生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学のすすめ(14) ジャック・ウエルチとの出会い

2017年05月17日 07時24分17秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(14)    H29.5.17投稿     

TITLE: ジャック・ウエルチとの出会い

私の過去の名刺ファイルを繰ると、176枚のGEのロゴマークの入った名刺があった。1970年代半ばから2005年までの30年間のお付き合いの結果だ。最初の付き合いは、タービン翼の研究関係で、彼らの伝熱工学の知識と応用技術に関心を持ったが、別途述べたように、特許論争などから、大きな脅威は感じられなかった。最も驚いたのは、材料に関するデータベースで、膨大な資料が全て3種類に色分けしてあった。研究段階、試用段階、実用段階の3種類だ。
本格的な付き合いは、GE90エンジンの共同開発で、このときにはいくつかの疑問があった。そのときのことを思い出し、改めてこの2冊を読みかえす気になった。

2 001年に、ジャック・ウエルチ に関する2冊の本が発行された。一つは、有名な彼自身の自叙伝で、他の一つは彼の在任中にGEから発行された「アニュアルレポート」を年次順に纏めたものだ。この両書を照らし合わせると、今まで疑問に思っていたことの、裏の事実が見えてくる。

① 「ジャック・ウエルチわが経営」(上)、(下)
著者;ジャック・ウエルチ  発行所;日本経済新聞社 発行日;2001.10.21

② 「GEとともに」
著者;GEコーポレート・エクゼクティブ・オフィス 発行所;ダイヤモンド社 発行日;2001.10.18
 


プロジェクトが一段落した後での付き合いは、Value Engineering(価値工学)とQuality Control(品質管理)と防衛庁が導入した自衛隊機に搭載されたエンジンに関するものだった。考えてみると、これら3つの全ては、彼らにオリジナルがあり、我々はそれを導入して成長した。オリジナルに直接アクセスできる機会を常に持っていたことが、メタエンジニアリング指向の根っこになったのかも知れない。

相手方の対応態度は、初めの10年間はもっぱら教師役で、ほぼ何でも答えてくれたし、こちらが望む以上のものまで見せてくれた。GE90プロジェクト前後の10年間は、彼我の長所と欠点が明らかになった期間で、GEへの脅威は全くなくなり、むしろ老齢化が進んだ気の毒な企業に見えたこともあった。そして最後の10年間は、まったくのビジネス・ライクの付き合いで、むしろ数名の友人とのプライベートな会話を楽しんだ。ここでは、中間の
10年間に思っていた疑問を解決するために、その箇所に限って読むことにした。

第1の疑問は会社の組織体系に関するものだった。GE90スタート当初は、V2500プロジェクトも最初の型式承認が取れた後に続けて、第2、第3の型式承認(AirbusA320機用の大型化とMcDonaldのMD90機への搭載型)を得るための開発の真っ最中で、当方のエンジニアの数が圧倒的に不足をしていた。そこでGEに作業委託をすることになったが、紹介されたのが英国の中心部のレスター市にある「GEC」という会社だったが、こことGE本体の関係が不明だった。ある人はGEと一体と言うし、ある人はGEとは全く別の会社だと言っていた。作業委託は20~30人規模の設計業務だった。

第2の疑問は、GEという巨大企業の中で、ウエルチが次々に打ち出す経営改革の手法が、どのように各個人に浸透しているかといったことだった。当時のGEのエンジニアは、担当分野に限らずすべてが過去に作られたマニュアルによって作業を進めていた。つまり、伝統墨守と改革という相い反することが、同時に行われていたことになる。

第3の疑問は人事関係で、当時はベルリンの壁の崩壊から始まった東西冷戦の終焉のために、GEを離れてゆく人が、身の回りにも大勢いた。一方で、V2500で付き合ったRolls Royceのエンジニアが数名GE社に入社しており、お互いに、突然顔を見合わせてびっくりしたものだった。
これらの疑問は、それ以降は解決の当てもなく忘れていたが、この書に出会って、もう一度考えてみることにした。きっかけは、通常のエンジニアリング ⇒リエンジニアリング⇒メタエンジニアリングという一貫した流れに、どうもウエルチの施策が重なって見え始めたからである。
彼の根本思想が、正にメタエンジニアリングそのものに見えてきた。

