くの人々のために尽くせたか、
どれだけ多くの人々に神の愛を捧げたか。
昭和六年七月二十五日にこの世に生をいただき、
この世を去ってあの光の世界に帰るまでの間に、どれだけの行いができたか、
この地球の上にどれだけの善き行いを積めたか、
それらに関しての自己への讃美の碑としたいと思っています。
お仏壇も、ご先祖様に心を向けて、そのご恩に感謝し、
今の幸福を「ご先祖様のお陰です」
と報告させていただく天上界への窓口と思わさせていただいております。


           ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-02 23:38:27 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第二章 必要なのは正しい生命観の確立

      ◆仏壇とお墓――誤まった生命観からの迷い◆

もし、私は死んだらお仏壇の中に祀ってもらうのだとか、
お墓の中に入れてもらうのだと思っておりますと、必ずそこへ行きます。
死ねば肉体がなくなり、思いの世界、心の世界だけとなりますから、
この目に見える現象世界よりももっと精妙な波動の想念が写し出す世界に
住むことになります。
思ったことはこの現象世界よりも速く、そのままに現わされてまいります。
だから、死んだ後にはあの世などなく、無に帰すまでだと信じている方は、
行く先知らずとなります。
ところが、亡くなってもなお意識があるとわかり、はじめて、戸惑いますが、
生き場がないのでさまようしかありません。

そうかといって、お仏壇やお墓に入るものと思っていればそこへ行き、
やはり成仏はできません。
つまり、光あふれる素晴らしいふるさとに帰り着くことはできないのです。
死んでお仏壇やお墓の中に入ってはなりません。
これまで私たちの考えていたこととは違うかもしれませんが、
お仏壇やお墓はこの世の現象世界の物質です。
その物質に心をとらわれていては、そこから心が離れられず、成仏できません。
以前、四国に行きました時に、死んでお墓に入ってはいけませんと
話していますと、あるおばあさんが「私は毎日お墓へお参りして、
どうか早くお迎えください。
ここへ入れてもらったら極楽です、と言って頼んでいます」と言われます。
「それはいけません。もし、不審に思われるのだったら、
今夜一晩おひとりでお墓に行って寝てみてください」と言いますと、
「いやいや怖い怖い、あんな所ではよう寝ません」とおっしやいます。
生きていて怖い場所は死んで行ってもやはり怖いのに決まっています。
同じ意識を持った自分が行くのですから。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-11-02 00:02:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          ◆服毒自殺の遺体に起きた奇蹟◆

まだ結婚前の二十七歳の女性が服毒自殺をされました。
青酸カリなので劇毒です。
人間を死に至らしめる毒には神経を麻痺させて心臓を止める毒と、
細胞を腐らせてゆく腐敗させる毒があるそうです。
麻痺させるほうの毒はサソリなどが持つものです。
蛇は大きな獲物を鵜呑みにして、消化しやすいように腐敗させるそうです。
この娘さんが飲んだ毒は細胞を腐らせるほうです。
身体の床面に接した部分はすぐに変色してきます。
仰向けなら背中のほうです。
二時間くらいで真っ黒になり、五、六時間もすると全身が腫れあがって、
鼻や口など穴という穴から汁が出て来ます。
もう見られた姿ではありません。
鼻や口には綿を詰めるのですが、細胞が腐っていますから、
鼻も口も膨れあがり、穴が広がっていよいよお化けです。
なんとかしてほしいと頼まれて、そのお宅に赴き、到着した頃には、
すでに池の底の泥といった状態にまで身体が変色していました。

お顔は紫色になり、身体は腫れあがり、
胸をかきむしって断末魔の苦しみのまま目をむいて死んでおられました。
石のごとく硬直していて指一本動きません。
今から二十年も前のことです。
あまり気の毒な姿に胸が痛みまして、家族のご諒解を得てから、
その方に向かって話しさせていただきました。
「どんな事情があったのか私は知りません。
しかし、あなたはとんでもないことをしてくれました。
自らの命を自らが絶つとは神の御心に最も背いた行為です。
神は幸せに生きよ、健やかに生きよとおおせられます。
あなたはその神のご意志に背いてなんということをしましたか。
あなたは間違ったことをしたのです。
その過ちにまず気付きなさい。
あなたは毒を飲むことで死んでしまったのです。
自分の死をはっきりと自覚しなさい。
神様の御心に背いて救われることは誰にもできません。
自然に逆らっても同じことです。
間違いを素直に認めて、神様に心からお詫びを言いなさい。
私も共にお詫びします」

泣きながら赦しを乞い、「どうかこの方の罪過ちをお赦しください。
私たちの罪をお赦しください」とお祈りさせていただき、目を開きますと、
真っ黒になって腐りかけたその方の顔がきれいになっているのです。
白くなり、ピンク色さえさしてきています。
目はむいていましたが、手で瞼に触れるとさっと閉じてくれました。
一瞬にしてお化粧をしたような顔に変わっておられました。
家族の方も親戚の方も驚いておられました。
硬直していた手が柔らかくなっていて、
ぱらっとほどけた指を組ませると今度は離れてしまいます。
縛ってはかわいそうなので、
座布団を二つ折って肘につっかい棒をして合掌してもらいました。
よかった、救われてくれたと感じまして、布をお顔にかけたのです。
有り難うございました。
この方の罪を赦していただきました、という気持ちでした。

すると、白い布が目のあたりから濡れてきまして、
見る見るうちにぐしょぐしょになりました。
「涙で濡れてしまいましたから、新しい布と替えてあげてください」
と遺族の方にお願いしました。
もはや鼻や口から汁が出ることはありませんでした。
この体験をさせていただくことにより、
神様はすべてを赦してくださることがわかりました。
そこでよく考えました。
神がもしお怒りになってお赦しにならないのなら、
いくら私のような者が泣き叫んで赦しを乞うてもこういう現象は起きないはずです。
本人が心の間違いを反省してこれを神様にお詫びしたならば、
必ずその苦しみから救われます。
ただ、赦さないのは、自分自身の内なる良心でした。
その過ちに目覚めるまでの長い時間を苦しみの中で過ごすのです。
神様はご自分に最も背いた行為をした者さえも、救われなさい、
自ら目覚めて救われなさいと、慈愛を与えてくださっていたのです。
「自殺者は永遠の地獄へ落ちる」と説く宗教がありますが、
自殺者でも悔い改めたら救われるのです。
もし神仏の心から一メートル離れたら、
私たちは自分自身を一メートルの苦しみとして
自らを裁くようになっているのです。
しかし、それも神の御心という大宇宙大自然の正しい軌道に戻るための
調整にすぎなかったのです。


          ~ 感謝・合掌 ~



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