その場考学のすすめ(11)
・その場で設計標準化
「その場でA4紙1枚」の少し高級な実例は、設計標準資料の作成だった。通常は そのことに専用の時間をつくり、専用のスタッフがこれを行うようだが、プロジェクトの進行中にそのような余裕は全くない。私のモットーの一つに「忙しい時に使える資料は、忙しい人がつくったものであり、暇な人が作った資料は、忙しい人には役に立たない」ということがある。従って、標準化もその場で行うことに決めた。
設計書でも、計算書でも これぞというものを指定して、A4紙1枚の表紙を追加する。それだけである。この表紙のフォーマットを念入りに工夫すればよい。目的、経緯、標準性の度合い、適用許容範囲などだが、A4紙1枚のスペースがあれば、十分に必要なことを全て書き込むことができる。どのような資料であるかは、あらかじめ番号体系を計画的に決めておけば、誰にでも番号を見ればすぐに分かってしまう。
余談になるが、私はこの方法で、ある開発プロジェクトの間に1000件の設計標準を作る目標値を定めた。1000という数字は、数年間で完成の目途が立つことと、一つの設計標準として自立して運用ができることの兼ね合いの数字のつもりであった。
実際にこの目論見は成功した。そして、思わぬ余録があった。それは、プロジェクトのしかも最も精神的な負担の重い設計技術者の中から、一人の精神障害者も作らなかったことだ。
過去に次の様な文章を書いたことがある。
・「部下をノイローゼにしない方法
本稿は蛇足である。20年以上前に書いたことなのだが、現在の設計技術者の危機的な様子を見て 敢えてこの蛇足を書くことにした。
ここ数年の設計技術者(私の場合、設計技術者とは、常に機能設計と工程(あるいは生産)設計の両者を指す)のてんてこ舞い振りは目に余る。一般にプロジェクトの数が増えたことと、増産、人数不足などが挙げられているが、ジェットエンジンの場合、これらが世間一般の製造業に比べて特に激しいものとは思えない。プロジェクトのゴールまでの期間を考えれば、むしろ変化が緩やかな部類と思う。
原因の大部分は世の中の変化に追随できないアジリティー不足で、その原因はITツールの使い方の間違えから来ていると思う。納期問題は調達のIT,品質問題はQCのIT,技術の伝承問題は形式知のITなどなど。
余談が先になったが、これも設計リーダーの考えの一つと思い敢えて記しておく。
てんてこ舞いの設計技術者の精神と肉体を健康に保つ方法。
時間の確保については、既に記した。ここでは業務の中身について記す。
一般的に、設計技術者の頭の回転は早い。通常はゆっくりでも、状況に応じていくらでも加速できる。要は、無理なく加速し、それを無理なく持続させる方法。
加速期間が長くなるとノイローゼの問題が出てくる。私は、20年間の設計リーダーの間に部下をこの状態にした覚えが無い。それは、ある一つのことを常に実行してきたためと信じている。それは何か。
それは、「どんなに忙しくても、1%の時間を標準化の為の作業に充てること」だった。そのメリットは沢山ある。
・1%という時間はチーム全体の時間管理としては無視できる時間である。
・標準化の為の作業の間は、目の前の重荷を忘れられる(気分転換)。
・標準化の為の作業は、自分の為ではなく他人の為(ボランティア心地)。
・標準化の為の作業をしていると、不思議と心に余裕が出来る(心の余裕つくり)。
・標準化の為の作業をしていると、予期せぬことに出会う(不安ではなく楽しみ)。
・標準化の為の作業は、簡単なわりには完成後の充実感がある(短時間でも充実感を得ることができる)。
などなど、いくらでも出てくる。
てんてこ舞いの設計技術者を抱える部門には、このことをお勧めする。私は、設計担当の課長時代の全期間に、この1%という数字を確保するための独自のデータ収集法を実行した。
ただし、このことは、私の一人合点かも知れない。しかし、お試しあれ。少なくとも害にはならないと思う。
二律背反。一石二鳥。
・蛇足の蛇足
