浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「垂訓」

2024-01-16 00:02:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

砂浜の砂にジュースをこぼしたら、砂にしみこんでしまい、
二度と同じジュースはコップに帰りません。
やがて砂の表面から跡かたもなく消えてしまいます。
過去のことで心を苦しめるのはつまらないことです。
また、まだ来ぬ未来を心配しても、
取越し苦労の思いの中にいることによって今が不幸になるだけです。
心配したからといって未来がよくなるわけでもありません。

実際のところは来てみなければどんなものかもわかりません。
また、肉体が病気なら不幸かというと、必ずしもそうではありません。
長い間病気を患っていても、人にいい感じを与える方もいらっしゃいます。
生まれつきかあるいは事故などで体の不自由な方でもそうです。
このあいだテレビでパラリンピックの模様が伝えられましたが、
身体に障害を持たれていながら、明るく強く生きて、
その姿勢がまた多くの人々に勇気や希望を与えているという
方々もいらっしゃいます。




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「垂訓」

2024-01-15 00:42:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

そしてさらには、他人の心を和ませ、
喜ばせたくなってまいります。
だんだんと神様のお考えになっていることに
近い思いに心がなってくるからです。
互いに愛し合い、互いに相手のために仕えた時には、
神様の御心とピッタリ波長が合い、
調和した心になってきます。
これは法則にかなっていますから、
心が苦しむはずはありません。

たとえ一分前の過去でも、過去の過ちを
赦さずに自分を責めていたら、
自分の心を痛めることになります。
過去にとらわれず、今この瞬間にどんな思いの中に
いるのかといることだけが問題です。
過去は二度と戻りません。



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「垂訓」

2024-01-14 00:23:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

   ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

先の続き・・・

ところが、実際には不幸も病気もあります。
それは何も神様が罰を当てたのでも、無慈悲なのでもありません。
単に人間の発する自己中心的な思いというのが、
ちょうど障害物が光を遮る結果として
生まれる影のように、不幸や病気を現わします。
その闇自身に実体はありません。

光が来れば闇は去ります。
自分の心を苦しめれば幸せになれません。
自分の心を苦しめることをできるだけ少なくし、
慈しみをもって自分の心を見つめることができるようになれば、
他人の心を苦しませることが少なくなります。


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「垂訓」

2024-01-12 23:56:18 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

      ◆神様は「健康になりなさい、幸せになりなさい」と願っておられる◆

「幸せになりなさい。健やかに生きなさい」というのが神様の御心です。
怒りや憎しみや愚痴や恨みや悲しみや貪欲などの想念を発することは、
その御心に反することです。
なぜならば、自ら発した思いが自らの心を曇らせるからあり、
神様の光を遮れば、それだけ闇をつくってしまい、
喜び少なく苦労が増えるからです。
自らが苦しむだけでなく、心のスモッグを出すことで
人様に対しても迷惑をかけます。
神様は光です。

つねに私たちに光を注がれていますから、
心に自己保存とか自我我欲の思いが少なければ少ないほど、
神様からの光は五感からくる煩悩の思いの層である想念帯の切れ間から
木漏れ日のように差し込んでくる量が多くなるのです。
そうすれば、幸せとなり健康となります。
この世である現象界とあの世の実在界を遮断しているのが想念帯ですが、
この遮断ベルトの層が薄い程、その切れ間を通して
命の本源である神様のほうからの光が
表面の意識(知性・理性・本能・感情)に注がれます。

想念帯が薄くなり表面意識へ光が出るに従い、
その人のこの世の生活もよくなってきます。
そして、一人一人の人間が幸せで健康になるということこそが、
神様の望んでいらっしゃることです。
それがやがて社会に満ち、国に満ち、世界中に満ち、
地球全体に光が満ち溢れれば、
この地上と神様の世界が光で一つにつながり、
すべての人々が差別なく幸せで健康な大調和した世界となります。


