書籍名;「サピエンス全史>」[2016]
著者;Y.N.ハラリ 発行所;川出書房 発行日;2016.9.20
初回作成年月日;H29.5.12 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
この著書は、上下2巻にわかれている大著で、昨年(2016)は世界中で反響を呼んだ。しかし、読んでみると、中身はデカルト・カント以降の西欧的な哲学がここまで来てしまったのかという印象で、歴史の事実に対する解釈は良しとしても、将来の方向性については、東洋的な考え方ではついてゆくことはできない。特に、最終章の第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」と「あとがき」にある、「物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たち・・・」の記述には、驚かされる。日本の文化からは、「自ら神にのし上がった私たち」という発想は出てこない。
副題を「文明の構造と人類の幸福」として、人類が発生以来築いた文化や文明が、本当に人類に幸福をもたらしたのかどうかを、多くの歴史の事実から解析し、現代までの文明の構造は人類の幸福とは直接に関連していないと結論している。
近代からの文明の爆発的な進歩は、「帝国、科学、資本」のフィードバックループがうまく回った結果だとしている。そして、下巻の冒頭の第12章「宗教という超人間的秩序」では、次のように述べている。
『今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源とみなされることが多い。だがじつは、貨幣や帝国と並んで、宗教もこれまでずっと、人類を統一する三つの要素のひとつだったのだ。社会秩序とヒエルラリキーはすべて想像上のものだから、みな脆弱であり、こうした脆弱な構造に超人間的な正当性を与えることだ。(中略)したがって宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。』(pp.10)
そして、その後宗教に関する歴史的経緯を述べたあとで、アミニズム⇒多神教⇒一神教という進化の過程を示している。このことは、欧米の文明論者が、「象形文字から進化した漢字は、原始的な文字で、アルファベットが最も進化した文字である」と主張するのと同類の、西欧キリスト教的な考え方だと思う。それは、かつては民族の優劣を敢然と主張したことにも通じている、まったくの差別意識、すなわち部分適合にすぎないと思う。これらはすべて、進化ではなく、独立した文化の中で育った、ひとつの文明と考えるべきである。
第19章「文明は人間を幸福にしたのか」は、副題の「文明の構造と人類の幸福」について述べた章だが、最近の世界情勢は云うに及ばず、『認知革命以降の七万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか?』としている。
そして、『農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?』(pp.214) としているが、このことは第13章で述べられた、次の彼独特の文化論から発している。
『歴史の選択は人間の利益のためにされるわけではない、ということだ。歴史が歩きを進めるにつれて、人類の境遇が必然的に改善されるという証拠はまったくない。人間に有益な文化は何であっても成功して広まり、それほど有益でない文化は消えるという証拠もない。キリスト教の方がマニ教よりも優れた選択肢だったとか、アラブ帝国のほうがササン朝ペルシア帝国よりも有益だったという証拠もない。』(pp.49)
そして、「文化」については、『文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。ウイルスのような有機的寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと広がり、宿主に頼って生き、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。』(pp.49)
このことは、次の主張に通じている。
『これまで歴史学者は、こうした問題に答えることは言うに及ばず、問題を提起することさえも避けてきたからだ。彼らは政治や社会、経済、社会的・文化的性別(ジェンダー)、疾病、性行動、食物、衣服など、ほぼあらゆる事柄の歴史について研究してきたが、そこで一呼吸置いて、それらが人類の幸福に及ぼす影響について問うことはめったになかった。』(pp.215)
私は、以上のことは歴史学者に限らず、すべて近代化以降の分野ごとの専門化による部分適合の結果が招いたことで、だれも全体最適を考えられなかったためだと考えている。現代では、どの学会においても、全体最適を求めて追及することは、自身の専門分野内での地位を危うくするだけで、メリットは何もない。
著者は、進歩主義(人間は力を増すほど幸せになると考える)と反進歩主義(まずは農業へ、次いで工業へと移行したせいで、人間は本来の性向や本能を存分に発揮できず、そのために最も深い渇望を満たすことができない不自然な生活を送らざるをえなくなった。)の双方に加担せずに、しかも、その中道についても、「とはいえこれもまた、単純化しすぎる」としている。
そして、最終章の第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」では、現代西欧科学文明の真骨頂とも云うべき、つぎの発言が出てくる。
『サピエンスは、どれだけ努力をしようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまでの暗黙の了解だった。だが21世紀の幕が開いた今、これはもはや真実ではない。ホモ・サピエンスはそうした限界を超えつつある。
ホモ・サピエンスは、自然選択の法則を打ち破り始めており、知的設計の法則をその後釜に据えようとしているのだ。過去40億年近くにわたって、地球上の生物は一つ残らず、自然選択の影響下で進化してきた。知的な創造者によって設計されたものは一つとしてなかった。』(pp.241)
例えば、キリンの首が長いのは、キリン自身の意思(つまり知的設計)ではなくて、自然選択の影響下での進化だったというわけである。
そして、最後のあとがきの題名は、「神になった動物」で、『物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。自分が何を望んでいるかもわからない。不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか。』(pp.265)
著者の主張の真意は、良く分からない。これまでの科学が、現代の人類を「不満で無責任な神々」としてしまったのは、ホモ・サピエンスがキリンと同じ「自然選択の影響下での進化だった」からであり、「自然選択の法則を打ち破った後の、後釜としての知的設計の法則」により作られるであろう「超ホモ・サピエンス」こそが、真の幸福をもたらす文明を築くことができる、と言っているのであろうか。
