生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(12) 第6話(その6)

2015年07月16日 09時26分13秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(12)
第6話 メタエンジニアリングによる文化の文明化のプロセスの確立(その6)


2010年代の文化と文明に関する著書                                                                
2010年代に発行された文化と文明に関する著書と記事を12件列挙します。

西欧発の現代科学・技術文明に関する否定的な議論が様々な視点から展開された。それらは、歴史から見ると、我々が優れた文明と思っている現在の状況が、マヤやローマ帝国の文明の衰退から消滅までのプロセスにあまりにも類似しているという結論に至っている。
 例えば、「社会が柔軟性と多様性を失って、硬直化・脆弱化していた専門分化された知をどんなに深めていっても、横につながらなければ意味をなさない」(文献1)、「専門分化という危険により、ローマは崩壊以前に衰退していた。経済的な複雑さのおかげで、人びとは大量生産された物品(しかも高品質)を入手できるようになった。」(文献11)、などに表されている。

 一方で、本当に西欧が優れているのだろうか、と云った疑問が、いくつかの歴史上の事実からの反証として挙げられている。例えば、匈奴などの騎馬民族の文化と、漢民族の農耕文明の比較において、
「いったん砂漠になれば、もとの草原には決してもどらない。」文明的な行為であるとした耕作が、草原地帯では砂漠の拡大につながることを明確にしめしていることである。」(文献4)とか、今回の文明の基礎となった西欧のルネッサンスについて、「西欧がイスラムの学術を吸収し始めるのは、アラビアから遠く離れたイベリア半島においてである。(中略)レコンキスタがイベリア半島の中ほどに達した12世紀、ヨーロッパ人の中からイスラムのアラビア語文献を次々にラテン語に訳してゆく人たちが現れ、西欧は「大翻訳時代」に突入する。これは、15~16世紀のルネサンスに、知的には勝るとも劣らない歴史的転換点だった。かれらがイスラム世界から知識を吸収して西欧の学術の背骨をつくり、それが17世紀の科学革命へとつながった。」「かれらがイスラム世界から知識を吸収して西欧の学術の背骨をつくり、それが17世紀の科学革命へとつながった。デカルト、ガリレオ、ニュートンの時代になって初めて、西欧が世界を指導するようになった。この歴史的事実を、今のイスラム世界は知っている。しかし、西欧社会は認めず、西欧の見方をうのみにする国の人々は知らないままだ。これは、イスラム側にとっては大きな屈辱だ。」(文献12)などです。

 つまるところ、現代のスーパーミーム「広く浸透し、強固に根付いた信念、思考、行動で、他の信念や行動を汚染したり、抑圧したりするもの。」(文献10)を、「徹底的に超領域的(trans-disciplinary)に、しかも現代文明のなかで苦闘する全ての人々と連帯する」(文献4)という態度で先ずは潜在する課題のMiningというプロセスが見えてきました。



1.姜尚中「大学の理念と改革」中央公論2011 (KMB221)

・「想定外の背景にある社会の硬直化・脆弱化」
3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故から明らかになったのは、日本の社会が柔軟性と多様性を失って、硬直化・脆弱化していたということです。これを端的に表しているのが「想定外」という言葉です。これには諸外国も驚いたはずです。日本のように最先端の技術を誇る成熟した社会が、如何に未曾有の災害であるとはいえ、想定されない事態にうまく対応できなかったわけですから。

・専門家の見解に懐疑や不信感を抱いて違った行動を起こす。一方、専門家は非専門化が無知蒙昧ゆえに理解しないのだと非難する。専門分化された知をどんなに深めていっても、横につながらなければ意味をなさないのです。新しい発見をしたりモデルを開発したりする知とは別に、それが人間社会にどのような影響を与えるかを考え、その良否を判断する知が必要です。これは主に哲学や人文科学が担ってきた領域です。


