浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2017-12-17 00:09:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆

先の続き・・・

これは自分中心に考えるからです。
しかし、ちょっと距離を置いて冷静になれば、相手が、
まったくわからないので犯している誤った行為のあまりの愚かさに
唖然としてしまい、どうしたよいのかお手上げになると同時に、
相手には当然軽蔑の念を持ちます。
そこで、一旦角度を変えて、また自分の視点から眺めると、
やはり自分に向けられている不都合な行為と見るから、
再び腹が立ってきます。
ここで怒るのは簡単です。

相手に怨みや憎しみをおもいきりぶつければ、
さぞかし爽快な気分になることでしょう。
少なくとも一時的には気持ちがスッキリするかもしれません。
しかし、ここで気をつけなくてはならないのは、
その後の結果がどうなるかです。
自分の心はたちまち墨を流したように真っ黒に汚れるでしょう。
腹に固まりができ、心臓がドキドキ、血圧も上がるでしょう。
怒りの思いが心の調和を破り、肉体まで痛めます。
今度は後始末がたいへんです。

相手との間にさらにいっそう激しい憎しみの業火が
燃え盛ることになるかもしれません。
しかも、自分自身はもともと誤りがなく、
不調和な心になる原因もなかったのです。
それを人の愚かな行為や言葉によって、
我が心の平安を失ってはいけません。
新たな苦しみを増やすようなものです。
相手が愚かだと云いながら、
自分はそれ以上に愚かだということになってしまいます。
聖典に「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失うことなかれ」
「人の愚かなる行為をもって我が心の楽しみを失う者は、なお愚かなリ」と
書かれています。
相手の行為を愚かだと思っても、それに対して怒ったり非難したりしたならば、
自分がなお馬鹿になり下がってしまいます。
喧嘩するためには必ず相手のレベルまで自分の位置を下げなければなりません。
軽蔑する相手よりさらに馬鹿になりたくなかったら、
相手にしないで黙殺すべきです。


                ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-12-15 23:44:48 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆人の愚行によって自分の心の平安を失った時、
                     その人よりも自分が愚かとなる◆

この世に生きている限り苦労はついて回るのですが、
お釈迦様はこれを四苦八苦と言われました。
生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ。
これが四苦ですが、八苦というのは、
これにさらに四つの苦しみを加えたものです。
愛する者と別れなくてはならない苦しみ、「愛別離苦」。
嫌な相手と出会う苦しみ「怨憎会苦」。
求めてもちっとも得られない苦しみ「求不得苦」。
肉体の身をもったがための苦しみ「五蘊常苦」。

五蘊というのは、肉体(色)と、五感(受)と、
五感により与えられたものを受けて思う心の動き(想)と、
思ってなす行為(行)と、行って識ること(識)です。
これら五つの集まりが五蘊と言われています。
この中で「怨憎会苦」というのは、
嫌な人に出会って心に生ずる怨みや憎しみによって、
自らの心が苦しみを受けることです。
自分のことを理解してくれず無理難題を言って来る人、
やたらと自分を馬鹿にしたり高圧的に接して来る人、
嫉妬から足を引っ張る人、迷惑をかけて来る人、どうも虫が好かず
苛々させる人、恋敵など、あげたらきりがありません。

要は、自分にとって都合のわるい人はみんな嫌いな人です。
そういう相手に対して腹が立つ時は、
私たちは必ず自分を正当化しようとします。
あいつがわるい。間違っている。わかっていない。
その中には自分のほうがわるいのに、それに気がつかないで、
相手をわるく思っている場合もあります。
よく反省してみたら、
自分のほうがかえって相手に迷惑をかけていたということもあります。
ただ、第三者の誰が見ても、絶対に相手がわるいということがあります。
そういう時は、なおさら腹が立つものです。
自分がひどく理不尽な苦しみに遭っているような被害者意識にも陥ります。


          ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-12-14 23:33:10 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