標準化の資料は、「忙しいときに忙しい人が作るべき」ということ。忙しい人が、仕事のやり方を一番良く知っており、標準化をする資格がある。また、忙しいときに作ると、簡潔になるので、後で忙しい人が見るときにちょうど良い。暇な人が、暇なときに作った資料は、いざと言う時に役立たない。
だから「その場考学のすすめ」と云う訳である。
・哲学からの再出発(つづき)
M.ハイデッガー著、関口 浩訳「技術への問い」平凡社 [2009.9.16]
この書は書店では手に入らず、インターネットに頼った。書には、彼の科学・技術・芸術に関する5つの論文が纏められている。ハイデッガーの5つの論文の冒頭が「技術への問い」であった。
この講演は,1953年11月18日にミュンヘン工科大学での連続講演のひとつとして行われたが、内容が難解だったのもかかわらずに、終了後には「満場の人々から嵐のような歓呼の声があがった」と記録されている。
この時代、即ち第2次世界大戦の恐怖から解放された欧州では、技術の本質に関する議論が盛んに行われたようである。
アインシュタインの相対性理論により、質量が膨大なエネルギーに変換可能なことが理論づけされ、彼が反対したにもかかわらず、米国では、ヒットラーに先を越されるかもしれないという、政治的な説得に応じて原子爆弾を作ることにより、実証までをしてしまった。ハイデッガーはその事実に直面して(彼は、一時期ナチスの協力者であった)哲学者として技術の本質を知ろうと努力をしたのかもしれない。「技術への問い」という題名は、暗にこのことを示しているようにも読み取れる。
この時代の同様な著書が、訳者後記に記されている。「歴史の起源と目標」カール・ヤスバース(1949)、「第3あるいは第4の人間」アルフレート・ウエーバー(1953)、「技術の完璧さ」フリードリッヒ・ユンガー(1953)などがそれぞれの見方で技術の本質を究めようとしたとある。
翻って、現代は大きな原発事故と地球規模の環境汚染を目の当たりにして、再び技術の本質を問い直す時期に来たように思われる。
ハイデッガーの見た本質は「現代技術の本質は、集―立にある」と訳されている。「集」とは、例えばウラン鉱床からウランを抽出し、それを必要とする場所に必要とする量を集めると云うことなのだ。このことは全てのものつくりに共通する基礎になる。
「立」とは、集められたものを、何かの役に立つ形状に加工をして製品化し、更に実際に使用することを指す。これが現実の技術なのだが、しかし技術の本質ではない、と彼は断言をしている。ここからが、メタエンジニアリングとの関係を彷彿とされる議論が始まるのだ。
彼の表現によれば、「技術は人間の知りたいという本能の自然の現れ」と考えているように思う。それは、次の表現で表されている。
『不伏蔵性の内部で現前するものを人間が自分なりのしかたで開蔵する場合、彼はただ不伏蔵性の語りかけに応答しているだけなのである。』(pp.30)がその部分だ。
また、『技術は開蔵のひとつのしかたである。技術がその本質を発揮するところとは、開蔵と不伏蔵性とが、すなわちアレーティアが、すなわち真理が生起する領域なのである。』(pp.22)
「アレーティア」とはギリシャ語で『神の真理』、「レーティア」は『秘匿性』を意味する言葉で、任天堂のDS用ゲームソフトの名称にも使われている。「ア」は、否定を表す前置詞で、アレーティアはレーティアの否定形になっている。
アレーティア(http://tekiro.main.jp/soma/w-jisyo_a.htmより)
『太古の時代に異界から来訪した邪神”という伝承はねつ造であり、本来はクレモナ文明が絶頂を極めた時代より約千年前に、外世界からトルヴェールを訪れた総体意思生命体の総称である。
肉体を持たない精神だけの存在で、基本的に“個”という定義を持たない。肉体を持たないが故に、地上では人間達の手を借り、見返りに知識と技術を与えていた。その結果、人間の文明レベルは急速な進歩を遂げ、アレーティア来訪から約千年の間に渡り、文明は発展と繁栄を続けた。しかし、長い時を経て知恵をつけた人間達は、アレーティアから生命力ともいえるエネルギー、ソーマを抽出する術を見いだし、それを独占しようと画策しはじめる。
