生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(39)王墓と直弧文との関係

2018年03月14日 10時56分07秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(39)         
題名;装飾古墳(15)

場所;奈良・岡山・熊本・福岡県  テーマ;古代王の墓    
作成日;H30.3.3 アップロード日;H30.3.14
                                                       
TITLE:王墓と直弧文との関係

 熊本県と福岡県で多くの装飾古墳と歴史博物館を見学した。特に、各地の歴史博物館には、最新の研究資料が豊富に置かれていた。私の目的は、文化と文明の関係について歴史をたどりながらメタエンジニアリング的に考えてゆくことにある。その中での最大の問題は、1万6千年も続いた縄文時代の文化が、現代日本の文明へと、どのように文明化していったかにある。私の定義では、1万6千年も続いた文化は、もはや「文明」である。
  
 文明とは、英語で言う都市化でも市民化でも、ましてや文字文化でもない。文明とは「文徳(武徳ではない)をもって、人間の社会生活を明るくしてゆくもの」と考えている。つまり、古代中国の易経のそれである。そのように考えると、大航海時代から産業革命を経て成長した現代の西欧科学文明は、文徳と武徳が半々であり、「半文明」となる。
 
ローマ帝国や唐帝国は、武徳により成立したが、繁栄期のそれは、ほぼ文明といえると思う。それでは、100%の文明は、過去にあったのだろうか。あった、それは日本の縄文文明であり、世界最長の文明だった。

 また、「文字文化」が文明の最大要素との考え方が一般的なのだが、私はそれについても疑問視している。現代の最新のコンピューター技術でも解読できない文字はもとより、現代においても世界中でお互いに読むことも理解することもできないの字が氾濫している。この状態は「文をもって、世の中を明らかにする」とは遠い状態だと思う。ちなみに、「漢字」だけは、読むことができなくても、理解することは可能なので、文明の一要素といえる。英語などは、宇宙人から見れば単なる記号の一つとなるだろう。

 世界文明には、必ず宗教がひっついている。それは、人類が他の動物との違いを明らかにする、ほとんど唯一のよすがになっていると思う。例え、人間の脳よりも優れた人工頭脳でも、宗教を持つことはできない。縄文時代の宗教は、アニミズムとよばれ、先祖崇拝、輪廻転生、精霊の宿る巨大な自然物崇拝などであろう。大きく分ければ、多神教ということになるのだが、現代社会では一神教よりは多神教のほうが、進んでいると考えた方が都合が良いことが多くなりつつある。一神教のほうが優れているという西欧的な考え方は、文徳ではなく武徳である。
 
このような考え方を前提として、「王墓と直弧文との関係」を考えてゆこうと思う。

 縄文土器の文様は、「縄文」である。現在でも土器を作り続けているニューギニアの部族は、「土器に描かれる文様には、宗教的な意味がある」と明言している。縄文は、二つの縄を色々なやり方で捩ったものと考えられている。それは、輪廻転生の代表の「蛇の絡みあい」を示しているとの学説が、多くの支持を得ている。私もそう考える。輪廻転生のもう一つの代表は、「お月さま」であり、満ち欠けの形や軌跡が、様々な文様となって、土器に記されている。勾玉は、その変形だともいわれている。つまり、新月から満月へ、満月がだんだん欠けてやがて闇夜になる変化は、連続的に示すと大空に描かれた勾玉形になる。この説明は、長野県富士見の井戸尻郷土館に、その地で発見された多くの縄文土器や土偶の展示とともにある。

土器は入れ物であり、土器の表面に描かれた文様は、中身を守るためと考えるのが自然であろう。いつまでも、そのままの質を保つ。あるいは、もっと素晴らしいもの(例えば酒)に転生してゆく、といった考えがあると思う。火炎土器が特殊だといわれるが、私には、火炎が中身を守るという意味において、特殊性は感じられない。

 もう一つ、中身を守ること、あるいは素晴らしいものに転生してゆくことを願うものがある。それが王墓だ。石棺の中や周囲には、本人が使用したり愛でたものが納められるが、その周りは「守るもの」に囲まれなければならない。その時には、1万数千年間伝わってきた縄文の思想が伝わっていると考えるのが自然な発想だと思う。墓ほど伝統文化が守られるべきものはない、といっても過言ではないと思う。現代でも、そのことは世界各地で保たれている。

 言葉や文様は、世代とともに変化をしてゆくのが常である。3世代も経てば、言葉が通じにくくなることもある。5世代前の言葉や文様は、かなりの変化を経ていると考えた方が自然だ。縄文と月も、三角の鱗や円や勾玉、メビウスの輪のように変化を続けた。

 直弧文は、部分的には直線と弧の組み合わせだが、全体としてみると、線の入った帯が複雑に絡み合っているが、帯は繋がっている。つまり、縄文文様が進化したものと考えることができるのではないだろうか。勿論、その目的は石棺の中身を守ることにある。

 そのことは、直弧文の塗り絵をすると一目瞭然となる。縄文をシンプル化した帯が、お月様の象徴である円を巻いている。まるで、蛇が絡みついているように。そして、ある部分は勾玉形のようにも見えてくる。