2.春秋コラム「文化と文明のちがい」日経新聞2011.4.24

・文化と文明の違いを、画家の安野光雅さんが「文化は方言のように範囲が限られているが、文明は標準語のように普遍性がある」と語っている。

・印刷された画集で名画を見るのは文明であって文化ではない。文化に接するには、ルーブル美術館ならルーブルまで行って見なければならない。

・震災からの復旧とは、多かれ少なかれ、失われてしまった文化を文明によって埋め合わせてゆく作業だ。空っぽになった額縁にとりあえず複製の絵をはめ込んでいくように。


3.川勝平太「鎖国と資本主義」藤原書店(2012)KMB354



・はしがき
 世界史において最初に資本主義を確立させたのは、西洋ではイギリスであり、東洋では日本である。
双方の資本主義はともにアジアの海という共通の母胎から生まれたのである。
中世から近世への移行期における海洋アジアを共有した。
 イギリス資本主義では資本家が経営をしたが、日本資本主義では経営者が資本を運用した。
イギリスで経営が所有から分離するのは、日本よりも三世紀余り遅れ、20世紀になってからである。

・開国後に西欧経済に蹂躙されなかった秘密
 つまり、まともな競争にさらされる条件をもっていたということであり、イギリス製品の市場になってしまう危機の度合いがたかかったということである。そうならなかったのは、扱う商品は似ていても物の使用価値(品質や用途)が違っていたからです。社会の衣食住を支える物の集合を「社会の物産複合」呼びます。


4.比較文明学会30周年記念出版編集委員会「文明の未来―いま。あらためて比較文明学の視点から」東海大学出版会(2014) KMB039



・比較文明学会の設立趣意書
今日、われわれは、一つの宇宙船(地球号)遊曳のなかで生きつづけ、世界文明の形成というあらたな段階へ前進しようとしている。それだけに国際関係論および平和研究はいうにおよばず、科学、思想、芸術、宗教などすべての比較学の営為を集結して、過去・現在・未来へとわたる諸文明の構造や接触・変動を比較研究し、世界文明形成の一翼をになう運動に主体的にかかわってゆくことが求められる。その意味において、学際的(interdisciplinary)であるどころか、徹底的に超領域的(trans-disciplinary)に、しかも現代文明のなかで苦闘する全ての人々と連帯するために、開かれた学会として運営されることを目ざさなければならない。

・序文 文明の未来を問う 伊東俊太郎
 まず第一に、文明の未来について考えるべきことは、科学技術の進路変更ということである。これはとくに3.11の東日本大震災における原発事故に象徴的に示されたような危機から脱出せねばならないとういことである。17世紀の「科学革命」において、近代科学が成立したときに、デカルトやガリレオが、その著作を当時の学会語ラテン語ではなく、フランス語やイタリア語で書いたのは、この新科学を市民との対話の上でつくり上げてゆくという意図をもっていたからだ。
 従来の科学的知識には、真か偽かという評価基準しかなかった。しかし今やそれが健全であるか不健全であるか、すなわち我々が生きる地球という生命体を保全するものであるかどうかが重要な評価基準となる。このことは科学を現実生活に応用する技術については、いっそう強く云える。

・司馬遼太郎の文明観―古代から未来への視野 高橋誠一郎
 「匈奴などの騎馬民族はみずからの歴史を書くことがまずなかったため、彼らの南下と侵略が悪として中国史に書かれてきた」「遊牧の適地である草原というのは、元来、地面が固いので、農民が鍬を突っ込んで固い表土を掘り返し、やわらかい畑」「掘り返された土はすぐ乾き、風がそれをふきとばして、砂漠になってしまうのである。いったん砂漠になれば、もとの草原には決してもどらない。」文明的な行為であるとした耕作が、草原地帯では砂漠の拡大につながることを明確にしめしていることである。


5.科学技術研究開発センター「科学技術と知の精神文化Ⅱ」丸善プラネット(2011)KMB198



・文明とよばれるには、文化にプラスアルファとなる「X」がなければならないのではないでしょうか。この「X」が、工業化や民主化のようなヨーロッパ近代の社会組織に係わるものとすれば、古代エジプト文明も、古代ローマ文明も、古代中国文明も、メソポタミヤ文明も、「文明」と呼ばれなくなるはずです。(中略)では、civilizerあるいはcivilizeという動詞、つまり「市民化する」とか、もう少し別の意味を用いれば「都市化する」と云う言葉は、どういう成立過程があったのでしょう。(中略)すると、先ほどの「X」にあたるものはどういうものになるのでしょうか。「文化」になにがプラスされれば「文明」とよばれるようになるのでしょうか。私の仮説では、自然に対する攻撃的な支配が文明のもつ一つの特徴になると思います。つまり、自然を自然のままほおっておくのはむしろ悪であり、人間が徹底して自然を管理したり、矯正したりすべきという考え方が「X」に来るわけです。