この頃から、アレーティアの持つ絶対的な力を恐れる、反アレーティアの勢力が台頭し始め、やがてそれは世界全体を動かす大きな流れとなった。そして、彼らのその禍々しき策謀により、アレーティアは全ての力を奪われ、意識のみの存在へと変えられてしまうのである。アレーティアの怒りを怖れた人間達は、アレーティアの技の一つであった、地上全域のソーマ安定装置として建造されたリングタワーを利用し、惑星外にアレーティアの意識を追放した。さらに二度と戻れぬよう、リングから生じる青い障壁によって防御策を施すが、それは完全なものにはならなかった。
障壁にわずかな綻びが産まれ、その綻びを通過したアレーティアの意識の一部は変異し、人間達を恐怖に陥れるビジターとして地上へと降り立つこととなった。』
ここで云う真理とは、自然科学が解き明かしたすべての事柄を意味する。つまり、相対性理論の様なものを指す。その真理を現実に立たせるものが技術と云うものだと解釈できる。そしてそのことをギリシャ神話の一つに当てはめたのではないであろうか。それにより、技術の不可解さ、恐ろしさ、将来性までを云い当てようとしたかに見えてくる。同時に、エンジニアリングの根本がこの様な解釈をされることに、メタエンジニアリングの考え方からは共感を覚えてしまう。
つまり、相対性理論という真実が存在しても、それは伏蔵性のなかに隠されているのであって、それを人間が自分なりのしかたで開蔵すること、即ち必要な材料を集め、貯蔵し、必要な製品に加工し、使用できる状態(この場合は、爆撃機や弾道ミサイルなどに搭載すること)を作り出すことの全てが技術というものと解釈される。
『ウランは破壊あるいは平和利用のために放出されうる原子エネルギーのために調達されるのである。』(pp.24)
この様に解釈をすると、技術は人類の為にあると云うことが現れて来ない。良くも悪くも勝手に創造に走ってしまう、と捉えられる。つまり、技術は人類を破滅の方向に向かって加速させるためのものとも考えることもできる。
このことは、見えていないものを追求し、あらゆる知恵と手段でそれを具現化するメタエンジニアリングの考え方に共通するのだが、やはり技術には、社会科学・人文科学・哲学などが常に加わらなければならないと云うことが明らかとなってくる。
いずれにせよ、すべてはその時、その場の判断によることになる。
「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (終章)」
【Lesson13】リベラルアーツは常に重要
ここ数年,大学教育を中心にリベラルアーツ教育の重要性が注目されて始めている。ジェットエンジンはコモディティー品ではないので,個人生活とは関係がないと思われがちだが,実は環境問題や信頼性・安全性などで大きな関わりがある。エンジンに起因する事故を想定すれば,より明白に理解できると思う。
設計時に用いられるのは自然科学の知識が主と思われがちであるが,実は人文・社会科学や哲学的な思考がより重要である。重力という自然の基本的な原理に逆らって,半世紀近くも絶対安全性を確保し続けることは,その間に起こる可能性のある潜在的な要因をすべて配慮する必要がある。直ちに人命にかかわることであるので,想定外という言葉は通用しない。
国際共同開発では,業務外の付き合いも長時間多岐にわたる。お互いの歴史や文化(特に伝統文化で現在まで続いているもの),さらには政治的な考え方も理解しなければならない。英国での共同開発の作業中にフォークランド戦争や湾岸戦争が勃発した。サッチャー政権が誕生し,終焉を迎えた時も会食での大きな話題になった。リベラルアーツ面での深い相互理解がなければ,何回も訪れる危機を無事脱することはできない。
【この教訓の背景】