ところが、実際には不幸も病気もあります。
それは何も神様が罰を当てたのでも、無慈悲なのでもありません。
単に人間の発する自己中心的な思いというのが、
ちょうど障害物が光を遮る結果として生まれる影のように、
不幸や病気を現わします。
その闇自身に実体はありません。
光が来れば闇は去ります。
自分の心を苦しめれば幸せになれません。
自分の心を苦しめることをできるだけ少なくし、
慈しみをもって自分の心を見つめることができるようになれば、
他人の心を苦しませることが少なくなります。

そしてさらには、他人の心を和ませ、喜ばせたくなってまいります。
だんだんと神様のお考えになっていることに近い思いに
心がなってくるからです。
互いに愛し合い、互いに相手のために仕えた時には、
神様の御心とピッタリ波長が合い、調和した心になってきます。
これは法則にかなっていますから、心が苦しむはずはありません。
たとえ一分前の過去でも、過去の過ちを赦さずに自分を責めていたら、
自分の心を痛めることになります。
過去にとらわれず、
今この瞬間にどんな思いの中にいるのかといることだけが問題です。
過去は二度と戻りません。

砂浜の砂にジュースをこぼしたら、砂にしみこんでしまい、
二度と同じジュースはコップに帰りません。
やがて砂の表面から跡かたもなく消えてしまいます。
過去のことで心を苦しめるのはつまらないことです。
また、まだ来ぬ未来を心配しても、
取越し苦労の思いの中にいることによって今が不幸になるだけです。
心配したからといって未来がよくなるわけでもありません。
実際のところは来てみなければどんなものかもわかりません。
また、肉体が病気なら不幸かというと、必ずしもそうではありません。
長い間病気を患っていても、人にいい感じを与える方もいらっしゃいます。
生まれつきかあるいは事故などで体の不自由な方でもそうです。
このあいだテレビでパラリンピックの模様が伝えられましたが、
身体に障害を持たれていながら、明るく強く生きて、
その姿勢がまた多くの人々に勇気や希望を与えているという
方々もいらっしゃいます。


            ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-12-14 00:32:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

「幸せになりなさい。健やかに生きなさい」というのが神様の御心です。
怒りや憎しみや愚痴や恨みや悲しみや貪欲などの想念を発することは、
その御心に反することです。
なぜならば、自ら発した思いが自らの心を曇らせるからあり、
神様の光を遮れば、それだけ闇をつくってしまい、
喜び少なく苦労が増えるからです。
自らが苦しむだけでなく、
心のスモッグを出すことで人様に対しても迷惑をかけます。
神様は光です。

つねに私たちに光を注がれていますから、
心に自己保存とか自我我欲の思いが少なければ少ないほど、
神様からの光は五感からくる煩悩の思いの層である想念帯の切れ間から
木漏れ日のように差し込んでくる量が多くなるのです。
そうすれば、幸せとなり健康となります。
この世である現象界とあの世の実在界を遮断しているのが想念帯ですが、
この遮断ベルトの層が薄い程、その切れ間を通して命の本源である
神様のほうからの光が表面の意識(知性・理性・本能・感情)に注がれます。

想念帯が薄くなり表面意識へ光が出るに従い、
その人のこの世の生活もよくなってきます。
そして、一人一人の人間が幸せで健康になるということこそが、
神様の望んでいらっしゃることです。
それがやがて社会に満ち、国に満ち、世界中に満ち、
地球全体に光が満ち溢れれば、この地上と神様の世界が光で一つにつながり、
すべての人々が差別なく幸せで健康な大調和した世界となります。


            ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-12-13 00:53:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

人間とは神様の御心の一部を分け御魂として注ぎ入れられた存在です。
つねに神様のほうから流れてきている光によって生かされています。
神様の命をいただいて生きていられるのです。
だから、自分の心を苦しめ、汚すことは神様の御心を汚すことにもなります。
与えられた心はもともと清流のように清らかなものだったのです。
自由意志を与えられているということは、
間違いを犯す自由も与えられているということです。

考えてみると怖いことです。
肉体も心も正しく用いるよう神様から一人一人に責任がゆだねられていると言えます。
間違うということは、その度に神様の御心から少しずつ遠く離れていってしまうことです。
自殺は神の御心から最も遠く離れることです。
それは肉体の生命を否定するという思い自体が最も神の御心から遠いからです。


             ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-12-11 23:39:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