①の著書は、まったくの自叙伝で冒頭の12ページにわたる彼の家族の写真(自身の少年時代、両親、奥さんと子供たち、孫たち)の後での第1ページにはこんな言葉が記されている。

『数十万のGE社員に捧げる その人たちの知恵と努力のおかげで、私はこの本を書くことができた。
*本書からの著者が得る収益は慈善事業のために寄贈されます』


第4部「流れを変えるイニシアチブ」には、次の言葉がある。

『1990年代われわれは、グローバル化、サービス、シックスシグマ、Eビジネスという四大イニシアチブを追求した。どのイニシアチブも、最初は小さなアイデアの種から始まった。それをオペレーティング・システムのなかに撒いてやれば、成長のチャンスが生まれる。われわれの四つの種は大きく育った。われわれがこの10年間に経験した加速度的な成長を支える重大な要素になった。

これらは「今月のおすすめ」といった類のものではない。GEでは、イニシアチブを全員の心をつかむものと定義する。会社全体に重大な影響を与えられるだけの大きな規模、広範囲、包括的なものだ。イニシアチブの活動に終わりはなく、組織そのものの性質を根底から変える。それがどこで生まれたものであろうとこだわることなく、私はチアリーダーの役目を果たしてきた。すべてのイニシアチブをときに狂信的ともいえるほどの情熱と熱狂によって支えてきた。』(pp.124)

これは、第2の疑問の答えの一部になる。当時も気になっていたが、マネージャー・クラスに対する全員一括教育の徹底が、この雰囲気を作ったのだろう。

ここでの注目は、「会社全体に重大な影響を与えられるだけの大きな規模、広範囲、包括的なもの」という言葉で、特に「大きな規模、広範囲、包括的」と「性質を根底から変える」と云うことに、彼のチャレンジ精神と、同時にリスクテイキングを感じる。多くの日本人の経営者が不得意とする領域だ。

これについて、②の著書の1988年の項には、次のようにある。

『GEの経営陣は、CEOと各事業の工場の間に存在する管理職を九人から四人に削減しました。計算ずくの賭けではありましたが、80年代中ごろには、第2、第3階層の経営陣―セクター,グループと呼んでいた階層―を取り除きました。
14の主要事業部門については、従来のように副社長に報告し、副社長が上級副社長に、しかもすべて補佐とともに報告するのではなく、いまでは我々3人に直接報告しています。この方法が成功するか否かは、業務レベルにおけるリーダーシップの質に依存しています。我々はそれだけの質を備えていると賭けて、これに勝ったのです。』(pp.88)

ここで彼は、「改革は賭けだった」と明言している。日本の大企業は、相も変わらずに、セクターとか、グループと呼ぶ組織を作り続けている。前に紹介したビジネス・プロセス・リエンジニアリングの採用も、中途半端では効果が出ないことは、明らかだ。

これによってGEは、アイデア、イニシアチブ及び判断は、多くの場合音速で(すなわちペーパーではなく会話で)進んでゆくと明言をしている。さらに同時に、セクショナリズムが一体感に変わったとも明言している。まさに、「大きな規模、広範囲、包括的」のためであろう。

第1の疑問の「GECという名の会社」については、同じ②の1988年の項に記されている。

『最後に、89年初め、歴史に残るともいえる、イギリスのゼネラル・エレクトリック・カンパニー(GEC)との一連の契約を締結しました。これによって14の主要事業のうち4事業(メディカルシステム、大型家電、産業用電力システム、送電機器)がヨーロッパ市場に参入する道を大きく広げたことになると思われます。』(②pp.86)

 つまり、それまでのGECは全く米国のGEとは無関係だったのだ。しかも、英国のGECが、ヨーロッパにおける4事業の主力会社だったことが記されている。名刺ファイルを繰ると、「GEC」の名刺は、僅か6枚だった。1990.7.5のDirector of EngineeringのD.B.氏のものが最初で、彼は、「GEC ALSTHOM」の人であった。そして、我々が設計業務を発注した相手は、RUSTON GAS TURBINS LIMITEDのエンジニアであった。このような判断も、GE内では音速のスピードで行われていたのであろう。

