生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(129) 「日本語の世界」

2019年07月12日 16時53分18秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(129) 「日本語の世界」

書籍名;『日本語の世界』 [1980-1986] 
編者代表;大野晋と丸谷才一 発行所;中央公論社
発行日;1980.9.15
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、



このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

日本語全般についてのシリーズ全16巻。数冊が中央公論新社から中公文庫で再刊。
 この全集は、近所の図書館の放出本で見つけた。全16巻だが、その中の興味を引く7巻を自宅に持ち帰り、ページをめくっている。なぜそうなったか、それは第1巻の「序章」の最初の文章だった。
 
『日本語の力 日本語は果してヨーロッパの言語のように、厳密で精確な表現の可能な言語なのだろうか。旧制の高等学校に入学して、自由に考え、読むことができるようになったとき、私の心の底でめぐっていた思いのーつは、それであった。眼前にそびえるヨーロッパの学芸の壮麗さのただ中に飛び込む友人たちの中に居て、私は明らかに知りたかった。 日本はヨーロッパの持つ何を欠くが故に、ヨーロッパをこのように追いかけていかなければならないのか。日本がヨーロッパに及ばないのは何故なのか。ことによるとそれは、日本語という言語がヨーロッパのような思考と表現の厳密さや精確さにたえない言語だからではないか。
日本語のたしかさを求めて、私はある時は大祓の祝詞を声高く朗誦した。私はそこに日本語の力強さの泉があふれ出ているのを感じた。大伴家持の春の歌を読んでは、繊細で優しい日本語の表現の伝統を思った。またある時は、柿本人麿の挽歌の数々を読み、長歌としてたたみ上げて行く言葉の雄渾と犀利とに感動した。』(pp.2)


 
ここまでは、日本語礼賛のように思えたが、しかし、そのあとで続けて、こうも書いている。
 『「ファウスト」の韻律   しかし。義務として教室に坐って聞いていただけだったゲーテの「ファウスト」であったが、試験の前夜になって、やむを得ず森鴎外の翻訳に頼って読み始めると、読み進むに従ってその原文は波濤のように私の胸に押し寄せて来た。その韻律の圧倒的なうねりは私の心をゆすってやまなかった。ほのぼの夜の明ける頃、鴎外の訳はまるで瓦礫のように見えた。柿本人麿のあの高市皇子を傷む長歌の緊張と迫力さえも、この「ファウスト」の前には物の数ではなかった。私は長い息をついた。明治時代以来、何人もの詩人が、日本語に絶望して詩を離れ、詩を棄てたのを、その時によく理解できた。日本語の音節の構造、その配列、文法上の語順の規則ーーそれらはドイツ語の韻文に見られる美しい技巧、力強いリズ ムと脚韻の旋律とをはばんでいる。日本の詩歌が日本語の性格によって本質的に負っている技術上の制約を、私はくち惜しく反芻した。』(pp.3)

 森鴎外の翻訳を「まるで瓦礫のように見えた」とは、試験前夜の学生としては大した度胸だと思うのだが、私には、「ドイツ語の韻文に見られる美しい技巧、力強いリズ ムと脚韻の旋律」の方が、もっとわからない。
 確かに、ベートーベンの第九の合唱を聴けば、そう思わないでもないが、ドイツ人の会話からそれと同じことを感じたことはない。そこで、この書を少し読み進めようと思い立った。

 「序章」では、さらに続けてこのようにある。
 『私は、日本人は論理的な表現に弱いと聞いていた。あるいは抽象的な思考力に欠けていると聞いた。それは本当なのであろうか。』(pp.3)

 このことにも興味があるのだが、私はむしろ日本の自然や文化に根付くものだと思っていた。しかし、そのあとで、「コト」という日本語が、言葉のコトと行為のコトが「密接不可分」であると書いてある。
 この文章は長く続くのだが、例えば難解だった仏教が、鎌倉時代になって親鸞や日蓮が、当時の日本語で民衆に理解できる仏教を語った。その日本語は、それ以前の日本語と違ったのだろうか、といったことが書かれている。
 このことから、以前読んだ、中世まで全くのマイナー言語だった英語が、シェークスピアの出現により、一気に全ヨーロッパに広がったとの話を思い出した。

 全巻の表題を辿ってみると、最初の8巻目までは興味深い題名が並んでいる。
『1. 日本語の成立』(大野晋、1980年)
『2. 日本語の展開』(松村明、1986年)
『3. 中国の漢字』(貝塚茂樹・小川環樹編、1981年)
『4. 日本の漢字』(中田祝夫・林史典、1982年)
『5. 仮名』(築島裕、1981年)
『6. 日本語の文法』(北原保雄、1981年)
『7. 日本語の音韻』(小松英雄、1981年)
『8. 言葉・西と東』(徳川宗賢、1981年)主に方言論

じっくりと読み始められるのは、いつのことかわからないが、気楽に待つことにした。それにしても、この時代の全集の数と深さには、毎度感動してしまう。今どき、これほどのモノは期待できない。デジタル書籍が一般的になる中で、ますますそうなるのだろうか。