メタエンジニアの眼 198
TITLE:メタ世界史論
初回作成年月日;2021.11.30 最終改定日;
岩波講座という名の全集は色々あるが、その中で「世界歴史」は過去3回発行されている。第1回目は1969年に始まり、3年間かけて完結した。ここで取り上げたのは、第2回目の第7回配本となっている、岩波講座 世界歴史1(1998)弘文堂、である。
この岩波講座は、最近3回目の配本が始まった。この3つを比べるのは、面白そうだが、それは膨大過ぎて手を出す気にはならない。岩波書店に知り合いがいれば、聞いてみたい。
私がこの巻を選んだのは、せめてその概略でも掴もうと思ったからで、この巻の副題の「世界史へのアプローチ」でも比較しようと考えたからであった。日本の学問分野で、硬直性の筆頭が「歴史学」だと感じている。特に日本史は、大御所の過去の発言が絶対で、素人の歴史研究家の説は絶対に認められないことは有名な話だ。メタ的に考えると、それはとんでもないことなのだ。
この巻の冒頭には、「本講座の編集方針と構成」とあり、ここに注目をする。しかし、私のメタ指向には、挟んである「栞」の村上陽一郎の文章が引っかかった。彼は、科学史の分野で色々な発言をしている。
表題は「歴史の多元性」で、たった2頁の短文なのだが、そこにメタを感じた。彼の主張は、『「世界史」といっても結局は「西洋史」である』で始まる。その一つの根拠として、「古代、中世、近代」の時代区分を挙げている。古代が終わったのは、西ローマ帝国の終焉、近代の始まりは、デカルトやニュートンの科学時代からというわけで、このことは素人の私でも分かる。彼は、この区分を『硬直した歴史感が長くはびこってきた』と主張する。
彼は、「学芸」の立場でこのことを考える。学芸とは、学問と芸術なので、人類の歴史にとっては、誰が支配者で、どちらの国が戦争に勝ったか、などよりはよほど重要に思う。そうすると、プラトンやアリストテレスの古代史は、東ローマ帝国に引き継がれ、さらにイスラムで開花する。つまり、西ローマ帝国の終焉とは関係がない。
また、「近代」は、中世ヨーロッパを支配したキリスト教の教義から学芸が離れて、独立した時期と考えると、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンは未だ近代とはいえなくなる。彼らは、キリスト教の教義から独立していたとは言い切れない面がある。科学が、完全にキリスト教の教義から独立した時に、近代は始まる。
最後には、『歴史は歴史家の数だけある。ということは、誰でも原理的には認めている。ところが、いざ「セカイシ」となると、そんな「原理」はどこかへ消し飛んでしまって、絶対に正しい歴史が一つある、と云わんばかりに、・・・。』で結んでいる。
つまり、世界史をメタ的に捉えると、古代・中世・近代の時代区分が大きく変化する。勿論、これが定説になることは、歴史学のなかではありえないのだが、私はこちらの時代区分を支持したい。
本題の、この巻の冒頭「本講座の編集方針と構成」にもどる。
先ずは、「基本的な理念」として3つのことを挙げている。第1は「個別性と共時性」である。個々の文明圏が持つ個別性と、多数の個別史の間の相関関係の模索の双方を追求すること。
第2は「細部と構造」とあり、歴史学も他の学問同様に「モノグラフ(個別論文)」により研究者の評価が行われてきた。つまり、細部の探求である。『しかし、無数の断片をつなぎとめるための努力として、歴史の中に、一定の構造や展開の過程を把握する可能性や課題を、はっきりと意識することは必要』としている。
第3は、「日本からの世界史」として、従来の世界史は、日本を除外した「外国史」だったが、日本を含めた「世界」をえがくこと、としている。
その結果、全体28巻は、通常のスタイルのA系列に加えて、『時代をこえてもつ世界史的意味を考えようとする』として、その例を第5巻の「帝国と支配」を挙げている。
さて、このような「世界史へのアプローチ」が、今回始まった3回目の講座では、どのように変わってゆくのか、第1巻は同じ表題が付けられているようなので楽しみになってきた。
TITLE:メタ世界史論