たしかに人間は自由意志を与えられています。
しかし、心も肉体も神様から与えられており、
自分のものではありません。
神の子神我すなわちキリスト意識が、
肉体というサタンの装いをして現れているのが人間です。
なぜサタンなのかと言いますと、肉体の服をまとうことによって、
五感による煩悩である自己保存と自我我欲の思いを
満たすことのできる状態に置かれるからです。
ところが、この肉体の服というサタンの装いこそは、
内なる神我の目覚めにはどうしても必要なものなのです。
それは、ちょうど蓮の花が咲くのに泥が必要であるのと同じことです。
中身は神から分けられた清らかな魂であり、
まとっているのは欲の心へと誘惑する五官を
備えた肉体の衣であるというのは一見矛盾のようでありますが、
これがあるために魂は様々な過ちの経験を通して
だんだんと進化向上して立派になっていけるのです。

私たちの本来の曇りなき心は例外なく神様の意識の中にあります。
わかりやすい比喩を用いてみましょう。
金の延べ板の上の厚く積もった塵を払えば、
それまで覆われていた金の輝きが現れてきます。
すでに金は金として光っているものですが、
塵があまりにも厚く覆い隠していたため、
その輝きが見えなくなっていただけです。
これと同様、
私たちの心も自己保存や自我我欲などエゴの思いの雲が晴れたなら、
光そのものとして、愛と慈悲の塊としての心の本質が現れてきます。
ノミで木を彫るとおが屑が出て来ますが、
だんだんと中の立派な象が現れてくるようなものです。


             ~ 感謝・合掌 ~


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「御垂訓」

2017-12-11 00:01:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

都合の悪いことは何でも環境や境遇のせいにしてしまう癖がつくと、
そのうちに過去に溯って、育った環境が悪かったとか、時代が悪かったとか、
親の育て方が悪かったとか、
こんな相手と結婚したばっかりに不幸になってしまったなどと言いだしかねません。
これでは心の進歩はありません。
すべての原因を環境や時代や境遇に求め、物や人のせいにするなら、
自分の心は変わらなくていいことになるからです。
過去に思いを果たせず挫折したり、失敗したりしたことから、
落胆の思いが現在まで続いており、積極的に新たな取り組みをする気力を失ったら、
これも自分が損です。
過去のせいで残りの人生までもが決定的にダメージを受け、
もうどうしようもないのだと心を沈ませながらどうにかやっと生きているのです。
重い足取りで歩いてゆくようなものです。

心は数々の記憶への執着とか悲嘆の思いが詰め込まれています。
砂袋のように重い心です。
前の章に述べたとおり、死んだら心だけになりますから、
その重い心はもし地獄があればそこに落ちてしまいます。
また、過去の過ちをいつまでも悔い、罪悪感にとらわれている場合もあります。
これも心に重荷を負い、自らの心を苦しめていることに変わりはありません。
人は誰でも過ちを犯します。
それを二度と繰り返さないことができたなら、
その過ちゆえに心が進歩したことになります。
しかし、これと反対に過ちゆえに自分の心を苦しめることは、正しくありません。
「悔い改めた時、汝の罪は赦される」というのも真の神の御心です。
「過ちを改めるのに憚ることなかれ」とあるように、自分が間違っていたと気付けば、
心を素直にし、勇気をもって悔い改めればよいのです。
過去の過ちのために自分を責め、心を苦しめたらいけません。
必ず不幸になります。
自分の心なのだから苦しめたって勝手ではないかと言う方もいらっしゃるかもしれません。
これは自分の肉体なのだから自ら命を絶ってもかまわないじゃないかと言うのと
同じ大間違いです。


               ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-12-09 23:40:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

それでは、
わるい環境や運命が与えられたらそれに甘んじろということなのか、
と疑問を持たれる方もおられるに違いありません。
一生苦労の連続だったとしても、明るく笑って、楽天的に過ごし、
人には親切にしていれば、苦しみと感じない分だけ幸せかもしれないが、
それではいつまでたっても自分の悪い境遇から抜け出せないではないかと。
ところが、想念はエネルギーですから、いいことばかり思い、
感謝と喜びばかりで生活していますと、だんだんと運も開けてきます。
思いの中に生きているからこそ、思いに翻弄されることなく、
思いを変える練習が大切です。
たとえば、こんなたとえがあります。
「牛の糞に銀蠅が寄る。花に蝶が寄る」
牛の糞はいくら美しい蝶に寄ってもらいたいと欲しても、
寄ってくるのは銀蠅だけです。

