生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(68)移民の1万年史[2002]

2018年07月30日 09時20分19秒 | メタエンジニアの眼
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(68)
          
「移民の1万年史」[2002] 

監修者; ギ・リシャール 発行所;新評論
発行日;2002.7.20
初回作成年月日;H30.7.27 最終改定日;H30.7.30 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing




このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

監修者は、アカデミーフランセーズ会員の文学博士、7人の執筆者が、それぞれの時代と地域区分で分担をしている。副題は「人口移動・遥かなる民族の旅」。
 
 ここ数年間、特にヨーロッパでは移民問題が常態化しているが、人類史を顧みれば、現在起こっている移民は決して大規模とは言えない。
「はじめに」で、監修者が9ページにわたって歴史を概観している。
『最古の時代から見られた移住は、地球上の人口構成にたいして、もっとも重要な役割をはたしてきた。古代文明以降の歴史時代でも、移住という動向は、多くのばあい非常に重要な要素であり、大規模な文明圏と広大な帝国の出現とともに、世界の征服を確実にした。
ヘブライ人のエジプト脱出とアッシリアでの幽閉、アカイア人とドーリア人のギリシアへの流入、海洋民族のエジプト流入、フェニキア人とカルタゴの住民のスペインにまでおよぶ移住は、もちろんローマの征服とともに文字化された痕跡をのこしている 』(pp.1)

 民族移動の大きな現象としては、紀元前の肥沃の三日月をめぐる移動。紀元前後のフェニキア人やギリシア人が行った通商用の基地の建設。16世紀ごろに起こった流刑地への強制移動。19世紀の「白人の人口爆発」による移民。第1次、第2次世界大戦前後の移動、などである。
 
そして、20世紀の移民としては、
『移民は二〇世紀のはじめまでは、新しい国々に向けた旧大陸の住民たちのラッシュを意味する典型的にヨーロッパ的な概念だった。この「移民」という表現が、このような概念に支えられているようにみえても、この時点で、 以下のような急激な変化がおきていたことが確認される。つまり、第一次大戦のおりの人口需要と、そのあと、とくにフランスでみられた工業の発展のための人口需要が、いちはやくアフリカとマグレブだけでなく、ヨーロッパの地中海諸国とポーランドの労働力を誘いこんだことである。工業化したドイツもまた、第二次大戦以後に移民の地となり、ポーランド人とともにトルコ人やマグレブ人をひきつけた。イギリスは、とくに旧帝国時代の領土の住民を受けいれた。、』(pp.5)


 このように見ると、移民は常にヨーロッパで起こっていた。

『ヨーロッパ大陸は大昔から、世界の全人口が集まり、戦いあい、混ざりあってきた半島にほかならない。しかし、ヨーロッパは多くのばあい受けいれ側だったとしても、一五世紀からは移民の波の出発地点となってきたのである。 そして移民たちは、新世界と、アフリカや、アジアや、オセアニアに住みつき、それらの土地を植民地化した。』(pp.6)

 監修者は、「移民の原因」を大きく3つに分けている。第1は、好戦的な侵略から逃れるため。第2は、気候変動などによる飢饉での飢えから逃れるため。第3は、金(ゴールド)に対する渇望。

 各論は、「古代オリエントとイスラエルの移民」で始まる。ヨーロッパ人としては、現代まで続く大問題なのだから当然なのだろう。「約束の追求」として、歴史を詳しく語っている。概略をすれば、古代のエジプト人、クレタ島の民族、シュメール人が暮らしていたところへ、南からセム系諸族と北からインド・ヨーロッパ語族が侵入して、混乱が始まった。

 ローマ帝国の崩壊につながった「西欧での未開人の侵入と定着」は、22の民族が移動した時期と侵入先、そこでの混交または軋轢が一覧表になって示されている。この表で最も古いのは、406年のゲルマン民族のライン川の渡河であり、もっとも新しいのは、1240年のスカンジナビア人(と刀剣騎士団)のノヴゴロド公国への侵入となっている。(pp.43)

