メタエンジニアの眼シリーズ(121)「漱石の文明」
書籍名;「漱石と文明」 [1985]
著者;越智治雄 発行所;砂子屋書房
発行日;1985.8.10
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
様々な文明論を探る中で、ある古書店で「漱石と文明」という表題の本を見つけた。著者の越智治雄は、東大教養学部教授だが、在任中に若くして死亡した。従って、この書は死後2年たってから発行されたことになる。通読すると、漱石の文明論が語られているのは、最初の20ページほどで、後は漱石の他の著作に対する書評、他の人の漱石評、続いて多くの部分は、彼の専門である様々な戯曲家の作品評になっており、いわばオムニバス本に思える。
冒頭から、「夢一夜」の第七夜の解説が延々と述べられているが、それが漱石の内面をよく表している。
『「夢十夜」の第七夜『すなわち夢の中に現われる「自分」は、乗客のほとんどが異人だという「何でも大きな船に乗つてゐて、次のように聞く。「此の船は西へ行くんですか」。西に向かう大きな汽船には、むろん激石自身の洋行の体験が変容されて語られているに相違ない。しかし、漱石自身がロンドンという確たる目的地を持っていたのに反して、夢の中の「自分」は行く先をはっきりと知ること ができない。船は黒い煙を絶え間なく吐きながら凄じい音をたてて進んでいて、「自分」はその船の中に確かにいるのだが、「何処へ行くんだか分らない」、「何処へ行くのだか知れない」という想念を追いつづけている。激石は、そうした「自分」の心理を心細さ、つまりは不安として表現しながら、一方で悲しみという。』(pp.10)
これに対して、早速にほかの人の書評が紹介されている。
『柄谷行人氏の「内側から見た生ー『夢十夜』論」(『季刊芸術』18、昭四六・七)に次の指摘がある。「『船』が時代の象微でもあり、「この無気味な幽霊船のイメージが象徴しているのはむろん激石の生そのものであり、同時にまた明治日本の漂流感である」。確かにそうであるに違いない。「陸」、すなわち落ち着き先を見いだせぬがともかく西を指して凄まじい勢いで進むしかないのは、実は激石の存在する西洋化してゆく明治社会であり、激石自身の状況自体だったのではないか。』(pp.11)
そして、漱石の文明批評の根底には、『「自分」をとらえて離さない不安、「自分」を襲ってくる言い難い深い悲しみ』(pp.11) だとしている。この話は、20世紀の初頭だが、21世紀の初頭の我々にも共通する感覚に思える。勿論、個人の感受性にもよるのだが、例えば、若者の自殺者の増加などにその傾向がみられる。
さらに、漱石は「文明」という言葉は使わずに「開化」と称して、次のように述べている。
『日本の現代の開化を支配しゐる波は西洋の潮流で其波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せる度に自分が其中で食客をして気兼をしてゐる様な気持になる。新らしい波は兎に角、今しがた漸くの思で脱却した旧い波の特質やら真相やらも弁へるひまのないうちにもう棄てなければならなくなって仕舞つた。食膳に向って皿の数を味ひ尽す所か元来どんな御馳走が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。斯う云ふ開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。又どこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。』(pp.14)
漱石は、松山や熊本で教師をした後、東京に戻り、まもなくロンドンに留学をしている。期間は、
1900.5~1902.12なのだが、その間に近代文明に対する強烈な不信感を持ってしまった。そのことは、ロンドン塔とその周辺の様子に細かく語られている。
帰国後に発表された「文学論」の中では、次のように断言をしている。
『倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群にあって伍する
一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人ロは五百万と聞く。五百万粒の油のなかに、一滴の水となって辛うじて露命を繋げるは余が当時の状態なりといふ事を断言して揮からず。』(pp.72)