初回作成年月日;2021.11.30 最終改定日;
岩波講座という名の全集は色々あるが、その中で「世界歴史」は過去3回発行されている。第1回目は1969年に始まり、3年間かけて完結した。ここで取り上げたのは、第2回目の第7回配本となっている、岩波講座 世界歴史1(1998)弘文堂、である。
この岩波講座は、最近3回目の配本が始まった。この3つを比べるのは、面白そうだが、それは膨大過ぎて手を出す気にはならない。岩波書店に知り合いがいれば、聞いてみたい。
私がこの巻を選んだのは、せめてその概略でも掴もうと思ったからで、この巻の副題の「世界史へのアプローチ」でも比較しようと考えたからであった。日本の学問分野で、硬直性の筆頭が「歴史学」だと感じている。特に日本史は、大御所の過去の発言が絶対で、素人の歴史研究家の説は絶対に認められないことは有名な話だ。メタ的に考えると、それはとんでもないことなのだ。
この巻の冒頭には、「本講座の編集方針と構成」とあり、ここに注目をする。しかし、私のメタ指向には、挟んである「栞」の村上陽一郎の文章が引っかかった。彼は、科学史の分野で色々な発言をしている。
表題は「歴史の多元性」で、たった2頁の短文なのだが、そこにメタを感じた。彼の主張は、『「世界史」といっても結局は「西洋史」である』で始まる。その一つの根拠として、「古代、中世、近代」の時代区分を挙げている。古代が終わったのは、西ローマ帝国の終焉、近代の始まりは、デカルトやニュートンの科学時代からというわけで、このことは素人の私でも分かる。彼は、この区分を『硬直した歴史感が長くはびこってきた』と主張する。
彼は、「学芸」の立場でこのことを考える。学芸とは、学問と芸術なので、人類の歴史にとっては、誰が支配者で、どちらの国が戦争に勝ったか、などよりはよほど重要に思う。そうすると、プラトンやアリストテレスの古代史は、東ローマ帝国に引き継がれ、さらにイスラムで開花する。つまり、西ローマ帝国の終焉とは関係がない。
また、「近代」は、中世ヨーロッパを支配したキリスト教の教義から学芸が離れて、独立した時期と考えると、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンは未だ近代とはいえなくなる。彼らは、キリスト教の教義から独立していたとは言い切れない面がある。科学が、完全にキリスト教の教義から独立した時に、近代は始まる。
最後には、『歴史は歴史家の数だけある。ということは、誰でも原理的には認めている。ところが、いざ「セカイシ」となると、そんな「原理」はどこかへ消し飛んでしまって、絶対に正しい歴史が一つある、と云わんばかりに、・・・。』で結んでいる。
つまり、世界史をメタ的に捉えると、古代・中世・近代の時代区分が大きく変化する。勿論、これが定説になることは、歴史学のなかではありえないのだが、私はこちらの時代区分を支持したい。
本題の、この巻の冒頭「本講座の編集方針と構成」にもどる。
先ずは、「基本的な理念」として3つのことを挙げている。第1は「個別性と共時性」である。個々の文明圏が持つ個別性と、多数の個別史の間の相関関係の模索の双方を追求すること。
第2は「細部と構造」とあり、歴史学も他の学問同様に「モノグラフ(個別論文)」により研究者の評価が行われてきた。つまり、細部の探求である。『しかし、無数の断片をつなぎとめるための努力として、歴史の中に、一定の構造や展開の過程を把握する可能性や課題を、はっきりと意識することは必要』としている。
第3は、「日本からの世界史」として、従来の世界史は、日本を除外した「外国史」だったが、日本を含めた「世界」をえがくこと、としている。
その結果、全体28巻は、通常のスタイルのA系列に加えて、『時代をこえてもつ世界史的意味を考えようとする』として、その例を第5巻の「帝国と支配」を挙げている。
さて、このような「世界史へのアプローチ」が、今回始まった3回目の講座では、どのように変わってゆくのか、第1巻は同じ表題が付けられているようなので楽しみになってきた。
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