 ついでながら①の著書には、こんなくだりがある。

『グローバル化が飛躍的に進んだ年があるとすれば、1989年だろう。それはイギリスにあるGEC(ゼネラル・エレクトリック・カンパニー)会長のアーノルド・ワインストックからの電話で始まった。(GECの名称はGEとまったく同じだが、両者の間には何のつながりもない。やっと2000年にGECがマルコーニに名称変更して、GEの名称に対するすべての権利を買い取ることができた)。』(①pp.135)

①と②の著書の中で、航空機エンジン関係の話は異常に少ない。少なくとも売上高の割合とは全く釣りあっていない。彼のさまざまな施策からのこの分野への影響が、小さかったからかもしれない。
唯一の話は、1995年の話で、①の第20章「サービスの拡大」に記されている。

『1995年11月に、サービス要員に焦点を合わせた特別セッションCミーティングを開いた。96年1月には航空機エンジン事業で他に先駆けて大規模な組織改革を実施した。エンジンサービス担当バイス・プレジデントのポストを新設し、この事業を独立採算制にした。』(pp.154)
 
そして、直ちに規模拡大に向けた戦略を展開した。既に、世界各地にオーバーホウルの拠点工場を持っていた(プロジェクト担当当時、私はGEの手配でロスアンゼルスから成田経由でシンガポールの工場の見学をアレンジされた)が、BA(British Airway)からウエールズの工場を、ヴァリク航空からブラジルの工場を買収した。それらはすべて、サービスコストの大幅な削減に寄与したと述べている。

 ①の第21章「シックスシグマ」では、1995年の心臓発作の話が語られている。既に20回の発作を経験していたそうだが、夜中の1時に「苦しい、死ぬ」と叫んで緊急入院し、手術を受けたとある。そして、「シックスシグマ」の導入は、自宅での療養中に決断をして、実行に移した。「シックスシグマ」の実行は、膨大な作業を伴うので、導入の可否の決断は、このような日常を離れた環境だからこそ、できたのではないかと思う。

 ウエルチは品質改善運動についてはこのように述べている。
『品質改善運動に本気で取り組もうとは決して思わなかった。品質向上プログラムはスローガンばかりが大げさで、その成果はほとんど上がらないものだと考えていた。
1990年代のはじめころ、航空機エンジン事業がデミングの品質向上プログラムに試しに取り組んでいた。このプログラムがあまりにも理論を追いすぎていたために、私はこれを全社的なイニシアチブにしようとは思わなかった。』(pp.167)

『業界では、一般的に100回のうちおよそ97回旨くゆけば通用する、これは3から4シグマだ。この品質レベルは具体的には、不適切な外科手術を毎週5000例、郵便物の紛失が1時間あたり2万件、間違った薬の処方箋が1年に何十万枚も発行される、という数字だ。考えるだけでも愉快な話ではない。』(pp.167)
 ちなみに、このシグマ数値は間違っている。彼の数値は正規分布の両側をとっているが、シックスシグマでは、確率論に意図的なバイアスをかけており、けた違いに厳しい数字になる。

彼が、何故品質管理に対する考え方を180度転換したかは、単純だった。『さらに私が行った調査でも、品質こそGEの抱えている問題だ。これが一点に集約されたとき、私はシックスシグマの信奉者となってその導入に着手した。われわれは、シックスシグマ担当として中心人物を二人指名した。全社的に展開するイニシアチブのトップ、ゲリー・ライナーと、私の長年付き合っている財務アナリスト、ボブ・ネルソンで、費用便益分析を行った。』(pp.168)
 
その費用便益分析の結果は驚くべきもので、コスト削減効果はGE全体の売上高の10~15%になった。そして直ちに、シックスシグマの元祖であるモトローラからシックスシグマ・アカデミーの経営者を招いて全員教育を始めた。つまり、目的は、GE全体の売上高の10~15%のコスト削減だったわけである。
 
さらに、ブラックベルト(指導的立場のスタッフ)に、ストックオプションを設けたり、グリーンベルト(活動のリーダーの資格)のトレーニングを受けることを、マネージャー昇格の条件として、厳しく守らせた。
このストーリーは、私の第3の疑問の人事管理に関する答えになっている。彼は、①の最後でこう述べている。

『人材のトップ20%に報い、ボトム10%に転身を勧める』

 まさに、その時その場での的確な決断の速さを維持するために、多くの情報が智慧化して蓄えられている。