第1話 人にとっての正しいイノベーションは文化の文明化から
メタエンジニアリングの実践の第一歩はイノベーションに繋がりそうな「潜在する課題の発見」であろう。その一つを司馬遼太郎の著書の中に見ることができる。
「アメリカ素描」司馬遼太郎、読売新聞社、昭和61年発行
司馬遼太郎は、著書の中で文明と文化について触れることが多い作家である。彼の定義は一貫しているのだが、その中でも「アメリカ素描」の冒頭の文章が分かりやすい。また、そのことに関連してイノベーションに通ずる一文があったので、敢えて紹介する。P17からの引用;(昭和60年ころの諸事情であることを念頭に)
「アメリカへゆきましょう、と新聞社のひとたちが言ってくれた時、冗談ではない、私にとってのアメリカは映画と小説で十分だ、とおもった。それにアメリカは日本にもありすぎている。明るくて機能的な建築、現代音楽における陽気すぎるリズム、それに、デトロイトの自動車工場の労働服を材料にみごとに“文明材”に仕立てたジーパン。
ついでながら“文明材”と云うのはこの場かぎりの私製語で、強いて定義めかしていえば、国籍人種をとわず、たれでもこれを身につければ、かすかに“イカシテル”という快感をもちうる材のことである。普遍性(かりに文明)というものは一つに便利と云う要素があり、一つにはイカさなければならない。たとえばターバンはそれを共有する小地域では普遍的だが、他の地域へゆくと、便利でないし、イカしもせず、異常でさえある。
ところが、ジーパンは、ソ連の青年でさえきたがるのである。ソ連政府はこの生地を国産化してやったそうだが、生地の微妙なところがイカさず、人気がでなかったといわれる。
普遍的であってイカすものを生みだすのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はなさそうである。そう考えはじめて、かすかながら出かける気がおこった。」
その後で司馬は、
「ここで、定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なものも・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまり普遍的でない。」
としている。
ここで、ジーパンに即してイノベーションを考えると、イノベーションは特定の固定化された文化のみからは生まれずに、それが何らかのプラスアルファで文明化したときにイノベーションとしての可能性が生まれると云うことではないだろうか。
文化の文明化とは、ある文化に多くの他の文化が混入して出来上がってゆくものである。古くは、古代エジプトやローマ、黄河文明も最終的には多民族の融合により生まれた。トインビーが云う日本文明も、奈良時代までの諸民族の文化の混入により出来上がったものと思う。明治の初期を文明開化と云うのが、正にあたっている。一方で、鎌倉文化や江戸文化などは、それ自体は前者よりも内容的に優れているのだが、文明とは呼ばれない。
イノベーションの持続的発生は、従って文化の文明化のプロセスの中で可能になるように思われる。幸いにして、日本には文明化が可能な優れた文化が沢山あるではないか。「潜在する課題の発見」の入口が、そのあたりにも多数あるのだろう。
司馬の本の後半には、品質について似たようなことが書かれている。
「近代工業以前ながら、日本には江戸期、大工や指物師の世界で“文化”としての品質思想は濃密に存在した。(中略)、それらはあくまでも個々の情熱と自負心と技量に依存した“文化”であって、法網のように普遍性のある“文明”ではない。第二次大戦下のアメリカは、品質管理というこの課題を、お得意の思想として“文明化”したのである。」
この文章にも日本的イノベーションの入口が見える。日本は、戦後間もなく米国から品質管理を教わり、徹底的な導入を行った。それは、奈良時代の仏教伝来を思わせる。そして、自らの品質文化と融合をさせて、新たな品質管理を文明化したではないか。そして、それ以降今日まで、品質管理のイノベーションの持続的発展を実現している。もし、日本に「独自の優れた品質管理の文化」が無かったならば、そのような持続性は生まれようもない。
しかし、文明化されたものも、ある限定された範囲でのみ極端に成長をすると、ある種の非合理性が入り込み、再びローカル文化に戻ってしまうのではないだろうか。日本の現在の品質の多くに、例えばスーパーに並ぶ野菜や果物などに、それを強く感じる。メタエンジニアリングは、それらを再び、世界の文明として再生させることにも役立てなければならない。
