生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(29)インターネットの次に来るもの

2017年05月10日 09時38分53秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「インターネットの次に来るもの」[2016] 
著者;ケヴィン・ケリー 発行所;NHK出版  発行日;2016.7.25

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

副題は、「未来を決める12の法則」とある。つまり、インターネットという新たなテクノロジーが人類の文明の未来を変えるのだが、そこには12の法則があると宣言をしている。なぜ、「法則」という言葉が使われるのかは、「はじめに」に書かれている。それは、まさにあのハイデッガーが技術論で述べたことだ。

つまり、人類はテクノロジーの進む方向に逆らうことはできない、と云うことなのだ。



『テクノロジーの性質そのものに、ある方向に向かうけれども他の方向にはいかないという傾向(バイアス)がある。つまり均質な条件ならば、テクノロジーを規定する物理的・数学的な法則は、ある種の振る舞いを好む傾向にあるのだ。基本的にこうした傾向は、テクノロジー全体を規定する集合的な力として存在し、個々のテクノロジーやその状況には影響を与えない。』(pp.7)

ここでのテクノロジーとは、インターネットのことなのだが、インターネットというテクノロジーが普及すると、その形態によらず、人類の文化はある方向に押し流されてゆくであろうという説である。

 12の法則とは、以下である。
1.Becoming-なってゆく
2.Cognifying-認知化してゆく
3.Flowing―流れてゆく
4.Screening―画面で見てゆく
5.Accessing―接続してゆく
6.Sharing―共有してゆく
7.Filtering―選別してゆく
8.Remixing―リミックスしてゆく
9.Interacting―相互作用してゆく
10.Tracking―追跡してゆく
11.Questioning―質問してゆく
12.Beginning―始まっていく
である。
 
個々の説明は省くことにするが、文明への影響は、4の「Screening―画面で見てゆく」の項に凝縮して示されていると思う。
『古代の文化は話し言葉を中心に回っていた。話し言葉を記憶して暗唱することは、口伝社会において過去や、あいまいなものや、装飾的なもの、主観的なものへの崇敬を表した。われわれは話し言葉の民だった。』(pp.114)

 そこから、グーテンベルクの印刷技術の発明を契機に、書き文字が文化の中心になり、「本の民」へと変身した。それから、インターネットの普及により、「スクリーンの民」へと変身する途上にあるというわけである。

『もはや文字は黒いインクで紙に固定されたものではなく、瞬きする間にガラスの表面に虹のような色で流れるものになる。ポケットにも鞄にも車の計器盤にも、リビングの壁にも、建物の壁面にも、スクリーンが広がってゆく。われわれが仕事をするときには、それが何の仕事であれ、正面にはスクリーンがある。われわれはいまや、スクリーンの民なのだ。』(pp.115)

 20世紀までの本の文化を「複製文化」と呼び、文明がひろがり、「創造的な作品の大いなる黄金期をもたらした」と述べている。それに対してのスクリーン文化は『絶え間なく流れ、次々とコメントが繰り出され、敏速にカットされ、生煮えのアイデアに満ちた世界だ。それはツイート、見出し、インスタグラム、くだけた文章、うつろいゆく第1印象の流れだ。どんな考えも単体で成立することはなく、他のあらゆるものとの間に膨大なリンクが相互に張られる。真実は著者や権威によってもたらされるものではなく、オーディエンス自身が断片を組み合わせてリアルタイムに生成するものにある。』(pp.116)
 
このことがまさに、『テクノロジーの性質そのものに、ある方向に向かうけれども他の方向にはいかないという傾向(バイアス)がある。』なのだ。
 さらに、『こうした流動性に対しては、文書の論理の上に成り立つどんな文明も大いに懸念を抱くことになる。』(pp.117)という。

 最終章の、「Beginning―始まっていく」では、シンギュラリティーについて語られている。強いシンギュラリティーは、AIが人間の意志を越えて進化し、人類を置き去りにしてゆくものだが、それは起こらないだろうとして、弱いシンギュラリティーを想像している。
 
『AIは、われわれを奴隷化するほどにはスマートにならず、AIもロボットもフィルタリングもトラッキングも本書で述べたテクノロジーの数々もすべて合体し―つまり人間にマシンが加わって―複雑な相互依存へと向かっていく。その段階に達すると、あらゆる出来事はわれわれのいまの生活以上の大きな規模で起こり、われわれの理解を超えたものになるので、それがシンギュラリティーということになる。
それはわれわれの創造物がわれわれをより良い人間にする領域であり、一方でわれわれ自身がその創造物なしでは生きられなくなる領域だ。これまで氷の状態でいきてきたとするなら、これは液体だ―新しい位相なのだ。

 この相転移はすでに起こっている。われわれは、すべての人類とすべてのマシンがしっかりと結びついた地球規模のマトリックスに向かって容赦なく進んでいる。このマトリックスは、われわれが作ったものというよりプロセスそのものだ。』(pp.390)

 この結論は、かなり楽観的に見えるのだが、現代のように、すべてがそれぞれの分野の専門家やいわゆる知識人や学識経験者によって決められてゆく文化とは明らかに異なる文化、すなわち個別適合から全体最適を求める方向に向かうことに変わりはないと思われる。さらに、自然圏と人間圏と機械圏に分かれていた世界が、合体の方向に進むことが期待できる。それはつまり、西欧型の理論哲学の世界から、東洋型の自然観への回帰が始まるということの一部ではないだろうか。