花は呼ばなくても蝶をひきつけます。
ということは、私たちも心を美しく清らかにすれば、
黙っていても蝶が来てくれます。
自分の心が牛の糞であるか、花であるか。
花になった時、自然に幸せは与えられ、健康も与えられます。
明るい素直な心を持って感謝と報恩の生活を、
そして見返りを求めず人に尽くす生活をしていれば、
自ずと周囲の環境が改善され、
望んだような現実も引き寄せられてくるものです。
だから、仮に恵まれない環境や不都合な運命の中に置かれていたとしても、
心をテコの支点としてすべてをよしとして受け容れてゆく
肯定的な方向に思いの力を用いたならば、
これが現実を望ましい方向へと動かす力ともなるということを
知らなくてはなりません。
ただし、知る為には自分が行って体験的に確認していくしかありません。


           ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-12-09 00:15:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆

先の続き・・・

人間は環境の中に生きていると思っていますが、
実は思いの中に生きているのです。
思いをいだく心は目には見えませんが、
形の世界である環境以上に幸不幸を左右する力を持っています。
人間の幸不幸を左右しているのは、環境のように見えますが、実際は思いです。
ところが、私たちはこの思いをなかなか自由自在にコントロールできません。
逆に思いに振り回されます。
その結果、環境に支配され、束縛されてしまいます。
本来は心のほうが手綱を握りコントロールの主人にならなくてはいけません。
本当は幸福な環境だとか不幸せな環境などというものはないのです。
恵まれた環境とか恵まれない環境というのはあります。

けれども、環境にかかわらず感謝できるか否かの違いが最終的には
幸不幸を決定づけます。
感謝できれば幸せと感じ、感謝できなければ不幸せと感じます。
思いが幸せならば幸せであり、思いが不幸ならば不幸ということです。
当たり前と言えば当たり前ですが、どういう条件の下にあっても、
一定して心に幸せの思いを持ち続けることができるかどうかということになれば、
これは非常に難しいものです。
このことは、どなたでもご自分の人生を振り返ればおわかりかと思います。
いい時もわるい時もあったはずです。

景気によって商売が儲かって大喜びしたり、人に騙されて損をして悔しがったり、
子供の心が間違ったほうに向かないかと取越し苦労したり、
子供の結婚が決まりほっとしたり、転勤先の新たな生活に不安をいだいたり、
事業の失敗によってと法に暮れたり、近親者の死によって悲しみに暮れたりと、
まったく私たちの心をよぎる感情は環境や境遇の変化につれて
天候のように移り変わります。
それは思いの中に生きなくてはならない人間の宿命です。
喜怒哀楽の感情があるのは自然です。
しかし、その感情からどれだけ自由になっていられるか。
とらわれる度合いが大きいほど、その時々の環境や境遇に支配された心によって、
私たちの人生もまた翻弄されていきます。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-12-07 23:52:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆

私たちはこの環境の中に肉体を持って生きていると思っています。
そして、幸不幸を左右するのも環境だと思っています。
私はこんな環境だから幸せになれないのだとか、
別の職場に移りさえすれば幸せになれる筈だとか言って、
私たちは何でも環境のせいにしたがります。
が、果たして本当にそうでしょうか。

この肉体が空気、水、太陽によって育まれ、雨露をしのぐ屋根の下に住んで、
家庭や職場といった人間関係を含む環境の中に生きているのは確かです。
では、空気がきれいで、水が良くて、気候も温暖で、十分な広さの家を持ち、
家族に囲まれ、生活の糧を得るための職場が与えられたら、
毎日は幸せと言えるのでしょうか。
誰が見てもうらやむような完璧な環境の中にあっても、
本人の心が満足していなければ幸せとは言えません。
ダイヤモンドやサファイアの輝きに燦然ときらめくたくさんの照明と、
大理石の床や金の壁や銀の柱で荘厳された御殿のような大邸宅に住み、
金銀財宝に埋もれて暮らしている人がいるとしましょう。

