第6話 メタエンジニアリングによる文化の文明化のプロセスの確立(その1)font>
日本工学アカデミーにおける根本的エンジニアリングの研究は、そもそもは技術立国に伴うイノベーションの推進にその目的があったのですが、メタエンジニアリングと云う方向で視野を広げてゆくと、更に大きなイノベーションとしての新たな文明つくりに挑戦する、というテーマに行きつきます。
21世紀初頭の社会は20世紀に端を発した多くのイノベーションで溢れています。自動車、航空機、インターネットなどが代表ですが、これらは全てハイデッガーが述べたようにエンジニアリングの賜です。むしろ、溢れすぎていて多くの弊害が生まれてしまいました。そこで、持続性社会への方向転換が必要になったわけですが、文明とか文化のレベルで見ますと、20世紀後半からは、しきりに現代西欧科学技術文明の行き詰まり論が叫ばれています。
文明が健全な方向に育って行くのは、「優れた文化の場」です。文化は文明よりも長く続くものと考えるのが一般的ですが、ローカルであり不合理性を含んでいます。一方で文明はトインビーや司馬遼太郎等が述べたように、発生・成長と衰退がありますが、普遍性と合理性を備えたものです。
メタエンジニアリングのMECIサイクルは、持続的なイノベーションを創生するための一つの方法論なのですが、その応用として、「最高のイノベーションは優れた文化の文明化」と云う命題を掲げてみました。そして、従来の比較文明論をエンジニアリング的に前進させて、「文化の文明化へのプロセスの確立」についての研究を始めたいと思います。
なぜメタエンジニアリングを用いるかというと、エンジニアリングには次の機能があるからです。
① 様々な科学に基づく技術を用いて、人間社会に役立つものを新たにつくりだす
② 不合理性を取り除き、合理的なものを創造する
③ 新たなスキームの実現の為の具体的なプロセスを設計し、それを実行する手段を見つける
もう一つの理由は、現在のイノベーション重視の風潮に流されて、大衆受けを唯一の目的として新製品を設計している現在のエンジニアリングに対する危惧です。便利・簡単・安価、あるいは刺激的などのキーワードで開発されたものは、将来の文明に正の価値を与えられるでしょうか。40年間のエンジニアとしての経験から、どこまで文化や文明に踏み込めるかのチャレンジでもあります。
まったくの、大それた研究テーマなのですが、半老人には良い脳トレになることを期待しています。
そこで、手始めとして20世紀から今までに発行された文明と文化に関する書籍を検討してみることにします。10年単位で纏めてみますと、21世紀が文明の交代期であることが見えてきます。
参考文献の数(今後、多少の増減あり)
1960年より前; 3
1960年代の文献; 2
1970年代の文献; 6
1980年代の文献; 8
1990年代の文献; 5
2000年代の文献;13
2010年代の文献;12
1945年までに発行された文化と文明に関する著書と、そこからの引用
第1次世界大戦を経て、世界の主要大国では、ほかの国の文化に注目する流れができましたが、それはあくまでも後進の文明に対する興味本位のものでした。日本は、注目された国のひとつですが、松山の坂の上の雲ミュージアムの最上階にある当時の英米の新聞記事や、アインシュタインが日本を訪問なしたときに書かれた記事を見ると、同じような目で見られていたことが明白になります。しかし、当のアインシュタイン博士の見方は、違っていました。
1.アインシュタイン「日本を去るにあたって述べたメッセージ」(1923)(清水馨八郎「日本文明の真価」祥伝社(1999)「アインシュタインの予言」からの引用)
近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一か所ぐらいなくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主成るものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえた最も古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それにはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本と云う尊い国をつくっておいてくれたことを。
2.金子 務「アインシュタイン・ショック、第1部 大正日本を騒がせた四十三日間」
河出書房新社(1981)1922.11.17~12.29のアインシュタインの日記
・訪日当時アインシュタインが日記をつけていたことは間違いなかった。(中略)この現物のマイクロコピーがプリンストン大学のアーカイヴに保管され、しかるべき研究者には見せる用意がある、私もしくは代理人にそこで読んではどうか、と教えてくれた。
・博士は車内備え付けの机に向かって原稿の訂正を始め、いつの間にやら姿が見えなくなっていた。こうして書き上げたのが、「日本における私の印象」と題された日本感想記である。
・個人がそれぞれ感情表現を抑圧するという躾は、ある内的な貧しさ、自分自身の抑圧を生じるだろうか?私はそうは信じない。かような伝統の発達は、確かにこの国民に固有な繊細な感じや、ヨーロッパ人よりもずっと勝っていると思われる同情心の働きによって容易にされた。・・・どれほどしばしば日本人は荒々しいことばをあえて使い得ないことで、それを謙虚にまた不正直であると解されていることであろう。
・私がここで「芸術」というのは、美的な意図あるいは副次的意図をもって、人間の手で永続するもの、を目指して制作しているものを指している。この点で私は瞠目と驚嘆の念から逃れることができない。自然と人間とは一体様式以外の何物をも生まないほどに一つに結ばれている。実際にこの国に由来するすべてのものは、愛らしく、晴れやかであり、抽象的でも形而上学的でもなく、常に自然によって与えられたものとかなり密接に結びついている。