 通常の石棺の蓋には文様がない。しかし、石人山古墳の有名な石棺の蓋の文様は、明らかに埋葬された人物を守ることと、輪廻転生を願う心が示されている。それは、輪廻転生の原型である月(満月)と直弧文である。その上ご丁寧に、この直弧文には、上から×状の柵がある。浮き彫りになっているので、この×文は、直弧文が外れないようにしてある。だから浮き彫りにする必要があった。

 伝統文化の神髄は、周辺部に残るという学説がある。日本各地の廃村やさびれた神社には、古い思想や神像(仏像)が残されている。中央部や、人口密度の高い所での存続は不可能だ。磐井の乱のあと、吉備や大和は栄えたが、磐井の支配地域は取り残された。だから、伝統文化が残ったと考える。

 それでは中央部、すなわちヤマトや吉備ではどうであろうか。その時代の九州よりも古い時代にその証はあった。二つの著書に明言されているので、その部分を引用する。第1は、吉備の楯築神社のご神体の巨石である。

福本 明著「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」新泉社[2007]



『御神体との初めての対面である。近藤は、しばらくの間動けなかった。 「物をみて息をのむというようなことはそう滅多にあるものではない。帯を返し潜らせ巻きつけたような弧状の文様が線彫りで全面をおおっ ている。それは文旬なしに弥生後期の特殊器台の装飾を想起させた。驚くべき品だ」
このときのことを後に近藤はこう書き記している。御神体の不思議な文様を見た近藤は、即座に以前から埴輪の起源として研究を進めていた弥生時代後期の特殊器台の文様との類似を直感したという。ただ、後に述べるように、特殊器台は円筒形の周囲に帯状に描かれた平面的な文様であるのに対し、この御神体の文様はひとかかえ以上もある大きな石の表面全体に立体的に描かれており、ダイナミックさにおいてくらべものにならないものがあった。』(pp.7)とある。

また、この石には顔が描かれており、『顔だけを出し、体全体を帯で幾重にもまかれている姿にみえる人物が、はたして楯築弥生墳丘墓に葬られた首長自身であるのか・・・。』(pp.65)とある。

 この石の文様は、弧状をなす帯が複雑に絡み合っているとして、「弧帯文石」と命名された。ご神体の時代推定は難しかったが、その場所に80メートルの古墳があり、発掘調査で同様の文様の石が発見されて、弥生時代後期のものと比定された。その古墳にある祠は、いくつもの巨石で囲まれている。

 また、森浩一編集「日本の遺跡発掘物語4 弥生時代」社会思想社 [1984]には次の記述がある。



『纏向遺跡は大和平野の東南部で、ちょうど神体山の三輪山の西北方に広がる微高地に営まれた古墳時代前期を盛期とする集落跡である。 この地域には古墳時代前期の巨大前方後円墳として知られる箸墓古墳をはじめ西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳などが東辺に群集し、三輪王明ともいわれる初期ャマト政権の本拠地と考えられているところ。

この遺跡の調査はいまも断続的に続けられているが、一九七一(昭和四六)年から七五(昭和五〇)年の発掘調査で、石塚古墳から古墳時代前期初めの土器にまじって、木の円い板に弧線と直線の組み合わせで文様化した弧文円板と呼ばれる木製品が出てきた。この文様が、楯築神社のご神体にある文様と非常に似ているのである。 どちらが祖型で、どちらが影響を受けたのかによって、巨大前方後円墳成立の過程が変わってくるし、ひいては古代政治のあり方にもかかわる重大な問題である。』(pp.152)
と記されている。

 また、別の例としては、
『吉備の特殊器台土器の外周を飾る線刻文様は勾玉形(巴形)や三角形の透し孔をもつ特異なものであるが、、なぜこの文様でなければならないかがわからなかった。ところが弧文円板の文様分析によって勾玉形の孔は文様構成上、必然的に生じることが判明した。この勾玉形は弧文円板から特殊器台へ、という流れの方向が決定したとしている。 楯築神社の龍神石(亀石)の文様については、文様に一定のパターンがみられず、構図上の法則性も認められないが、細部に円板と共通するところが多い。細部の文様比較論ははぶくが、宇佐、斎藤 両氏は「亀石の作者は勾玉形の意識はなかったにしても弧文円板の趣きをイメージでとらえ、吉備において再現を試み、その間の記憶の減退を創造力で補って、吉備的直弧文をたぐいまれな石の造形にたかめたのである」とする。』(pp.154)とある。
 しかし、著者の森氏は、大和と吉備では文化が異なっており、「断定できない」としている。

 いずれにせよ、大和と吉備で一時期だか大古墳に用いられた直弧文が、その後はその地方では見られずに、ほぼ1世紀を経て、九州王朝の墳墓に見られるようになったことは、「文化の神髄は周辺部に残る」ことを示している。
 著作に載っているそれぞれの写真は、著作権がありここでは示すことができないのだが、これらの文様は明らかに同じ思想に基づいて描かれている。



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