日本の技術力は、海外では自分たちが思っているほどには評価されていないということを、自覚しなければならない。ことが、ある程度細部にまで入り込むと、むしろその技術力には感心されることが多いのだが、全体的な観点(すなわち戦略)が必要な場面では、例えば、中国にも後れを取るという場面は、最近の世界情勢の中でも、珍しいことではない。
これは、一にかかって、「日本の技術者のリベラルアーツ面での教養が足りない」ことが原因だと断定してもよいと思う。英米の技術系の大学でも大学院でもリベラルアーツ教育は必修科目になっている。一方で、わが国では入学時のオリエンテーリング感覚で形式的に行われるのみで、専門学科との連携が見受けられない。専門学科と教養学科は、始めから終わりまで並行に行わなければ、世界に太刀打ちできる技術者は、育つわけがないであろう。
結言
福島第1原発事故や笹子トンネルの天井板崩落事故などを知ると,常にエンジンの設計が蘇る。前者では想定外という言葉,後者ではメインテナンス不良という言葉は,ジェットエンジンの設計では最も重要視されて配慮が払われる観点である。
新エンジンの設計と開発には,計画段階を入れるとほぼ十年を要する。その間に必要とされる知識は,大学での教養学部と工学部のすべての科目にわたっていた,というのが実感である。FJR710(当時、通産省の大型プロジェクトで、最終的には短距離離着陸機を飛ばした)の成功から半世紀が過ぎようとしているが,当初の日の丸エンジンが世界の空を飛ぶ夢(本来の目的)は果たされていない。
その経緯を示す意味で,実体験から得られた13の教訓の概略とその背景を述べた。すべては部分的な勝ちであり,全体的な勝利にはほど遠いものであったと反省をしている。最終目的に対する確固たる戦略の共有が明らかに足りなかったためであろう。確固たる独自の戦略の確立と、最終目的を忘れずに、手段の目的化をしないことが、グローバル社会では最も重要だと思う。
・その場で設計標準化
「その場でA4紙1枚」の少し高級な実例は、設計標準資料の作成だった。通常は そのことに専用の時間をつくり、専用のスタッフがこれを行うようだが、プロジェクトの進行中にそのような余裕は全くない。私のモットーの一つに「忙しい時に使える資料は、忙しい人がつくったものであり、暇な人が作った資料は、忙しい人には役に立たない」ということがある。従って、標準化もその場で行うことに決めた。
設計書でも、計算書でも これぞというものを指定して、A4紙1枚の表紙を追加する。それだけである。この表紙のフォーマットを念入りに工夫すればよい。目的、経緯、標準性の度合い、適用許容範囲などだが、A4紙1枚のスペースがあれば、十分に必要なことを全て書き込むことができる。どのような資料であるかは、あらかじめ番号体系を計画的に決めておけば、誰にでも番号を見ればすぐに分かってしまう。
余談になるが、私はこの方法で、ある開発プロジェクトの間に1000件の設計標準を作る目標値を定めた。1000という数字は、数年間で完成の目途が立つことと、一つの設計標準として自立して運用ができることの兼ね合いの数字のつもりであった。
実際にこの目論見は成功した。そして、思わぬ余録があった。それは、プロジェクトのしかも最も精神的な負担の重い設計技術者の中から、一人の精神障害者も作らなかったことだ。
過去に次の様な文章を書いたことがある。
・「部下をノイローゼにしない方法
本稿は蛇足である。20年以上前に書いたことなのだが、現在の設計技術者の危機的な様子を見て 敢えてこの蛇足を書くことにした。
ここ数年の設計技術者(私の場合、設計技術者とは、常に機能設計と工程(あるいは生産)設計の両者を指す)のてんてこ舞い振りは目に余る。一般にプロジェクトの数が増えたことと、増産、人数不足などが挙げられているが、ジェットエンジンの場合、これらが世間一般の製造業に比べて特に激しいものとは思えない。プロジェクトのゴールまでの期間を考えれば、むしろ変化が緩やかな部類と思う。