・すべてが日本人には形および色彩における体験であって、自然に忠実である。しかし常に形式化が先行する限りにおいて、自然から遠ざかる。明晰性と単純な線とを何よりも愛好する。絵画は強く全体として感得せられている。
・なお私の心にある一つのことがひっかかっている。確かに日本人は、西洋の精神的所産に驚嘆し、成果と大いなる理想とをもって学問に沈潜している。しかしながらその場合にも、西洋よりも優れて持っている大いなる宝、すなわち生活の芸術的造形、個人的欲求の質朴さと寡欲さ、および日本的精神の純粋さと静溢さを純粋に保たれんことを。
・予が、1か月に余る日本滞在中、特に感じた点は、地球上にも、また日本国民の如くに爾く謙虚にして且つ篤実の国民が存在していたことを自覚したことである。世界各地を歴訪して、手にとってまったく斯くの如き純真な心持の好い国民に出会ったことはない。(中略)故に予はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染しないことを希望する。
1960年までに発行された戦後の文化と文明に関する著書と、そこからの引用
第2次世界大戦が終了すると、従来の西欧の植民地が徐々に独立を始めた。それと呼応するかのように、世界のあらゆる民族の文化や文明の研究が進んだ。しかし、まだ研究の対象は未開文明を中心とする文化人類学的なものが多く、広範な文明論には至っていなかったように思われます。
1.掘 嘉望「文化人類学」法律文化社(1954) KMB091
・人類学が、我が国の大学で講義科目として広く採用されるようになったのは、ようやく戦後のことである。そして、人類学の体系的な叙述が、ハースコウィツやギリンなどのより新しい規模で提起されたのも、また、その頃であった。
・大学で哲学の研究を出発とした自分が、実証科学としての人類学の著を世に送るにいたった曲折を省みて、感概深いものがある。
・近世のヒューマニズム思想が、開けゆく人間と世界の知見を実質的背景として形成された事実は、人類学の全体的理解にとって基本的な方向を示すものであろう。
1960年代に発行された戦後の文化と文明に関する著書と、そこからの引用
1960年代に発行された文化と文明に関する著書の代表例を示す。この頃から、文明について時間的・空間的に包括的に研究を深めようという潮流が生まれ、それを受けて日本国内でも文明論が一般的にも語られるようになった。
1.A.トインビー「歴史の研究」経済往来社(1969)strong>元本は、1934~1972にわたって順次発行された4000頁の大著。
トインビーは、1925年にロンドン大学の教授を辞して、王立国際問題研究所(チャダムハウス)の研究部長に迎えられた。そして、年1回発行される「国際問題大観」の編集の傍らこの著書を執筆した。(吉沢五郎「トインビー 、 人と思想」清水書院1982 より)
・日本文明は、西洋物質文明に感化されて衰退に向かっている。
・第2編 文明の発生
第3編 文明の成長 第13章 問題の性質
第4編 文明の衰退
第5編 文明の解体
・文明の衰退の問題は、成長の問題よりも明白である。(中略)二十八のうち、十八までがすでに死滅し、埋葬されてしまったことがわかる。今日生き残っている十の社会は、わが西欧社会、近東地方における正教キリスト教社会本体、ロシアにおけるその分派、イスラム社会、ヒンズー社会、シナにおける極東社会全体、日本におけるその分派、それにポリネシア人、エスキモー、遊牧民の三つの発育停止文明である。この十の現存社会をさらにくわしく観察すると、ポリネシア人と遊牧民の社会は今や臨終の状態にあり、他の八つの社会のうち七つは、程度の差はあってもすべて、八番目の社会、すなわちわが西欧文明のために、絶滅するか、さもなければ吸収されるかの脅威にさらされていることが判明する。
・文明の衰退の性質は、少数者の創造的能力の喪失、それに呼応する多数者の側におけるミメシスの撤回、その結果生じる社会全体の社会的統一の喪失の三点に要約することができる。
(ミメーシスとは西洋哲学の概念の一つ。直訳すれば模倣という意味であり、これはプラトンの提唱した自然界の個物はイデアの模造であるというティマイオスという概念からの由来である。アリストテレスがこの概念を受け継ぎ、ミメーシスこそが人間の本来の心であり、諸芸術の様式となっているとした。ミメシスとも。(Wikipediaより)
2.谷川哲三「「歴史の研究」の邦訳の意義」経済往来社(1969)トインビーの「歴史の研究」の第1回配本に挟まれたニュースペーパー
・トインビーの「歴史の研究」は、現代という時代に対する切実な関心から生まれたものである。彼自身、偉大な歴史家の好奇心は、常にその時代にとって実際的な意義を有する何らかの問いに答える仕事に向けられてきたと言っているが、トインビーの場合もまさしくそれである。自分がその一員である西欧文明の前途、これが彼にとって最大の関心事であった。既に「西欧の没落」を予言している恐るべき書も出ている。そのシュペングラーの書にトインビーは衝撃を受けた。そこにトインビーの独自の文明論が生まれたので、「文明から次の文明へと文明が相続される文明の親子関係を設定する彼の独創的な考え方も、独自な角度からこの問題に答えようとしたものである。
・現代を見るトインビーの視点は三つの事実の認識の上に立っている。その第1は、現在、西欧文明は現存する文明の中で、解体期の明白な兆候を示していない唯一の文明だという事実である。他の6つの文明、すなわち正教キリスト教文明の主体とロシアにおけるその分派、イスラム文明、ヒンズー文明、東亜文明の主体と日本におけるその分派とは、いずれも多少の程度の差こそあれ解体期に入っている。
第2は、その現存する6つの文明は、世界中に行きわたった西欧文明のー特に技術文明の波の中に多かれ少なかれ飲み込まれているという事実である。第3は、人類の歴史において初めて全人類というものが意識されたばかりでなく、共通の運命にさらされているという事実である。
次回は,1970年代の著書(6例)を紹介いたします。