日本発の特徴ある優れたイノベーションの創出は、優れた日本文化の文明化から生まれる。メタエンジニアリングは、その場にこそ必要なものになるであろう。現代のイノベーションは世界のどこででも通用するものでなければならない。日本国内だけのヒット商品は、世界市場ではいずれかの国の同等商品に勝てないケースが益々多くなるであろう。「イカシテル」を認識することからスタートしてみよう。
文化は、限られた地域でのみ特別な価値を持つもので、他から見ると不合理なところが存在する。文明は、優れた文化から発展するのだが、文化に較べて普遍的な価値を持ち、かつどの地域においても不合理さが感じられず、「イカシテル」と感じられる。
最近、「クールジャパン」という言葉をよく聞かされる。日本発の文化が特定の外国人に「イカシテル」と感じられているようである。しかし、「ジャパン」という字が付く限りは、まだ普遍的ではないという意味が含まれているように思う。
つまり、日本発の特徴ある優れたイノベーションの創出は、優れた日本文化から生まれるのだが、生まれたのちに他から見ると不合理なところを排除して、かつより普遍的な価値(単に、品質や便利さのみではなく、イカシテルなど)を付加しなければならない。この二つの引き算と足し算の実行は、通常のエンジニアリングでは不可能で、社会科学や人文科学を含むメタエンジニアリングが求められるという訳である。
日本の文化の特異性は何であろうか。二項合体という言葉がある。神仏混淆、和魂洋才、文字の音読みと訓読み、ひらがなとカタカナの混用など色々ある。多神教などを例に、多項合体という人もいる。そして、日本文化の特異性は、対立や相克を解消する不徹底さの許容にあるとされている。
一方で、そのような日本文化に根差す日本文明は、西洋物質文明の行き詰まりの先にある、唯一の超古代から続いた独立文明であるという考えかたが広がりつつある。かつてそのようなことをアインシュタインが日本を去るにあたって述べたとも言われている。トインビーの有名な「歴史の研究」で示された、「日本文明は、西洋物質文明に感化されて衰退に向かっている」という説を否定して、更なる発展を持続するためにこそ、メタエンジニアリングは用いられるべきであろう。
メタエンジニアリングの実践の第一歩はイノベーションに繋がりそうな「潜在する課題の発見」であろう。その一つを司馬遼太郎の著書の中に見ることができる。
「アメリカ素描」司馬遼太郎、読売新聞社、昭和61年発行
司馬遼太郎は、著書の中で文明と文化について触れることが多い作家である。彼の定義は一貫しているのだが、その中でも「アメリカ素描」の冒頭の文章が分かりやすい。また、そのことに関連してイノベーションに通ずる一文があったので、敢えて紹介する。P17からの引用;(昭和60年ころの諸事情であることを念頭に)
「アメリカへゆきましょう、と新聞社のひとたちが言ってくれた時、冗談ではない、私にとってのアメリカは映画と小説で十分だ、とおもった。それにアメリカは日本にもありすぎている。明るくて機能的な建築、現代音楽における陽気すぎるリズム、それに、デトロイトの自動車工場の労働服を材料にみごとに“文明材”に仕立てたジーパン。
ついでながら“文明材”と云うのはこの場かぎりの私製語で、強いて定義めかしていえば、国籍人種をとわず、たれでもこれを身につければ、かすかに“イカシテル”という快感をもちうる材のことである。普遍性(かりに文明)というものは一つに便利と云う要素があり、一つにはイカさなければならない。たとえばターバンはそれを共有する小地域では普遍的だが、他の地域へゆくと、便利でないし、イカしもせず、異常でさえある。
ところが、ジーパンは、ソ連の青年でさえきたがるのである。ソ連政府はこの生地を国産化してやったそうだが、生地の微妙なところがイカさず、人気がでなかったといわれる。
普遍的であってイカすものを生みだすのが文明であるとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそういうモノやコト、もしくは思想を生みつづける地域はなさそうである。そう考えはじめて、かすかながら出かける気がおこった。」
その後で司馬は、
「ここで、定義を設けておきたい。文明は「たれもが参加できる普遍的なものも・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまり普遍的でない。」
としている。
ここで、ジーパンに即してイノベーションを考えると、イノベーションは特定の固定化された文化のみからは生まれずに、それが何らかのプラスアルファで文明化したときにイノベーションとしての可能性が生まれると云うことではないだろうか。
文化の文明化とは、ある文化に多くの他の文化が混入して出来上がってゆくものである。古くは、古代エジプトやローマ、黄河文明も最終的には多民族の融合により生まれた。トインビーが云う日本文明も、奈良時代までの諸民族の文化の混入により出来上がったものと思う。明治の初期を文明開化と云うのが、正にあたっている。一方で、鎌倉文化や江戸文化などは、それ自体は前者よりも内容的に優れているのだが、文明とは呼ばれない。
イノベーションの持続的発生は、従って文化の文明化のプロセスの中で可能になるように思われる。幸いにして、日本には文明化が可能な優れた文化が沢山あるではないか。「潜在する課題の発見」の入口が、そのあたりにも多数あるのだろう。
司馬の本の後半には、品質について似たようなことが書かれている。
「近代工業以前ながら、日本には江戸期、大工や指物師の世界で“文化”としての品質思想は濃密に存在した。(中略)、それらはあくまでも個々の情熱と自負心と技量に依存した“文化”であって、法網のように普遍性のある“文明”ではない。第二次大戦下のアメリカは、品質管理というこの課題を、お得意の思想として“文明化”したのである。」
この文章にも日本的イノベーションの入口が見える。日本は、戦後間もなく米国から品質管理を教わり、徹底的な導入を行った。それは、奈良時代の仏教伝来を思わせる。そして、自らの品質文化と融合をさせて、新たな品質管理を文明化したではないか。そして、それ以降今日まで、品質管理のイノベーションの持続的発展を実現している。もし、日本に「独自の優れた品質管理の文化」が無かったならば、そのような持続性は生まれようもない。
しかし、文明化されたものも、ある限定された範囲でのみ極端に成長をすると、ある種の非合理性が入り込み、再びローカル文化に戻ってしまうのではないだろうか。日本の現在の品質の多くに、例えばスーパーに並ぶ野菜や果物などに、それを強く感じる。メタエンジニアリングは、それらを再び、世界の文明として再生させることにも役立てなければならない。
日本発の特徴ある優れたイノベーションの創出は、優れた日本文化の文明化から生まれる。メタエンジニアリングは、その場にこそ必要なものになるであろう。現代のイノベーションは世界のどこででも通用するものでなければならない。日本国内だけのヒット商品は、世界市場ではいずれかの国の同等商品に勝てないケースが益々多くなるであろう。「イカシテル」を認識することからスタートしてみよう。
文化は、限られた地域でのみ特別な価値を持つもので、他から見ると不合理なところが存在する。文明は、優れた文化から発展するのだが、文化に較べて普遍的な価値を持ち、かつどの地域においても不合理さが感じられず、「イカシテル」と感じられる。
最近、「クールジャパン」という言葉をよく聞かされる。日本発の文化が特定の外国人に「イカシテル」と感じられているようである。しかし、「ジャパン」という字が付く限りは、まだ普遍的ではないという意味が含まれているように思う。
つまり、日本発の特徴ある優れたイノベーションの創出は、優れた日本文化から生まれるのだが、生まれたのちに他から見ると不合理なところを排除して、かつより普遍的な価値(単に、品質や便利さのみではなく、イカシテルなど)を付加しなければならない。この二つの引き算と足し算の実行は、通常のエンジニアリングでは不可能で、社会科学や人文科学を含むメタエンジニアリングが求められるという訳である。
日本の文化の特異性は何であろうか。二項合体という言葉がある。神仏混淆、和魂洋才、文字の音読みと訓読み、ひらがなとカタカナの混用など色々ある。多神教などを例に、多項合体という人もいる。そして、日本文化の特異性は、対立や相克を解消する不徹底さの許容にあるとされている。
一方で、そのような日本文化に根差す日本文明は、西洋物質文明の行き詰まりの先にある、唯一の超古代から続いた独立文明であるという考えかたが広がりつつある。かつてそのようなことをアインシュタインが日本を去るにあたって述べたとも言われている。トインビーの有名な「歴史の研究」で示された、「日本文明は、西洋物質文明に感化されて衰退に向かっている」という説を否定して、更なる発展を持続するためにこそ、メタエンジニアリングは用いられるべきであろう。