原因の大部分は世の中の変化に追随できないアジリティー不足で、その原因はITツールの使い方の間違えから来ていると思う。納期問題は調達のIT,品質問題はQCのIT,技術の伝承問題は形式知のITなどなど。
余談が先になったが、これも設計リーダーの考えの一つと思い敢えて記しておく。
てんてこ舞いの設計技術者の精神と肉体を健康に保つ方法。
時間の確保については、既に記した。ここでは業務の中身について記す。
一般的に、設計技術者の頭の回転は早い。通常はゆっくりでも、状況に応じていくらでも加速できる。要は、無理なく加速し、それを無理なく持続させる方法。
加速期間が長くなるとノイローゼの問題が出てくる。私は、20年間の設計リーダーの間に部下をこの状態にした覚えが無い。それは、ある一つのことを常に実行してきたためと信じている。それは何か。
それは、「どんなに忙しくても、1%の時間を標準化の為の作業に充てること」だった。そのメリットは沢山ある。
・1%という時間はチーム全体の時間管理としては無視できる時間である。
・標準化の為の作業の間は、目の前の重荷を忘れられる(気分転換)。
・標準化の為の作業は、自分の為ではなく他人の為(ボランティア心地)。
・標準化の為の作業をしていると、不思議と心に余裕が出来る(心の余裕つくり)。
・標準化の為の作業をしていると、予期せぬことに出会う(不安ではなく楽しみ)。
・標準化の為の作業は、簡単なわりには完成後の充実感がある(短時間でも充実感を得ることができる)。
などなど、いくらでも出てくる。
てんてこ舞いの設計技術者を抱える部門には、このことをお勧めする。私は、設計担当の課長時代の全期間に、この1%という数字を確保するための独自のデータ収集法を実行した。
ただし、このことは、私の一人合点かも知れない。しかし、お試しあれ。少なくとも害にはならないと思う。
二律背反。一石二鳥。
・蛇足の蛇足
標準化の資料は、「忙しいときに忙しい人が作るべき」ということ。忙しい人が、仕事のやり方を一番良く知っており、標準化をする資格がある。また、忙しいときに作ると、簡潔になるので、後で忙しい人が見るときにちょうど良い。暇な人が、暇なときに作った資料は、いざと言う時に役立たない。
だから「その場考学のすすめ」と云う訳である。
・哲学からの再出発(つづき)
M.ハイデッガー著、関口 浩訳「技術への問い」平凡社 [2009.9.16]
この書は書店では手に入らず、インターネットに頼った。書には、彼の科学・技術・芸術に関する5つの論文が纏められている。ハイデッガーの5つの論文の冒頭が「技術への問い」であった。
この講演は,1953年11月18日にミュンヘン工科大学での連続講演のひとつとして行われたが、内容が難解だったのもかかわらずに、終了後には「満場の人々から嵐のような歓呼の声があがった」と記録されている。
この時代、即ち第2次世界大戦の恐怖から解放された欧州では、技術の本質に関する議論が盛んに行われたようである。
アインシュタインの相対性理論により、質量が膨大なエネルギーに変換可能なことが理論づけされ、彼が反対したにもかかわらず、米国では、ヒットラーに先を越されるかもしれないという、政治的な説得に応じて原子爆弾を作ることにより、実証までをしてしまった。ハイデッガーはその事実に直面して(彼は、一時期ナチスの協力者であった)哲学者として技術の本質を知ろうと努力をしたのかもしれない。「技術への問い」という題名は、暗にこのことを示しているようにも読み取れる。
この時代の同様な著書が、訳者後記に記されている。「歴史の起源と目標」カール・ヤスバース(1949)、「第3あるいは第4の人間」アルフレート・ウエーバー(1953)、「技術の完璧さ」フリードリッヒ・ユンガー(1953)などがそれぞれの見方で技術の本質を究めようとしたとある。
翻って、現代は大きな原発事故と地球規模の環境汚染を目の当たりにして、再び技術の本質を問い直す時期に来たように思われる。