しかし、やれ床が冷たいだの光がまぶしすぎるのだと言って心に
不平不満をいだいたり、泥棒が入って財宝が奪われたりしないかという
不安や恐怖の思いを持っていたらどうでしょう。
その人の心は決して満足でも平安でもなく、
はたから見るほど幸せではないはずです。
一方、古い諺にある「竹の柱に茅の屋根、
筵を垂らして壁戸の代わり」というような粗末な家でも、
この竹の柱のお陰で屋根を支えてもらい、茅の屋根のお陰で雨露をしのぎ、
筵のあるお陰で風を防いでいただくと思えば、そこは天国です。
質素な生活をしていても、わずかな物で足りていることの幸せに
常に心が感謝に満ちていることでしょう。
すると、どんな環境の中にあっても、心の持ち方さえ感謝と喜びに向いていれば、
その人は幸せだということになります。

私たちは現在与えられている環境や境遇に対して、
それをそのまま有難く感謝して受け取ることがなかなか難しく、
何かにつけ不足な点を見つけては嘆いているものです。
感謝の理由を挙げるよりは、不満の理由を挙げるほうが得意です。
ところが、心の羅針盤が感謝のほうに向いていれば、朝起きて太陽を見ても、
顔を洗っても、ご飯をいただいても、お手洗いに入っても、道を歩いても、
常に有難いはずです。
反対に不満のほうに向いていれば、何を見ても、何をしてもつまらないでしょう。
人間関係も環境の一つです。
親切で温かい人々に囲まれ愛されていても、独り心に深刻な悩み事をかかえていれば、
決して幸せとは言えません。
周囲の人も他人も心の中に入って思いを変えるわけにはまいりません。
反対に厳しくつらいことの多い職場などの人間関係でも、
それを精神を鍛えるためのいい機会であると思えれば、
かえってそれらの人々の存在が貴重に思え、
そういう環境にも感謝できます。


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「御垂訓」

2017-12-07 01:28:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                 第三章 天上界への道

            ◆人々の喜びが無限のエネルギー◆

どこへ行こうと神様といっしょであるということを実感していただきやすいように、
体験を書かせていただくことにします。
まず、神様は光であり愛であり、命でありエネルギーであります。
自分の心の状態が真に神様の御心と一つになっていくと、
これらをいただいて自分の内に感じさせていただけます。
私は常に全国を飛び回っております。
休ませていただくのは、だいだい夜中の二時、三時前後です。
最近では、一週間ほど皆さんと中国に行きまして、浄心庵に帰り着いた晩に、
地方まで帰られるのに一泊された方々と夜中まで習字を習い、
それから明け方まで一人で書いていたことがありました。
その日はまた午後から夜中までこの本を作るための打ち合わせがありました。

朝まで寝ないことも珍しくありません。
自分の身を、生命を燃え上がらせております。
燃え尽きてしまいたいと思っています。
燃え尽きたら、あの世に帰らせてもらえばいいのです。
精一杯この命を燃え上がらせて、その結果として一人でも多くの方から
「会えてよかった」と、喜んでいただけたら、使命は果たせたことになります。
命を賭けて法を実践させていただいております。
「命を捨てるものは命を得る」又、
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」という言葉がありますが、
肉体の命は関係ありません。
だから、無限の命、無限のエネルギーが与えられます。
こんなことが人間としてできるのかと思うほど不思議なことを見せていただきます。
お招きいただきますと、どこへでも飛んでゆきます。
その時は、ただのご奉公、いっさいの報酬は求めません。

せめてその時間だけでも、神の子になりたいと思って、神の御心どおりに自分が行い、
そのように生活させていただいております。
求める心があると、得られないからと言って腹を立てることもありましょう。
しかし、どこへ行っても心安らかです。
癒しを求めて来られる方が何百人、何千人おられてもかまわない、
私の体が潰れるまでご奉仕いたします。
以前、東京に招いて頂いた時に、たくさんの方々に囲まれながら、汗だくになり、
もう帰らせていただく時間ぎりぎりまでお話をしました。
その後、色紙に字を書いてる間にズボンをはかせていただき、
シャツを頭から着せていただいて着替えをして、走って飛び出しました。
何処へ行かせて頂きましても、はじめての所ではお茶一杯、
タバコ一服吸わせていただく時間もありません。
肉体の限界にいどみ身はクタクタになりますが、心は喜びに満たされます。


              ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-12-05 23:46:41 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


               第三章 天上界への道

       ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆

先の続き・・・

世の中には様々な霊格を持った異なる段階の方々がおられます。
その中には普通人以下の人格・霊格を持った「迷わせ人」という存在があります。
なぜなら、必ず、この迷わせ人にひっかかる「迷い人」がいるからです。
それでないと迷わせ人は仕事になりません。
迷わせ人の一種である低級な霊能者や占い師、予言者には人の
悩み苦しみにつけこんで、相手を脅かし、不安を与えるようなことばかり伝え、
ちっとも当の問題そのものを解決してあげられない方があります。
あるいは解決して挙げるからと言って、高額なお金を要求してくる方もあります。
そう言う人々の餌食である「迷い人」にならないためにも、
自らが光となり、神の御心を行えるようになることです。
何処へ行っても、何処に居ても、またどんな状態であっても、
常に安心しているためには、いつも「我、神とともにあり。神、我とともにあり」と
いう思いを持ち続けることです。
人間の都合によって、その国を治めた権力者や宗教指導者らの都合によって、
いろいろと自分たちに都合のよいように作りあげただけの話しです。
そうして定められたものが、場所や方角の迷信として世に広まっていったものです。
地球は神のご神殿であり、ご神体です。
地球上どこへ行きましても大いなる神の手の届かない場所というのはどこにもありません。
トイレでも、お風呂でも、暗闇でも、山に登っても、海の中にもぐっても、
全部神様の中にあります。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-12-04 23:53:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道

     ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆

先の続き・・・

ドッジボールほどの地球儀を持ってくれば、
日本の面積は小指ほどもないでしょう。
そこにある何県の何市などといったらもう針の先で突つくほどもない
小さなものです。
そんなところにだけ神様がおられるなどということがありましょうか。
神様は遍在されています。
ちょうど太陽の光が地球に平等に降り注いでいるごとく、
あまねく神様の光は届いております。
私たちの住む地球を包んでいます。
日本だけにおられる神様で、外国におられない神様であれば、
これは世界に通用しない神様です。
日本なら日本だけ、韓国なら韓国だけ、
その国だけしか通じない教えであれば、それは正法ではない、
つまり真理ではあり得ません。
今お話させていただいている教えは、
宇宙の果てまで行ってもこの同じ話をさせていただきましても、
「ああなるほどそうか、そのとおりだ」と、通じる話です。
ただ、私たちの心の中にも同じ神様の意識の光が隅々まで
照らしてくださっているのだと強い信念で思い、
それを日々の生活の中でさらに深め、
体験と行いを通して自覚していくことです。
方角を気にされたり、占いや予言などに頼るあまり、
かえって心に不安をいだかれる方もいらっしゃいます。

何事も中道を失ってはなりません。
不安を与えるような情報を心に入れたり、
またあれこれと取り越し苦労をするならば、
もうその行為自体が神の御心に反しています。
神様は、「自らの心を苦しむることなかれ」と仰せられます。
お釈迦様の弟子が或る時、師に対して質問しました。
「人が惑い少なく生きるには、どのようにしたらいいでしょうか」
お釈迦様は次のように答えられました。
「人がそのように生きたいのであれば、星を占ってはならない。
天変地変を占ってはならない。
あらゆる相を占ってはならない。
占ってもらってもならない。
そのように生きた時、惑い少なく生きるであろう」
惑いとは迷い苦しむことです。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-12-03 23:39:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第三章 天上界への道