 19世紀の「白人の人口爆発」による移民についての表からは、合計人数が記されている。
イギリス諸島からの移民(1825~1940)は、2100万人。
ドイツからの移民(1820~1930)は、650万人
 スカンジナビアからの移民(1850~1930)は、250万人
 フランスからの移民(1801~1939)は、190万人、といった人数が示されている。

特筆すべきアイルランドの飢饉による移住は、次のように記されている。
『ジャガイモの病虫害と、農産物の不作がつづいた一八四六ー四七年から急激に膨脹し、大規模な集団になった。アイルランドで五〇万人の死者をだした一八四八年の飢謹では、二〇〇万人のアイルランド人がアメリカに移住した。イギリス全体の移民の五〇%がアメリカに移ったが、イギリス政府と、さまざまな私的団体が努力を重ね、のこりの二一%の移民をカナダに、一五%をオーストラリアに、五%を南アフリカに送りだすことに成功した。』(pp.76)

 20世紀最大の移動は、第2次世界大戦の期間中(1939~1945)に起こった。ナチスドイツによる民族の移送は有名だが、実は最大の移動はアジアで起こっていた。
『世界大戦が極東でひきおこした、巨大な人口移動も忘れることができない。一九三二年と、とくに一九三七年以降には、日本軍の作戦のため、中国の彪大な数の非戦闘員が移動した。そのうちの三〇〇〇万人は、しだいに内陸部の奥深くまではいりこみ、そのほかの人たちは仏領インドシナとビルマに移住した。時には毛沢東の共産党軍の「長征」のような、軍隊の行進が本物の移住を呈したこともある。一方、一九四五年以降のアジアでは、一〇〇万人の日本人が日本列島に帰国した。 また、一九四七年にインドがイギリスから独立し、パキスタンがイギリスから分離したときには、両国の間で住民の交換がおこなわれ、このときは少なくとも八〇〇万人のひとたちが移動した。』(pp.88)

 ここでも、全体の動向が一覧表で示されている。期間中に大移動をした民族数は24。1939年にドイツ軍の侵入で起こった、ポーランド人150万人の西方への移動が発端だった。しかし、期間中に500万人以上が移動した事例が4件ある。最大は、日本軍の作戦による中国人の非戦闘員の中国内陸部への移動で、人数は3000万人となっている。また、イギリスの撤退による、インド独立にともなって1947年に起きた、インド人とパキスタン人の交代で800万人。ドイツ関係では、戦争中のソヴィエト人捕虜のアウシュビッツへの移送が570万人、戦後のドイツ人の限られた領土への移住者が950万人となっている。(pp.89)

 歴史を眺めると、現在ヨーロッパで起こっている移民の数は、歴史上としては他の時代に比べて少ない数という事ができる。

 さて、ここまで読んで歴史の教訓を感じた。それは、新たな文明は民族の大移動が起こった地域で起こる可能性が高いということだ。それは、未開の土地では、移住者全員が危機感を共有して、新たな試行錯誤を繰り返し、そのたびに新たな知恵を得ることができるためと考えられる。平和をむさぼっている民族からは、新たな文明は生まれようもない。そのように考えると、次の文明は中国から生まれてくると想像される。
 さらにメタエンジニアリング的に思考範囲を広げると、「ヒト」が文明を手にしたプロセスに行き着く。アフリカで発生したヒトの新種が、なぜユーラシアに移動をして、次々に古代文明を築くことができたのかも、同じことが言えるのではないか。当時の「ヒト」の身体的な特徴は、他の動物のいずれよりも生存能力が低かった。食料を得る手段としての牙や鋭い爪はなく、速く走れず、視力・聴力・嗅覚もそれほど良くない。さらに、外敵から逃げる手段も貧弱で、同じ種のサルが木から木へ移れるのに、その能力すらない。そのような種族が、安全に集団生活を過ごすには、全体で色々と知恵を絞る以外に方法はない。そのような状態が何世代も続けば、自然に脳が発達し、その結果が文明の発生につながった、といえるのではないだろうか。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