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「垂訓」

2024-01-12 00:39:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

人間とは神様の御心の一部を分け御魂として
注ぎ入れられた存在です。
つねに神様のほうから流れてきている光によって生かされています。
神様の命をいただいて生きていられるのです。
だから、自分の心を苦しめ、汚すことは神様の御心を
汚すことにもなります。
与えられた心はもともと清流のように清らかなものだったのです。

自由意志を与えられているということは、
間違いを犯す自由も与えられているということです。
考えてみると怖いことです。
肉体も心も正しく用いるよう神様から一人一人に
責任がゆだねられていると言えます。
間違うということは、その度に神様の御心から少しずつ
遠く離れていってしまうことです。
自殺は神の御心から最も遠く離れることです。
それは肉体の生命を否定するという思い自体が最も
神の御心から遠いからです。


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「垂訓」

2024-01-11 00:06:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

       ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆


先の続き・・・

たしかに人間は自由意志を与えられています。
しかし、心も肉体も神様から与えられており、自分のものではありません。
神の子神我すなわちキリスト意識が、
肉体というサタンの装いをして現れているのが人間です。
なぜサタンなのかと言いますと、肉体の服をまとうことによって、
五感による煩悩である自己保存と自我我欲の思いを満たすことのできる状態に
置かれるからです。

ところが、この肉体の服というサタンの装いこそは、
内なる神我の目覚めにはどうしても必要なものなのです。
それは、ちょうど蓮の花が咲くのに泥が必要であるのと同じことです。
中身は神から分けられた清らかな魂であり、
まとっているのは欲の心へと誘惑する五官を
備えた肉体の衣であるというのは一見矛盾のようでありますが、
これがあるために魂は
様々な過ちの経験を通してだんだんと進化向上して立派になっていけるのです。
私たちの本来の曇りなき心は例外なく神様の意識の中にあります。
わかりやすい比喩を用いてみましょう。

金の延べ板の上の厚く積もった塵を払えば、
それまで覆われていた金の輝きが現れてきます。
すでに金は金として光っているものですが、
塵があまりにも厚く覆い隠していたため、
その輝きが見えなくなっていただけです。
これと同様、
私たちの心も自己保存や自我我欲などエゴの思いの雲が晴れたなら、
光そのものとして、愛と慈悲の塊としての心の本質が現れてきます。
ノミで木を彫るとおが屑が出て来ますが、
だんだんと中の立派な象が現れてくるようなものです。



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「垂訓」

2024-01-10 00:05:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

心は数々の記憶への執着とか悲嘆の思いが詰め込まれています。
砂袋のように重い心です。
前の章に述べたとおり、死んだら心だけになりますから、
その重い心はもし地獄があればそこに落ちてしまいます。
また、過去の過ちをいつまでも悔い、罪悪感にとらわれている場合もあります。
これも心に重荷を負い、自らの心を苦しめていることに変わりはありません。
人は誰でも過ちを犯します。

それを二度と繰り返さないことができたなら、
その過ちゆえに心が進歩したことになります。
しかし、これと反対に過ちゆえに自分の心を苦しめることは、正しくありません。
「悔い改めた時、汝の罪は赦される」というのも真の神の御心です。
「過ちを改めるのに憚ることなかれ」とあるように、
自分が間違っていたと気付けば、
心を素直にし、勇気をもって悔い改めればよいのです。

過去の過ちのために自分を責め、心を苦しめたらいけません。
必ず不幸になります。
自分の心なのだから苦しめたって勝手ではないかと言う方も
いらっしゃるかもしれません。
これは自分の肉体なのだから自ら命を絶ってもかまわないじゃないかと
言うのと同じ大間違いです。


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「垂訓」

2024-01-08 23:59:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

都合の悪いことは何でも環境や境遇のせいにしてしまう癖がつくと、
そのうちに過去に溯って、育った環境が悪かったとか、
時代が悪かったとか、親の育て方が悪かったとか、
こんな相手と結婚したばっかりに不幸になってしまったなどと
言いだしかねません。

これでは心の進歩はありません。
すべての原因を環境や時代や境遇に求め、物や人のせいにするなら、
自分の心は変わらなくていいことになるからです。
過去に思いを果たせず挫折したり、失敗したりしたことから、
落胆の思いが現在まで続いており、
積極的に新たな取り組みをする気力を失ったら、
これも自分が損です。

過去のせいで残りの人生までもが決定的にダメージを受け、
もうどうしようもないのだと
心を沈ませながらどうにかやっと生きているのです。
重い足取りで歩いてゆくようなものです。


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「垂訓」

2024-01-07 23:57:17 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

        ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

先の続き・・・

花は呼ばなくても蝶をひきつけます。
ということは、私たちも心を美しく清らかにすれば、
黙っていても蝶が来てくれます。
自分の心が牛の糞であるか、花であるか。
花になった時、自然に幸せは与えられ、
健康も与えられます。
明るい素直な心を持って感謝と報恩の生活を、
そして見返りを求めず人に尽くす生活をしていれば、
自ずと周囲の環境が改善され、
望んだような現実も引き寄せられてくるものです。

だから、仮に恵まれない環境や不都合な
運命の中に置かれていたとしても、
心をテコの支点としてすべてをよしとして受け容れてゆく
肯定的な方向に思いの力を用いたならば、
これが現実を望ましい方向へと
動かす力ともなるということを
知らなくてはなりません。
ただし、知る為には自分が行って
体験的に確認していくしかありません。


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「垂訓」

2024-01-07 02:01:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


        第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

        ◆自分の心を苦しめては幸せになれない◆

それでは、
わるい環境や運命が与えられたら
それに甘んじろということなのか、
と疑問を持たれる方もおられるに違いありません。
一生苦労の連続だったとしても、
明るく笑って、楽天的に過ごし、
人には親切にしていれば、苦しみと
感じない分だけ幸せかもしれないが、
それではいつまでたっても自分の悪い
境遇から抜け出せないではないかと。

ところが、想念はエネルギーですから、
いいことばかり思い、
感謝と喜びばかりで生活していますと、
だんだんと運も開けてきます。
思いの中に生きているからこそ、
思いに翻弄されることなく、
思いを変える練習が大切です。
たとえば、こんなたとえがあります。
「牛の糞に銀蠅が寄る。花に蝶が寄る」
牛の糞はいくら美しい蝶に
寄ってもらいたいと欲しても、
寄ってくるのは銀蠅だけです。


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「垂訓」

2024-01-06 00:09:37 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆

先の続き・・・

景気によって商売が儲かって大喜びしたり、
人に騙されて損をして悔しがったり、
子供の心が間違ったほうに向かないかと取越し苦労したり、
子供の結婚が決まりほっとしたり、
転勤先の新たな生活に不安をいだいたり、
事業の失敗によってと法に暮れたり、
近親者の死によって悲しみに暮れたりと、
まったく私たちの心をよぎる感情は環境や境遇の
変化につれて天候のように移り変わります。

それは思いの中に生きなくてはならない人間の宿命です。
喜怒哀楽の感情があるのは自然です。
しかし、その感情からどれだけ自由になっていられるか。
とらわれる度合いが大きいほど、
その時々の環境や境遇に支配された心によって、
私たちの人生もまた翻弄されていきます。


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「垂訓」

2024-01-05 00:01:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
    
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆

先の続き・・・

けれども、環境にかかわらず感謝できるか否かの違いが
最終的には幸不幸を決定づけます。
感謝できれば幸せと感じ、感謝できなければ不幸せと感じます。
思いが幸せならば幸せであり、
思いが不幸ならば不幸ということです。
当たり前と言えば当たり前ですが、
どういう条件の下にあっても、

一定して心に幸せの思いを持ち続けることが
できるかどうかということになれば、
これは非常に難しいものです。
このことは、どなたでもご自分の人生を
振り返ればおわかりかと思います。
いい時もわるい時もあったはずです。


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「垂訓」

2024-01-04 00:13:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆

先の続き・・・

人間は環境の中に生きていると思っていますが、
実は思いの中に生きているのです。
思いをいだく心は目には見えませんが、
形の世界である環境以上に幸不幸を左右する力を持っています。
人間の幸不幸を左右しているのは、
環境のように見えますが、実際は思いです。

ところが、私たちはこの思いをなかなか
自由自在にコントロールできません。
逆に思いに振り回されます。
その結果、環境に支配され、束縛されてしまいます。
本来は心のほうが手綱を握りコントロールの主人に
ならなくてはいけません。
本当は幸福な環境だとか不幸せな
環境などというものはないのです。
恵まれた環境とか恵まれない環境というのはあります。



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「垂訓」

2024-01-03 01:05:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

    ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆

先の続き・・・

しかし、やれ床が冷たいだの光がまぶしすぎるのだと言って
心に不平不満をいだいたり、泥棒が入って財宝が奪われたりしないかという
不安や恐怖の思いを持っていたらどうでしょう。
その人の心は決して満足でも平安でもなく、
はたから見るほど幸せではないはずです。

一方、古い諺にある「竹の柱に茅の屋根、筵を垂らして壁戸の代わり」
というような粗末な家でも、この竹の柱のお陰で屋根を支えてもらい、
茅の屋根のお陰で雨露をしのぎ、
筵のあるお陰で風を防いでいただくと思えば、そこは天国です。
質素な生活をしていても、わずかな物で足りていることの幸せに
常に心が感謝に満ちていることでしょう。
すると、どんな環境の中にあっても、心の持ち方さえ
感謝と喜びに向いていれば、
その人は幸せだということになります。

私たちは現在与えられている環境や境遇に対して、
それをそのまま有難く感謝して受け取ることがなかなか難しく、
何かにつけ不足な点を見つけては嘆いているものです。
感謝の理由を挙げるよりは、不満の理由を挙げるほうが得意です。
ところが、心の羅針盤が感謝のほうに向いていれば、
朝起きて太陽を見ても、顔を洗っても、
ご飯をいただいても、お手洗いに入っても、
道を歩いても、常に有難いはずです。

反対に不満のほうに向いていれば、何を見ても、
何をしてもつまらないでしょう。
人間関係も環境の一つです。
親切で温かい人々に囲まれ愛されていても、
独り心に深刻な悩み事をかかえていれば、
決して幸せとは言えません。
周囲の人も他人も心の中に入って思いを
変えるわけにはまいりません。
反対に厳しくつらいことの多い職場などの人間関係でも、
それを精神を鍛えるためのいい機会であると思えれば、
かえってそれらの人々の存在が貴重に思え、
そういう環境にも感謝できます。


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「垂訓」

2024-01-01 23:58:24 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆人間は環境の中よりも思いの中で生きている◆

私たちはこの環境の中に肉体を持って生きていると思っています。
そして、幸不幸を左右するのも環境だと思っています。
私はこんな環境だから幸せになれないのだとか、
別の職場に移りさえすれば幸せになれる筈だとか言って、
私たちは何でも環境のせいにしたがります。
が、果たして本当にそうでしょうか。

この肉体が空気、水、太陽によって育まれ、雨露をしのぐ屋根の下に住んで、
家庭や職場といった人間関係を含む環境の中に生きているのは確かです。
では、空気がきれいで、水が良くて、気候も温暖で、十分な広さの家を持ち、
家族に囲まれ、生活の糧を得るための職場が与えられたら、
毎日は幸せと言えるのでしょうか。
誰が見てもうらやむような完璧な環境の中にあっても、
本人の心が満足していなければ幸せとは言えません。
ダイヤモンドやサファイアの輝きに燦然ときらめくたくさんの照明と、
大理石の床や金の壁や銀の柱で荘厳された御殿のような大邸宅に住み、
金銀財宝に埋もれて暮らしている人がいるとしましょう。



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