著者;Y.N.ハラリ 発行所;川出書房 発行日;2016.9.20
初回作成年月日;H29.5.12 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
この著書は、上下2巻にわかれている大著で、昨年(2016)は世界中で反響を呼んだ。しかし、読んでみると、中身はデカルト・カント以降の西欧的な哲学がここまで来てしまったのかという印象で、歴史の事実に対する解釈は良しとしても、将来の方向性については、東洋的な考え方ではついてゆくことはできない。特に、最終章の第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」と「あとがき」にある、「物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たち・・・」の記述には、驚かされる。日本の文化からは、「自ら神にのし上がった私たち」という発想は出てこない。
副題を「文明の構造と人類の幸福」として、人類が発生以来築いた文化や文明が、本当に人類に幸福をもたらしたのかどうかを、多くの歴史の事実から解析し、現代までの文明の構造は人類の幸福とは直接に関連していないと結論している。
近代からの文明の爆発的な進歩は、「帝国、科学、資本」のフィードバックループがうまく回った結果だとしている。そして、下巻の冒頭の第12章「宗教という超人間的秩序」では、次のように述べている。
『今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源とみなされることが多い。だがじつは、貨幣や帝国と並んで、宗教もこれまでずっと、人類を統一する三つの要素のひとつだったのだ。社会秩序とヒエルラリキーはすべて想像上のものだから、みな脆弱であり、こうした脆弱な構造に超人間的な正当性を与えることだ。(中略)したがって宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。』(pp.10)
そして、その後宗教に関する歴史的経緯を述べたあとで、アミニズム⇒多神教⇒一神教という進化の過程を示している。このことは、欧米の文明論者が、「象形文字から進化した漢字は、原始的な文字で、アルファベットが最も進化した文字である」と主張するのと同類の、西欧キリスト教的な考え方だと思う。それは、かつては民族の優劣を敢然と主張したことにも通じている、まったくの差別意識、すなわち部分適合にすぎないと思う。これらはすべて、進化ではなく、独立した文化の中で育った、ひとつの文明と考えるべきである。
第19章「文明は人間を幸福にしたのか」は、副題の「文明の構造と人類の幸福」について述べた章だが、最近の世界情勢は云うに及ばず、『認知革命以降の七万年ほどの激動の時代に、世界はより暮らしやすい場所になったのだろうか?』としている。
そして、『農耕や都市、書記、貨幣制度、帝国、科学、産業などの発達には、いったいどのような意味があったのだろう?』(pp.214) としているが、このことは第13章で述べられた、次の彼独特の文化論から発している。
『歴史の選択は人間の利益のためにされるわけではない、ということだ。歴史が歩きを進めるにつれて、人類の境遇が必然的に改善されるという証拠はまったくない。人間に有益な文化は何であっても成功して広まり、それほど有益でない文化は消えるという証拠もない。キリスト教の方がマニ教よりも優れた選択肢だったとか、アラブ帝国のほうがササン朝ペルシア帝国よりも有益だったという証拠もない。』(pp.49)
そして、「文化」については、『文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。ウイルスのような有機的寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと広がり、宿主に頼って生き、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。』(pp.49)
このことは、次の主張に通じている。
『これまで歴史学者は、こうした問題に答えることは言うに及ばず、問題を提起することさえも避けてきたからだ。彼らは政治や社会、経済、社会的・文化的性別(ジェンダー)、疾病、性行動、食物、衣服など、ほぼあらゆる事柄の歴史について研究してきたが、そこで一呼吸置いて、それらが人類の幸福に及ぼす影響について問うことはめったになかった。』(pp.215)
私は、以上のことは歴史学者に限らず、すべて近代化以降の分野ごとの専門化による部分適合の結果が招いたことで、だれも全体最適を考えられなかったためだと考えている。現代では、どの学会においても、全体最適を求めて追及することは、自身の専門分野内での地位を危うくするだけで、メリットは何もない。
著者は、進歩主義(人間は力を増すほど幸せになると考える)と反進歩主義(まずは農業へ、次いで工業へと移行したせいで、人間は本来の性向や本能を存分に発揮できず、そのために最も深い渇望を満たすことができない不自然な生活を送らざるをえなくなった。)の双方に加担せずに、しかも、その中道についても、「とはいえこれもまた、単純化しすぎる」としている。
そして、最終章の第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」では、現代西欧科学文明の真骨頂とも云うべき、つぎの発言が出てくる。
『サピエンスは、どれだけ努力をしようと、どれだけ達成しようと、生物学的に定められた限界を突破できないというのが、これまでの暗黙の了解だった。だが21世紀の幕が開いた今、これはもはや真実ではない。ホモ・サピエンスはそうした限界を超えつつある。
ホモ・サピエンスは、自然選択の法則を打ち破り始めており、知的設計の法則をその後釜に据えようとしているのだ。過去40億年近くにわたって、地球上の生物は一つ残らず、自然選択の影響下で進化してきた。知的な創造者によって設計されたものは一つとしてなかった。』(pp.241)
例えば、キリンの首が長いのは、キリン自身の意思(つまり知的設計)ではなくて、自然選択の影響下での進化だったというわけである。
そして、最後のあとがきの題名は、「神になった動物」で、『物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。自分が何を望んでいるかもわからない。不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか。』(pp.265)
著者の主張の真意は、良く分からない。これまでの科学が、現代の人類を「不満で無責任な神々」としてしまったのは、ホモ・サピエンスがキリンと同じ「自然選択の影響下での進化だった」からであり、「自然選択の法則を打ち破った後の、後釜としての知的設計の法則」により作られるであろう「超ホモ・サピエンス」こそが、真の幸福をもたらす文明を築くことができる、と言っているのであろうか。