生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(21) 古代の天皇陵

2017年03月31日 08時23分06秒 | その場考学との徘徊
題名今城塚古墳 場所;大阪府 年月日;H29.3.22

テーマ;古代の天皇陵

 大津の琵琶湖湖畔に建つ琵琶湖プリンスホテルの18階で朝を迎えた。朝日に輝く湖面が美しかった。この景色は、古代も今も変わりがないのだろう。




大津から京都を経て大阪に向かう東海道線の途中に摂津富田という駅がある。そこに今日の一番目の訪問地がある。

「いましろ 大王の杜」がそれで、具体的には、今城塚古代歴史館と史跡今城塚古墳だ。今城塚古墳は、学説では真の継体陵とされているそうだ。しかし、宮内庁の比定は近くにある太田茶臼山古墳となっているので、ここは自由に出入りができる公園になっている。当日は、常設展のほかに、この第26代継体天皇の陵に治定されている三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)の特別展ももようされており、絶好の機会だった。



Wikipediaには次の記述があった。
『この太田茶臼山古墳は、出土埴輪から古墳時代中期の5世紀中頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、前述のように現在は宮内庁により第26代継体天皇の陵に治定されている。ただし、築造年代は継体天皇の没年(継体天皇25年〔531年?〕)に合わず、所在地も史書の記述と食い違うことから、現在では真の継体陵については今城塚古墳(高槻市郡家新町)とする説が有力視される。』




お目当ては、古墳のわきに並べられている実物大の膨大な埴輪なのだが、入場してすぐに、今城塚古代歴史館のすばらしさに圧倒されてしまった。あわてて二つの展示の小冊子を買ってにわか勉強をしながらの見学になった。




先ずは特別展から。三島と呼ばれるこの地は、淀川に向かって幾筋もの川があり、弥生時代からの遺跡が散在していた。

幾筋もの曲がれのある南面した台地は、八ヶ岳南麓に似ている。小冊子の記述にはこのようにある。
『芥川と安威川に挟まれた東西約3km、南北約2.5kmの富田台地にはいくつもの灌漑用水路がひかれ、稔り豊かな土地柄として格段に発展していった。開発の端緒を拓いた集団は台地の東北部に盤居していた、のちに三島県主一族として一括りされる地元の豪族である。』



この用水路の一つは、「三島大溝」と名付けられて、今も健在する。さらに、名神高速道路の工事中に見つかった「埴輪道」により、全行程900メートルの埴輪の運搬路が確定されて、「新地埴輪窯跡」の研究が進んだようだ。二つの巨大前方後円墳の埴輪は、ここで作られたと証明がされている。
面白いのは、2kmも離れていない二つの古墳の方向だ。大体150°くらいずれている。近くには、中臣鎌足の墓と推定されている古墳もある。興味深い地域だった。



天皇陵からの発掘物は、宮内庁と大阪府が過去に行ったもので、平凡な埴輪が多く、むしろ説明文に興味をひかれた。それは、地元のボランティアの女性の説明が見事だったせいもある。どのパネルの説明も懇切丁寧で分かりやすかった。

帰宅して、改めて冊子を読むと「三島と初期ヤマト王権」、「新池の埴輪作り」、「倭の五王と三島」、「古墳時代の終焉」など当時の一連の歴史が、それぞれ数ページにわたって豊かな写真付きで纏められている。書店で求められる一般の歴史書よりは、はるかに面白かった。






歴史館の建物を出ると、目の前に前方公園古墳の側面が広がっている。目の高さが埴輪列と同じなので、全体を見渡すことができる。それにしても、長い埴輪列が、側面のほんの一部なのだから、古墳の大きさには圧倒された。柵に囲まれた奈良の天皇陵を眺めるのとは大違いだった。




長さ65メートルの形象埴輪の列は、塀で4区画に仕切られており、明らかに古代の祭祀を表している。関東地方の同じような埴輪群は、高崎市の保渡田古墳のもので、確か榛名山の噴火により、ポンペイと同じように火山灰に埋まり、当時の配列が保たれていると聞いた。しかし、王様が幾人もいたりして、全体のストーリー性は不明のようだ。一方で、こちらには4区画の詳しい説明がなされており、前後の区画の説明は、以下の通りだ。






『4区 南側に白鳥の列や牛・馬の列、北側には武人や鷹飼人が並べられ、東側の塀の近くには、門をまもるかのように盾や力士が配置されています。』とある。

東側は、3区に繋がる門があり、そこを盾や力士が守っているというのは面白い。
最後部の1区の説明文は、『東端に位置し、南側に器台と蓋の列、片流れの家が、また北側には魚と鳥の絵のある祭殿風の家と鶏が配置されています。亡き大王が安置されている空間を暗示し、2区との間の塀には門がありました。』とある。


「片流れの家」はもがりに使われたとの説明もあった。



前方部の端まで歩いて、バス停に向かった。後円部ははるか先で見ることはできなかった。



JR摂津富田駅間との循環バス停留所



一時間とちょっとの短い滞在だったが、十分に楽しみ、かつ勉強をすることができた。


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