     ◆悪い方角など関係ない――ご神体そのものの地球◆

私たちの肉体こそ「神の宮」として、神が造られた神殿です。
どんな科学の進歩によっても、それは造ることのできないものです。
また、この巨大な宇宙そのものも大神体であり、地球もその一つです。
「神様にお参りするにはどこそこへ行かなくてはならない」とか、
「神社の便所を掃除したらうまくゆくのや」とか言いますが、
この地球そのものが神の御姿の現れであり、ご神体です。
それなのに、定められた場所に行かなくては神様はいらっしゃらないなどということは
あろうはずはありません。
方角が悪いとかなんとか言いますが、神様のお体の中に悪い所があるわけがありません。
何処へ行きましても、神様の慈愛は満ち満ちています。
たとへトイレの中であっても、生まれたままの姿でお湯につかるお風呂の中であっても、
例外ではありません。
正神殿とか御本尊とかおみたまとか称するものを高額なお金で信者に頒布している方が
いますが、これもおかしなことです。


                ~ 感謝・合掌 ~



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「御垂訓」

2017-12-02 23:58:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


               第三章 天上界への道

     ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆

先の続き・・・

この私たちを取り巻く大自然も大宇宙も、
すべて神様の意識の現れでないものはありません。
言ってみれば、それらは神様の御心の表現された神様のご神体です。
私たちの肉体もけっして自分のものではなく、神様から貸していただいているもので、
いつの日にかそれをお返しして、あの世に帰らなければならない借り物にすぎません。
この肉体が自分のものならば、「私は年をとりたくない」と思えば、
年をとらないはずですし、
「白髪よ消えよ」と言えば消えなくてはならないはずですが、
これはどんな方でも思いどおりにはゆきません。
肉体は時とともに移ろい変わる無常なものです。
こんなものに執着していては、心ははなはだ不自由です。
しかし、この借り物の肉体を動かしている生命エネルギーは形こそ見えませんが、
大自然や大宇宙を動かしているのと同じ一つの意識の働きです。
この姿なきものを神様と呼んでおりますが、
この意識の中心が私たちにも与えられた心です。
私たちは何をするにもまず心を動かし、心を遣います。

意識するとしないとに拘わらず、その心の命令によって肉体が行動します。
ところが、本来は自由自在で無限の広がりを持つ心が肉体に同化して、
肉体が自分だと錯覚するところから、その自由性を奪われてしまいます。
私たちはそれぞれの個体を持っていますから、一人一人の身体も心もバラバラで、
ちょうど海面の上に多くの島が点在しているように、
個々別々に分離しているかのように思っています。
しかし、それはそんなふうに見えるだけです。
寝ている時は意識が肉体を離脱しています。
幽体や霊体というもっとも波動の微妙な体に移り、あの世に行ってそこで浄められたり、
エネルギーをいただいたり、修行したりしています。
私たちは昼間起きている時は、
10パーセントにすぎないと言われる表面の意識にいますが、
寝ている間はもっと深いところへ下りて行き、90パーセントを占める潜在意識に
近い想念帯の中で夢を見たり、それで魂の汚れが浄化されたりしています。
奥に行けば行くほど、個人の記憶や個人の感情想念の記録された自我意識や個体意識の
部分は少なくなり、やがて海底ではすべてが地続きとなっているように、集団や人類の
意識になり、最後にはそれさえも超越した宇宙意識とか神意識と呼ばれるレベルにまで
到達してしまいます。

これが神様の御心であり、大宇宙を動かしている意識と同根同質のものです。
それはすべてを生かし、育もうとする愛の意識であり、すべてを調和へと導く永遠にして
変わることのない巨大な意識です。
一人一人の心の奥に、内在する智慧に到達する教えである般若心経で説かれている
「内在する智慧」があります。これが神我の神意識です。
そこに到達するのに、この神我を覆っている思いの曇りを除く必要があります。
座禅して空を求めるのもその一つの方法です。
空になると努力というのは自己保存と自我我欲を滅し、神我を求めることです。
そうすると、「色即是空 空即是色」という形にも何ものにもたらわれない境地に達します。
しかし、別に誰もがそんな難しい修行をしなくてもよいのです。
当たり前の日常生活の中で、神様の御心を行なわせていただき、もしそこから外れた行為をし、
思いを出してしまったら、早めに反省し、
その分だけつぐないの善き行為をすればいいのです。


             ~ 感謝・合掌 ~




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