ハイデッガーの見た本質は「現代技術の本質は、集―立にある」と訳されている。「集」とは、例えばウラン鉱床からウランを抽出し、それを必要とする場所に必要とする量を集めると云うことなのだ。このことは全てのものつくりに共通する基礎になる。
「立」とは、集められたものを、何かの役に立つ形状に加工をして製品化し、更に実際に使用することを指す。これが現実の技術なのだが、しかし技術の本質ではない、と彼は断言をしている。ここからが、メタエンジニアリングとの関係を彷彿とされる議論が始まるのだ。
彼の表現によれば、「技術は人間の知りたいという本能の自然の現れ」と考えているように思う。それは、次の表現で表されている。
『不伏蔵性の内部で現前するものを人間が自分なりのしかたで開蔵する場合、彼はただ不伏蔵性の語りかけに応答しているだけなのである。』(pp.30)がその部分だ。
また、『技術は開蔵のひとつのしかたである。技術がその本質を発揮するところとは、開蔵と不伏蔵性とが、すなわちアレーティアが、すなわち真理が生起する領域なのである。』(pp.22)
「アレーティア」とはギリシャ語で『神の真理』、「レーティア」は『秘匿性』を意味する言葉で、任天堂のDS用ゲームソフトの名称にも使われている。「ア」は、否定を表す前置詞で、アレーティアはレーティアの否定形になっている。
アレーティア(http://tekiro.main.jp/soma/w-jisyo_a.htmより)
『太古の時代に異界から来訪した邪神”という伝承はねつ造であり、本来はクレモナ文明が絶頂を極めた時代より約千年前に、外世界からトルヴェールを訪れた総体意思生命体の総称である。
肉体を持たない精神だけの存在で、基本的に“個”という定義を持たない。肉体を持たないが故に、地上では人間達の手を借り、見返りに知識と技術を与えていた。その結果、人間の文明レベルは急速な進歩を遂げ、アレーティア来訪から約千年の間に渡り、文明は発展と繁栄を続けた。しかし、長い時を経て知恵をつけた人間達は、アレーティアから生命力ともいえるエネルギー、ソーマを抽出する術を見いだし、それを独占しようと画策しはじめる。
この頃から、アレーティアの持つ絶対的な力を恐れる、反アレーティアの勢力が台頭し始め、やがてそれは世界全体を動かす大きな流れとなった。そして、彼らのその禍々しき策謀により、アレーティアは全ての力を奪われ、意識のみの存在へと変えられてしまうのである。アレーティアの怒りを怖れた人間達は、アレーティアの技の一つであった、地上全域のソーマ安定装置として建造されたリングタワーを利用し、惑星外にアレーティアの意識を追放した。さらに二度と戻れぬよう、リングから生じる青い障壁によって防御策を施すが、それは完全なものにはならなかった。
障壁にわずかな綻びが産まれ、その綻びを通過したアレーティアの意識の一部は変異し、人間達を恐怖に陥れるビジターとして地上へと降り立つこととなった。』
ここで云う真理とは、自然科学が解き明かしたすべての事柄を意味する。つまり、相対性理論の様なものを指す。その真理を現実に立たせるものが技術と云うものだと解釈できる。そしてそのことをギリシャ神話の一つに当てはめたのではないであろうか。それにより、技術の不可解さ、恐ろしさ、将来性までを云い当てようとしたかに見えてくる。同時に、エンジニアリングの根本がこの様な解釈をされることに、メタエンジニアリングの考え方からは共感を覚えてしまう。
つまり、相対性理論という真実が存在しても、それは伏蔵性のなかに隠されているのであって、それを人間が自分なりのしかたで開蔵すること、即ち必要な材料を集め、貯蔵し、必要な製品に加工し、使用できる状態(この場合は、爆撃機や弾道ミサイルなどに搭載すること)を作り出すことの全てが技術というものと解釈される。
『ウランは破壊あるいは平和利用のために放出されうる原子エネルギーのために調達されるのである。』(pp.24)
この様に解釈をすると、技術は人類の為にあると云うことが現れて来ない。良くも悪くも勝手に創造に走ってしまう、と捉えられる。つまり、技術は人類を破滅の方向に向かって加速させるためのものとも考えることもできる。
このことは、見えていないものを追求し、あらゆる知恵と手段でそれを具現化するメタエンジニアリングの考え方に共通するのだが、やはり技術には、社会科学・人文科学・哲学などが常に加わらなければならないと云うことが明らかとなってくる。
いずれにせよ、すべてはその時、その場の判断によることになる。
「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (終章)」
【Lesson13】リベラルアーツは常に重要
ここ数年,大学教育を中心にリベラルアーツ教育の重要性が注目されて始めている。ジェットエンジンはコモディティー品ではないので,個人生活とは関係がないと思われがちだが,実は環境問題や信頼性・安全性などで大きな関わりがある。エンジンに起因する事故を想定すれば,より明白に理解できると思う。
設計時に用いられるのは自然科学の知識が主と思われがちであるが,実は人文・社会科学や哲学的な思考がより重要である。重力という自然の基本的な原理に逆らって,半世紀近くも絶対安全性を確保し続けることは,その間に起こる可能性のある潜在的な要因をすべて配慮する必要がある。直ちに人命にかかわることであるので,想定外という言葉は通用しない。
国際共同開発では,業務外の付き合いも長時間多岐にわたる。お互いの歴史や文化(特に伝統文化で現在まで続いているもの),さらには政治的な考え方も理解しなければならない。英国での共同開発の作業中にフォークランド戦争や湾岸戦争が勃発した。サッチャー政権が誕生し,終焉を迎えた時も会食での大きな話題になった。リベラルアーツ面での深い相互理解がなければ,何回も訪れる危機を無事脱することはできない。
【この教訓の背景】
日本の技術力は、海外では自分たちが思っているほどには評価されていないということを、自覚しなければならない。ことが、ある程度細部にまで入り込むと、むしろその技術力には感心されることが多いのだが、全体的な観点(すなわち戦略)が必要な場面では、例えば、中国にも後れを取るという場面は、最近の世界情勢の中でも、珍しいことではない。
これは、一にかかって、「日本の技術者のリベラルアーツ面での教養が足りない」ことが原因だと断定してもよいと思う。英米の技術系の大学でも大学院でもリベラルアーツ教育は必修科目になっている。一方で、わが国では入学時のオリエンテーリング感覚で形式的に行われるのみで、専門学科との連携が見受けられない。専門学科と教養学科は、始めから終わりまで並行に行わなければ、世界に太刀打ちできる技術者は、育つわけがないであろう。
結言
福島第1原発事故や笹子トンネルの天井板崩落事故などを知ると,常にエンジンの設計が蘇る。前者では想定外という言葉,後者ではメインテナンス不良という言葉は,ジェットエンジンの設計では最も重要視されて配慮が払われる観点である。
新エンジンの設計と開発には,計画段階を入れるとほぼ十年を要する。その間に必要とされる知識は,大学での教養学部と工学部のすべての科目にわたっていた,というのが実感である。FJR710(当時、通産省の大型プロジェクトで、最終的には短距離離着陸機を飛ばした)の成功から半世紀が過ぎようとしているが,当初の日の丸エンジンが世界の空を飛ぶ夢(本来の目的)は果たされていない。
その経緯を示す意味で,実体験から得られた13の教訓の概略とその背景を述べた。すべては部分的な勝ちであり,全体的な勝利にはほど遠いものであったと反省をしている。最終目的に対する確固たる戦略の共有が明らかに足りなかったためであろう。確固たる独自の戦略の確立と、最終目的を忘れずに、手段の目的化をしないことが、グローバル社会では最も重要だと思う。
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