生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(67) 二つの五稜郭(その2 佐久) 

2021年08月22日 07時39分56秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(67)  
題名;二つの五稜郭(その2 佐久) 場所;函館 月日;2021.x.x

テーマ;二つの五稜郭 作成日;2021.8.21                                                

TITLE: 二つの五稜郭(その2 佐久)

 日本国内に五稜郭が二つあることは、あまり知られていないようだ。私は、期せずして短期間に二か所を巡ることになった。二か所のうちの第一は、明治維新の戦争で有名な函館の五稜郭で、前回(66)紹介した。二か所目は長野県の佐久で、そこは佐久美術館を訪れる帰路で偶然発見したのだった。なぜ、こんなに離れた場所なのか。この二か所の歴史を比較してみたいと思った。
  
 佐久市立近代美術館は、お気に入りの一つで何回も訪ねている。目的は平山郁夫の仏教伝来なのだが、今回はその姉妹作の「天山南路(夜)」だった。しかし、絵から受ける雰囲気に、二枚の違いはない。この美術館は、現在は無料開放なのだが、写真はNG。僅かに入り口の池田満寿夫のモザイクだけがOK。この形は、佐久鯉の稚魚だそうだ。
 この美術館の周囲は、広大な公園で、あちこちに彫刻が飾ってあるのだが、それらも中々のものに思う。





 佐久五稜郭は、そこからまっすぐに20分ほど南に下った、小海線臼田駅の近くにある。周辺は、佐久市観光協会の「おすすめウオーキング・コース」になっていて、寺院や旧跡を辿ることができる。





 この城郭は、龍岡城(あるいは桔梗の花にたとえて桔梗城)と呼ばれて、文久3年(1863年)、藩主・松平乗謨(のりかた)によりつくられた。龍岡藩は1万6千石の小藩で、城主の格式は認められていないため、城ではなく陣屋となっている。
 
しかし、この松平家は将軍家から姫君をもらった家とは異なる。徳川家康の5代前の松平親忠の兄弟が分家したものだ。従って、家格は高く、彼は幕末時には老中格・陸軍総裁、明治維新後は伯爵となり、日本赤十字社の創設者の一人として知られている。
 彼は、西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでおり、藩政ではフランス式の軍制を導入した農民兵を基礎とする非常先手組を編成。一方で、殖産興業や蚕種・生糸の増産など国力の増強にも努めたとある。 
 




 ところで、星型要塞とは、15世紀末から16世紀初めにかけてフランス軍がイタリア半島へ侵攻した際に、その新型の火砲に対して、防御面を充実するために考案されたもので、ミケランジェロはフィレンツェの城壁の改良工事で星型要塞の理論を実践したとある。
 
 この陣屋は、慶応2年(1866年)に石垣と土塁が竣工、翌年には城郭内に御殿が完成した。しかし、乗謨が老中格・陸軍総裁の公務に忙殺され、経済的・時間的余裕がなくなり石垣工事は簡略化されるなど、未完成部分も多いとされている。



 しかし、先に完成した石垣だけは立派なもので、特に砲台下の石組は「亀甲積み」と呼ばれる六角形に加工したものなのだが、残念ながら民家と雑木に囲まれていて、確認することはできなかった。

                     佐久市教育委員会のパンフレットより
 
 正門前には立派な案内所があり、展示や土産物を楽しむことが出きる。