生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(192)「ニュートンの海」

2021年11月05日 09時49分04秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(192)
TITLE: 「ニュートンの海」KMB3417

書籍名;「ニュートンの海」(2005) H17.8.25
著者;ジェイムズ・グリック  発行所;NHK出版

初回作成年月日;H30.1.3 最終改定日;R3.11.4

このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

 有名な「カオス」の著者ジェイムズ・グリックが、変人と言われたサー・アイザック・ニュートンの素顔を描いた著書。「序説」は、次の言葉で始まる。



 『ニュートンは言った。巨人の肩の上に立ったからこそ、私にはますます遠くが見えたのだと。 とは言ったものの、本当にそう信じていたわけではない。彼が生を受けたのは暗黒と魔術と混迷の支配する世界。親しい親も恋人も友だちもなく、その異様に純粋で何かに憑かれたような生涯を通じ、袖振り合った偉人とは辛練な論を闘わせ、自らの研究はひた隠し、少なくとも一度は狂気すれすれの境をさまよってさえいる。それでもなお基本的な人知の核となるものを、これほど多く発見してのけた者は、あとにも先にも彼をおいてほかにない。ニュートンこそは現代世界設計の主人公なのだ。光と運動という古くからの哲学的謎解き、事実上重力を発見したのも彼である。ニュートンはさらに天体の運行を予測する方法を示し、それによって私たち人間の大宇宙に占める位置をも定めた。彼のおかげで知識は、いまや測ることのできる正確な、実質をもつ存在になったのだ。なかんずく彼はさまざまな原理を確立した。それらはニュートンの法則と呼ばれている。
孤独は彼の天才の本質をなすものと言えよう。彼はまだ若いころ、すでに人類の知りうる数学の大部分を吸収し、あるいは再発見して微積分を発明してのけた。微積分は現代の世界が、変化と流れを理解する手段である。』(p.15)


 『だが彼はこの発明を自分だけの宝として、人知れず秘めていた。 そして働き盛りの時代を通じ、かたくなに孤独を守って没頭したのは、錬金術という極秘の科学である。人目にさらすことを嫌い、批判や論争を恐れるあまり、彼は研究の結果をほとんど世に 出そうとしなかった。暗号のように隠れている複雑な字宙の謎を解こうと励むうち、自らもそれ にならって、極秘を守りとおしたようなものだ。のちには「サー・アイザック」、造幣局長官、さらに王立協会長として名を馳せ、硬貨にはその顔までが刻まれて、彼の発見が詩に讃えられるほ どの国の重要人物となってからでさえ、彼はほかの学者と決して親交を結ぶことなく、孤独に徹した。』(pp.16)

 一般に、科学の世界でも技術の世界でも、突出した専門性から発するものが評価される。そのことは、当然のことで人類の進歩には欠かせないものなのだが、大きな問題が潜んでいる。つまり、行き着く先が決して全体最適にはならないということだ。冒頭の、『ニュートンは言った。巨人の肩の上に立ったからこそ、私にはますます遠くが見えたのだと。』は、多くの専門分野に通じたヒトが、「巨人の方の上に立つ」ことによって、「さまざまな原理を確立」が可能になったのではないだろうか。

 この書には、多くのことが逸話風に書かれている。そのいくつかを取り上げてみる。

 大学2年生の時に、アリストテレスに没頭した。そのことをノートに書き綴った。しかし、途中から「哲学的な若干の疑問」として、アリストテレスの「プラトンはわが友なれど、真実こそはそれより大いなるともなり」をもじって、「プラトンもわが友、アリストテレスもわが友なれど、真実こそはそれより大いなるともなり」と記した。(pp.46-47)

当時の英国の王立協会は「情報の流通」を目的としていた。ニュートンの論文は、当初は友人の手で登録されたが、終に会員になり、直ぐに協会長になった。しかし、『当時科学は個別の分野あるいは活動としての存在はしていなかった。』(p.106)
つまり、『すべての部分に目を配って、地上津々浦々から情報を受け取り、常時普遍的知識を有するべきである。発見はすべて彼らに伝えられ、既存の宝は、すべて彼らの前に開陳されるべきである。』(p.107)
現代の科学者や技術者に同じことを求めるのは、難しいのだが、しかし、そのような態度を続けることは出来るはずであり、そうすべきと思う。

 総ての天体の運動が、万有引力、つまり重力によって支配されているというニュートンの説は、長い間全く受け入れられなかった。ハーレイ、ケプラー、デカルトの所説と対立するからである。そこでニュートンがとった態度は、『つまるところ重力は機械論的なものでもなく、超自然的なものでもなく、仮説でもないのである。なぜなら彼がそれを数学的に証明したからだ。』(p.197)
その後、ライプニッツ他少数の科学者との書簡のやり取りが、その内容と共に紹介された後に、突然スイフトのガリヴァー旅行記の引用になる。

 突然だが、Yahooに関するWikipediaには、こんな記述がある。
『Yahoo!の名前の由来は英語の「Yet Another Hierarchical Officious Oracle」(さらにもうひとつの階層的でお節介な神託)の略だといわれている。また、ファイロとヤンは自分たちのことを「ならずもの」だと考えているので、「粗野な人」という意味がある「Yahoo」(『ガリヴァー旅行記』に登場する野獣の名前が由来)という言葉を選んだと主張している。さらに感嘆符がついていることに関しては「ヤッホー!」「やったー!」を意味する英語の感動詞「yahoo」とかけているとも考えられる。』

 その旅行記の途中の魔法使いの島では、アリストテレスの亡霊が、自分の間違えを認めて、デカルトの緒論も『はじけて消える』(pp.244-245)と発言する。さらに、引力についても『数学の原理で立証できるかのようにふるまう連中ですら、活躍するのはほんの束の間(省略)』(p.245)とまで発言する。
当時は、人間の宇宙観が、『人が寿命を全うしないうちに、もう新説が旧説を追い出すありさまだったのだ。』(p245)

 「訳者あとがき」には、次のことが書かれている。(訳者は大貫昌子)
『哲学と科学、(中略)ニュートンの時代にはほとんど同義語だった。(中略)ニュートンが、哲学と科学の分水嶺に立つ人、いやむしろ哲学から科学を育て切り離した人だということなのだ。』(p.269)

 さらに、『リンゴと月という、大きさといい遠さといい気が遠くなるほど異なる二つの球体を、幾何学的に重ね合わせることのできた知力が、どのように人間ニュートンの意識の中に育っていったのか、孤独な少年時代から「プリンピキア」にいたる彼の幾何学的直観の生長を追うこの本は、(以下略)』(p.270)とある。

 彼は一時期、古代の様々な複雑な幾何学的解析を、体系化しようと試みた時期があったとも記されていた(p.212)
ニュートンは、結果ら言えばメタ数学者だが、彼の一生を通じた著書から見えた姿は、錬金術などに拘るメタエンジニアだと私には思える。







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