つまり、水と油の関係だったというわけだ。
日記の中では「煤煙の中に住む人間」と題して、このように書いている。
『激石の見たロンドンは工業化を急ぐ巨大な都市であった。「煤煙中ニ住ム人間」(日記、明三四・一五)の群の中で、彼のロンドンの憂鬱は深まってゆく。
倫敦ノ町ニテ霧アル日大陽ヲ見ヨ黒赤クシテ血ノ如シ、鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラン(日記、明三四・一・三)。
倫敦ノ町ヲ散歩シテ試ミニ唾ヲ吐キテ見ヨ真黒ナル塊リノ出ルニ驚クベシ何百万ノ市民ハ此媒姻ト此塵挨ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツツアルナリ我ナガラ鼻ヲカミ唆ヲスルニハ気ノヒケル程気味悪キナリ(日記、明三四・一・四)』(pp.73)
また、後年の「文学評論」では、次のようにある。
『都会は気の移り易い所である。(中略)或は痛烈な悲喜哀楽の為に駆られて、厭でも応でも一筋道に引張られる憂もなく、もしくは真率直下に人生の機微に接する神経もなく、落付いた頭で眼前の万事を商量する知欲もなく、(中略)あつちへ調和する為にここの角を磨り減らし、こつちへ調和する為めにそこの角を磨り減らし、段々磨り減らして行くうちに、角が全く無くなつて、丸薬の様な転がるに便利なものが出来上る。此丸薬を称して、其都会に共通の常識と云ふのである。』(pp.74-75)
明治人は、「文明」と「開化」を使い分けているように思うことがしばしばある。都市を造り、多くの人が寄せ集められ、巨大な建物の中で必死の生活を強いられる。これは、どう見ても文明ではない。しいて言えば、「開化」なのだろう。私は、「文明」イコール「都市化」という定義を常に否定する。文明は、優れたローカル文化が、エンジニアリングによって合理的かつ普遍的に成長したものだと考えている。日本では、「文明」と「開化」をくっつけて、「文明開化」にしてしまい、その後「開化」をとってしまい、「開化」イコール「文明」にしてしまった。Civilizationは「開化」であって、「文明」ではない。
書籍名;「漱石と文明」 [1985]
著者;越智治雄 発行所;砂子屋書房
発行日;1985.8.10
引用先;文化の文明化のプロセス Converging、
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
様々な文明論を探る中で、ある古書店で「漱石と文明」という表題の本を見つけた。著者の越智治雄は、東大教養学部教授だが、在任中に若くして死亡した。従って、この書は死後2年たってから発行されたことになる。通読すると、漱石の文明論が語られているのは、最初の20ページほどで、後は漱石の他の著作に対する書評、他の人の漱石評、続いて多くの部分は、彼の専門である様々な戯曲家の作品評になっており、いわばオムニバス本に思える。
冒頭から、「夢一夜」の第七夜の解説が延々と述べられているが、それが漱石の内面をよく表している。
『「夢十夜」の第七夜『すなわち夢の中に現われる「自分」は、乗客のほとんどが異人だという「何でも大きな船に乗つてゐて、次のように聞く。「此の船は西へ行くんですか」。西に向かう大きな汽船には、むろん激石自身の洋行の体験が変容されて語られているに相違ない。しかし、漱石自身がロンドンという確たる目的地を持っていたのに反して、夢の中の「自分」は行く先をはっきりと知ること ができない。船は黒い煙を絶え間なく吐きながら凄じい音をたてて進んでいて、「自分」はその船の中に確かにいるのだが、「何処へ行くんだか分らない」、「何処へ行くのだか知れない」という想念を追いつづけている。激石は、そうした「自分」の心理を心細さ、つまりは不安として表現しながら、一方で悲しみという。』(pp.10)
これに対して、早速にほかの人の書評が紹介されている。
『柄谷行人氏の「内側から見た生ー『夢十夜』論」(『季刊芸術』18、昭四六・七)に次の指摘がある。「『船』が時代の象微でもあり、「この無気味な幽霊船のイメージが象徴しているのはむろん激石の生そのものであり、同時にまた明治日本の漂流感である」。確かにそうであるに違いない。「陸」、すなわち落ち着き先を見いだせぬがともかく西を指して凄まじい勢いで進むしかないのは、実は激石の存在する西洋化してゆく明治社会であり、激石自身の状況自体だったのではないか。』(pp.11)