6.加藤尚武、「災害論―安全工学への疑問」世界思想社(2011)



・まえがき
学問と学問の間の接触点に入り込んで問題点を探し出す仕事を、昔は、大哲学者がすべての学問をすっぽりと包み込む体系を用意してその中で済ませてきたが、現代では、「すべての学問をすっぽりと包み込む体系」を作らずに、それぞれの学問の前提や歴史的な発展段階の違いや学者集団の特徴を考え、人間社会にとって重要な問題について国民的な合意形成が理性的に行われる条件を追求しなければならない。それが現代における哲学の使命である。
 


8.大阪大学イノベーションセンター監修「サステイナビリチー・サイエンスを拓く」(2011)



・オントロジー工学によるサステイナビリティー知識の構造化
オントロジィーの重要な役割は、知識の背景にある暗黙的な情報を明示するという点にある。(以下略)社会のビジョン(マクロ)と、個々の科学技術シーズ(ミクロ)を効果的につなぎ合わせるための理論的・実践的研究、すなわちメゾ(中間)領域研究の開拓である。(中略)学術的に見ても、このメゾ領域を対象とした理論的研究は未開拓であり、ビジョンと科学技術シーズを有機的につなぐための学術領域を発展させることが求められるのである。


9.ドミニク・テュルパン/高津 尚志「なぜ、日本企業は「グローバル化」でつまずくのか」、日本経済新聞出版社(2012)



・評者 内山 悟志が、日経コンピュータ 2012年7月5日号で述べた書評より
「日本の驚異的な成長に学びたい」──。そんな思いを抱き1980年代に来日したテュルパン氏は、その後の日本の凋落ぶりも内と外から見てきた。IMDが毎年発表する世界競争力ランキングで、日本は1980年代半ばから1992年まで首位を保っていたが、最新の2011年調査では59カ国中26位まで順位を下げている。その過程で自信を失ったためか、多くの日本企業が中国やインド、ブラジルなど新興国への進出で立ち遅れたと指摘する。
 著者はこの凋落ぶりの原因を、過度な品質へのこだわりやモノづくり偏重による視野狭窄、地球規模での長期戦略の曖昧さなどにあると分析する。根源には異文化に対する日本人の理解力不足があり、打開するには真のグローバル人材の育成が急務だと警鐘を鳴らす。
 スイスのネスレや米GEなどのグローバル人材育成の先進事例とともに、既に中国やブラジルなど新興国の企業でも人材育成に多大な資金と労力を投じている事実を紹介している。
著者はこれらの事例を踏まえ、日本企業が取り組むべき人材育成策を次のようにまとめている。人事異動をもっと効果的に使う、幹部教育を手厚くする、外国人も人材育成の対象にする、英語とともにコミュニケーションの型を学ぶ、海外ビジネススクールを有効に活用する、の5点である。特に「人材育成に国籍の区別はない」との考え方には強く共感した。日本人だけを集めて研修したり、特定の日本人を海外に赴任させたりするだけでは、本当の意味で多様性は芽生えない。異文化を理解する力は、様々な国や地域の多様な人材と共に学び、切磋琢磨するなかで育まれるものだ。
当時(1980から1990年代前半)、日本の企業の多くはもう海外から学ぶものは無いという態度が強く見受けられました。どの企業も自信に満ちあふれ、どこかしら傲慢な雰囲気も漂っていた。結果的に日本企業は、工場管理に「よい常識」を持ちこんで非ホワイトカラーのマネジメントには成功したものの、それ以上の成果を出すことはできませんでした。さらにもっと苦手なのがダイバーシティー(多様性)のマネジメントでした。いまだに男女平等とは言えず、マイノリティー(少数派)の採用や活用には消極的です。(中略)東洋と西洋の間の難しい異文化マネジメントをも相互理解に努めることで乗り越えようとしています。中国は急速学んでおり、今後十年間で世界経済において確たる地位を占めるであろうことは言うまでもありません。
著者は、自分以外の他者や異文化に心を開くこと、加えて、共感性(Empathy)を養い、おもいやり(Sympathy)をもって他を尊重することが不可欠と断じています。一見当たり前のことのようですが、実際に日本のエンジニアは、業務の遂行にあたって、或いは新製品の開発に際してそのような心持を持っていたでしょうか、おおいに疑問です。この様なことから筆者は、日本語での「グローバル化」とか、「グローバル人材育成」といった表現に疑問を呈しています。安易にカタカナにせずに、正確に「全地球的」とか「全地球的人材」という表現だと、もっと広範囲な思考に至るのではと指摘をしています。その意味において、日本企業のグローバル化におけるつまずきの原因を以下のように挙げているのです。
① もはや競争優位ではない「高品質」にこだわり続けた
② 生態系の構築が肝心なのにモノしか見てこなかった
③ 地球規模の長期戦略が曖昧で、取り組みが遅れた
④ 生産現場以外のマネジメントがうまくできなかった


10.レベッカ・コスタ「文明はなぜ崩壊するのか」原書房(2012)



・なぜ文明は螺旋状を描いて落ちてゆくのか
そもそも生存の可能性を高めるためには、生物の複雑性と環境の複雑さはあらゆる面で釣り合っていなければならない。
複雑な環境とは、正しい選択をしないと成功できない環境のことである。誤った選択肢が沢山あり、正しい選択肢がほんの少ししなない状況では、正しい選択肢を見つけないと成功はおぼつかない。

・マヤ末期を襲った難問―気候変動、内情不穏、深刻な食糧不足、急速に蔓延するウイルス、人口爆発―が複雑すぎて、人々は事実を把握して分析し、対応策を練って実行することができなくなったといえる。このように問題が深刻で複雑になるあまり、社会が対応策を「考えられなくなる」限界は認知閾と呼ばれる。社会が認知閾に達してしまうと、問題は未解決のまま次の世代に先送りされる。それを繰り返すうちに歯車が外れてしまうのだ。これが文明の崩壊のほんとうの原因だ。

・ミームからスーパーミームへ、スーパーミームの君臨
スーパーミームとはー広く浸透し、強固に根付いた信念、思考、行動で、他の信念や行動を汚染したり、抑圧したりするもの。
①反対という名の思考停止、②個人への責任転嫁、③関係のこじつけ、④サイロ思考、⑤行き過ぎた経済偏重

・不合理な世界で見つけ出す合理的な解決策
・ひらめきを呼び起こす


11.南雲泰輔訳「ローマ帝国の崩壊、文明が終わるということ」白水社(2014) KMB381



原本はBryan Perking「The Fall of Rome and End of Civilization」Oxford Univ. Press(2006)

・スコットランドの歴史家ウイリアム・ロバートソンは、1770年にこのような見かたを実に力強く述べている。その言葉は、広く通用してきた「暗黒時代」のイメージを喚起させるものである。
 新しい征服地に番族諸国家が定着して一世紀の経たぬうちに、ローマ人がヨーロッパ中に広めた知性と教養と教育の影響力はほとんどすべて失われた。贅沢に仕え、また贅沢によって支えられてもいた優雅な技術のみならず、それなくしては生活が快適であるとはほとんど考えられぬ、数多くの有用な技術もまた、顧みられず、あるいは失われた。

・ローマは崩壊以前に衰退していた
 公私の富のかなりの部分が慈善と献身というもっともらしい要求のために聖別され、兵士らの給料に充てるべき金銭は、禁欲と貞操の美徳を説く以外に能のない、役にも立たぬ大勢の男女の上に浪費された。

・ローマ経済の所産
 ローマ人は日用品を含む物品を、きわめて高品質、しかも莫大な量で生産した。そして、それらを社会のあらゆる階層に広く普及させた。これらの日常生活のささやかな諸側面について詳しく記述した証拠はほんのわずかしか残っていないので、かつては、生産地から離れて遠くまで運ばれるような物品は殆ど無く、ローマ時代の経済的複雑さは国家の需要と支配者層の気まぐれを満たすために存在し、社会の大多数にはほとんど影響することはなかった、と考えられていた。しかし、・・(中略)ローマ陶器の三つの特徴は並外れているうえ、西方においてはその後何世紀ものあいだ存在しなかったものである。第一に、すばらしい質と相当に統一された規格。第二に、はなはだしい生産量。第三に、広く普及したこと。これは地理的だけでなく、社会的にもあてはまる。私が最もよく知っているローマ世界の地域、すなわちイタリア中央部・北部においては、この洗練の水準は、ローマ世界が終焉を迎えたのち、約八百年後、すなわち十四世紀までおそらく再び目にすることはないものである。

・専門分化という危険
 経済的な複雑さのおかげで、人びとは大量生産された物品を入手できるようになった。そのために自分が必要とする品物の多くを、ときには何百マイルも離れた場所で働く専門家なり準専門家なりに依存するようになった。(中略)現代の西洋世界と比較すれば、ことは明白かつ重要である。複雑さの点では明らかに、古代経済は二十一世紀の発展した世界経済とは比較にならない。私たちの生活は細分化され、高度に専門化された世界経済にわずかな貢献をしている。そして、需要については、世界中に散らばった、それぞれ自分自身のささいな仕事をしている何千何万という他の人びとに、全面的に依存している。緊急のときでさえ、地元のみだは自分たちの必要を満たすことは事実上不可能だろう。(中略)帝国の終焉に際して起こった経済的崩壊の激震は、ほぼ間違いなくこの専門分化の直接的な結果であった。

・この最善なる可能世界において、あらゆる物事はみな最善のか
 ローマ帝国の終焉は、じぶんなら絶対に遭遇したくない類の、恐怖と混乱の経験だった。しょしてそれは複雑な文明を崩壊し、西方の住民たちを、先史時代の典型的な生活水準まで戻した。崩壊以前のローマの人たちは、今日の私たちと同様、彼らの生活が、実質的には変わりなく永遠に続くであろうと疑いもしなかった。彼らは間違っていた。彼らの独善を繰り返さないよう、私たちは賢明でありたいものである。


12.伊東俊太郎「歴史を動かした12世紀ルネサンス」毎日新聞出版、週刊エコノミスト (2015.6.2)

・現在のヨーロッパ史を読むと、ある歴史上の重要な局面が消されている。それは、イスラム世界が西欧文明の成立に重要な役割を果たしたという事実だ。

・4世紀末にローマ帝国が分裂した時、ギリシャ学術の95%は西のローマにはゆかず、東のビザンツ帝国へ行った。その理由はいくつかあるが、一つはローマ人が非常に実践的な民族だったことだ。ローマの政治家のキケロが、「純粋科学に頭脳を浪費してはならない」と言ったように、ローマ人は土木工事などを重視した半面、純粋科学を尊重しなかった。

・5世紀に、(中略)現在のシリア付近に移り住んだネストリウス派の人々は、シリア語で神学の講義を始めた。当時の進学には自然学、つまり科学も含まれた。その結果、5~7世紀にかけて、ギリシャのさまざまな科学文献がシリア語に翻訳された。

・イスラム王朝(ウマイヤ王朝)に次いで興ったアッバース朝でも、ギリシャ学術の吸収が進んだ、主とバクダットでは、(中略)こうしてシリア・ヘレニズムの土壌の上に、アラビア学術が大いに振興される「アラビア・ルネサンス」が起こった。(中略)フナインは意味をくんだ上でアラビア語の構文に変えた。これは福沢諭吉や西周が西欧文献の意味を理解して日本語に置き換えていったのと同様、見事な作業だった。

・西欧がイスラムの学術を吸収し始めるのは、アラビアから遠く離れたイベリア半島においてである。(中略)レコンキスタがイベリア半島の中ほどに達した12世紀、ヨーロッパ人の中からイスラムのアラビア語文献を次々にラテン語に訳してゆく人たちが現れ、西欧は「大翻訳時代」に突入する。これは、15~16世紀のルネサンスに、知的には勝るとも劣らない歴史的転換点だった。

・かれらがイスラム世界から知識を吸収して西欧の学術の背骨をつくり、それが17世紀の科学革命へとつながった。デカルト、ガリレオ、ニュートンの時代になって初めて、西欧が世界を指導するようになった。この歴史的事実を、今のイスラム世界は知っている。しかし、西欧社会は認めず、西欧の見方をうのみにする国の人々は知らないままだ。これは、イスラム側にとっては大きな屈辱だ。