そして、漱石の文明批評の根底には、『「自分」をとらえて離さない不安、「自分」を襲ってくる言い難い深い悲しみ』(pp.11) だとしている。この話は、20世紀の初頭だが、21世紀の初頭の我々にも共通する感覚に思える。勿論、個人の感受性にもよるのだが、例えば、若者の自殺者の増加などにその傾向がみられる。
さらに、漱石は「文明」という言葉は使わずに「開化」と称して、次のように述べている。
『日本の現代の開化を支配しゐる波は西洋の潮流で其波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せる度に自分が其中で食客をして気兼をしてゐる様な気持になる。新らしい波は兎に角、今しがた漸くの思で脱却した旧い波の特質やら真相やらも弁へるひまのないうちにもう棄てなければならなくなって仕舞つた。食膳に向って皿の数を味ひ尽す所か元来どんな御馳走が出たかハッキリと眼に映じない前にもう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。斯う云ふ開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。又どこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。』(pp.14)
漱石は、松山や熊本で教師をした後、東京に戻り、まもなくロンドンに留学をしている。期間は、
1900.5~1902.12なのだが、その間に近代文明に対する強烈な不信感を持ってしまった。そのことは、ロンドン塔とその周辺の様子に細かく語られている。
帰国後に発表された「文学論」の中では、次のように断言をしている。
『倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群にあって伍する
一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人ロは五百万と聞く。五百万粒の油のなかに、一滴の水となって辛うじて露命を繋げるは余が当時の状態なりといふ事を断言して揮からず。』(pp.72)
つまり、水と油の関係だったというわけだ。
日記の中では「煤煙の中に住む人間」と題して、このように書いている。
『激石の見たロンドンは工業化を急ぐ巨大な都市であった。「煤煙中ニ住ム人間」(日記、明三四・一五)の群の中で、彼のロンドンの憂鬱は深まってゆく。
倫敦ノ町ニテ霧アル日大陽ヲ見ヨ黒赤クシテ血ノ如シ、鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラン(日記、明三四・一・三)。
倫敦ノ町ヲ散歩シテ試ミニ唾ヲ吐キテ見ヨ真黒ナル塊リノ出ルニ驚クベシ何百万ノ市民ハ此媒姻ト此塵挨ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツツアルナリ我ナガラ鼻ヲカミ唆ヲスルニハ気ノヒケル程気味悪キナリ(日記、明三四・一・四)』(pp.73)
また、後年の「文学評論」では、次のようにある。
『都会は気の移り易い所である。(中略)或は痛烈な悲喜哀楽の為に駆られて、厭でも応でも一筋道に引張られる憂もなく、もしくは真率直下に人生の機微に接する神経もなく、落付いた頭で眼前の万事を商量する知欲もなく、(中略)あつちへ調和する為にここの角を磨り減らし、こつちへ調和する為めにそこの角を磨り減らし、段々磨り減らして行くうちに、角が全く無くなつて、丸薬の様な転がるに便利なものが出来上る。此丸薬を称して、其都会に共通の常識と云ふのである。』(pp.74-75)
明治人は、「文明」と「開化」を使い分けているように思うことがしばしばある。都市を造り、多くの人が寄せ集められ、巨大な建物の中で必死の生活を強いられる。これは、どう見ても文明ではない。しいて言えば、「開化」なのだろう。私は、「文明」イコール「都市化」という定義を常に否定する。文明は、優れたローカル文化が、エンジニアリングによって合理的かつ普遍的に成長したものだと考えている。日本では、「文明」と「開化」をくっつけて、「文明開化」にしてしまい、その後「開化」をとってしまい、「開化」イコール「文明」にしてしまった。Civilizationは「開化」であって、「文明」ではない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます