私も小学生時代にイジメを受けた。
その辛さから解放されて楽になりたくて、
自殺も試みようとした。
高いところから、ずっと地面を見つめた続けた時間がある。
その希少な?イジメられ側から、今のイジメ報道を聞いていると、
少し違和感を感じる。
今の風潮は学校側の責任をひたすら問い、
イジメ被害者に同情的。
加害者には社会的処罰も対象に警察が介入。
自分のイジメられた時の事を振り返る。
私はイジメられていたとき、
そのイジメを止めるのは自分自身だ、
そう常に思っていた。
誰かに止めてもらう、
というのは筋違いだと思っていた。
自分が弱くて、イジメにノー!と抵抗できない。
そんな自分が恥ずかしかった。
確かに私のイジメに遭ったときも、
親や学校も知るところであったので、
先生は何度も周りの生徒達にイジメをやめるように説得した。
でも、無論、そんな事で収まるものではないし、
私自身もそんな外部の力に頼る気も毛頭なく、
自分がノー!と言わない限り、イジメの終結はありえないんだと思ってた。
結局、イジメは、イジメ役、イジメられ役、という役割のない
新しい人間関係のクラスに進級したら自然消滅した。
イジメの始まりは、ほんのささいなことだ。
要は弱い者イジメ。
そして、日本社会においては
「皆と同じ」これがキーワードになる。
皆と同じであることが、団体の中の人間の安心感になるようで、
これから外れた人間は、日本人群集は、たぶん無意識に
「怖い」と感じるのだと思われる。
変わった人間は、イジメの対象になるのだ。
サラリーマン家庭に育ってない私は
常に人と同じであることに安心感を覚える人間でなかったから、
たぶんこれがイジメの発端になったのだと思われる。
自分のそうした体験から、今の報道でのイジメ対策を聞いていると
ポイントが違うんじゃない?と感じるのだ。
学校の責任ばかりを問うていてもイジメ問題は解決しない。
イジメの被害者に同情的になってばかりいては、被害者のイジメ克服はない。
警察が介入するのでなく、精神面でのケアが必要だ。
イジメは加害者側の心の問題だと思う。
真の加害者はほんの数名。
その数名の心が少し病んでいるのだ。
幼くして追い詰められている人間が自分自身のバランスをとろうとして、
弱い人間を痛めつける事で、かろうじてバランスをとろうとしている事に
気づいてあげて。
そしてイジメられる側に社会が同情的になればなるほど、
イジメに遭った人が弱いまま社会に死んできづいてもらおうという意識が後押しになって、
自殺までいってしまうことが加速してしまう。
死んではだめ!
イジメなんて今は辛くても、それは長い目でみれば実はたいしたことではない。
貴方は決して人間的に劣っているわけでもない。
イジメる側に何か問題があるんだと、周りの人間が教えてあげて。
自分はイジメられてた当時、
自分に欠陥があるから、自分に人としての何かが劣っているから
イジメられるんだ、と自分を価値のない人間だとずっと感じていた。
イジメが自動消滅して高校生になった自分が、
たまたまイジメの加害者と又、同じ学校の生徒として遭遇した。
そのとき、その加害者を客観的にみて感じた私の感想は、
「(イジメ加害者は)何て、ちっぽけな、つまらない人間なんだろう、、」
そして周りの人間からも、あまり相手にされない、
とてもちっぽけな存在な人間を見た。
あ、こんなちっぽけな人間に私はイジメられていたんだ、
そうわかったときに、私は自分が劣っている人間でなかったことを
はっきり自覚でき、自分のイジメ問題から、やっと卒業できた。
イジメられている人間が何故、死を選ぶか?
もちろん辛さから開放されたい、
それが引き金だが、
その背景にはイジメられる自分自身に人としての価値や尊厳が見出せなくなっているからだ。
社会が、イジメられる人間に、貴方には問題はないんだ、
イジメる側に問題があるんだ。
死を選ぶことに社会は寛容ではないよ、という風潮になっていけば、
イジメの自殺の連鎖は断ち切れるのではないかと思うのだが。
残念ながら、イジメ自体は決して無くなりはしないと思う。
大人社会にだってあるイジメ、人間の普遍的な負の部分。
でも、減らしたり、そのイジメに負けない折れない心を持つことはできると思う。
対策をとらない学校側にだけ責任を問う今の風潮は
何も本質を考えてない無責任な社会の態度に感じる、
元イジメ被害者の所感です。
その辛さから解放されて楽になりたくて、
自殺も試みようとした。
高いところから、ずっと地面を見つめた続けた時間がある。
その希少な?イジメられ側から、今のイジメ報道を聞いていると、
少し違和感を感じる。
今の風潮は学校側の責任をひたすら問い、
イジメ被害者に同情的。
加害者には社会的処罰も対象に警察が介入。
自分のイジメられた時の事を振り返る。
私はイジメられていたとき、
そのイジメを止めるのは自分自身だ、
そう常に思っていた。
誰かに止めてもらう、
というのは筋違いだと思っていた。
自分が弱くて、イジメにノー!と抵抗できない。
そんな自分が恥ずかしかった。
確かに私のイジメに遭ったときも、
親や学校も知るところであったので、
先生は何度も周りの生徒達にイジメをやめるように説得した。
でも、無論、そんな事で収まるものではないし、
私自身もそんな外部の力に頼る気も毛頭なく、
自分がノー!と言わない限り、イジメの終結はありえないんだと思ってた。
結局、イジメは、イジメ役、イジメられ役、という役割のない
新しい人間関係のクラスに進級したら自然消滅した。
イジメの始まりは、ほんのささいなことだ。
要は弱い者イジメ。
そして、日本社会においては
「皆と同じ」これがキーワードになる。
皆と同じであることが、団体の中の人間の安心感になるようで、
これから外れた人間は、日本人群集は、たぶん無意識に
「怖い」と感じるのだと思われる。
変わった人間は、イジメの対象になるのだ。
サラリーマン家庭に育ってない私は
常に人と同じであることに安心感を覚える人間でなかったから、
たぶんこれがイジメの発端になったのだと思われる。
自分のそうした体験から、今の報道でのイジメ対策を聞いていると
ポイントが違うんじゃない?と感じるのだ。
学校の責任ばかりを問うていてもイジメ問題は解決しない。
イジメの被害者に同情的になってばかりいては、被害者のイジメ克服はない。
警察が介入するのでなく、精神面でのケアが必要だ。
イジメは加害者側の心の問題だと思う。
真の加害者はほんの数名。
その数名の心が少し病んでいるのだ。
幼くして追い詰められている人間が自分自身のバランスをとろうとして、
弱い人間を痛めつける事で、かろうじてバランスをとろうとしている事に
気づいてあげて。
そしてイジメられる側に社会が同情的になればなるほど、
イジメに遭った人が弱いまま社会に死んできづいてもらおうという意識が後押しになって、
自殺までいってしまうことが加速してしまう。
死んではだめ!
イジメなんて今は辛くても、それは長い目でみれば実はたいしたことではない。
貴方は決して人間的に劣っているわけでもない。
イジメる側に何か問題があるんだと、周りの人間が教えてあげて。
自分はイジメられてた当時、
自分に欠陥があるから、自分に人としての何かが劣っているから
イジメられるんだ、と自分を価値のない人間だとずっと感じていた。
イジメが自動消滅して高校生になった自分が、
たまたまイジメの加害者と又、同じ学校の生徒として遭遇した。
そのとき、その加害者を客観的にみて感じた私の感想は、
「(イジメ加害者は)何て、ちっぽけな、つまらない人間なんだろう、、」
そして周りの人間からも、あまり相手にされない、
とてもちっぽけな存在な人間を見た。
あ、こんなちっぽけな人間に私はイジメられていたんだ、
そうわかったときに、私は自分が劣っている人間でなかったことを
はっきり自覚でき、自分のイジメ問題から、やっと卒業できた。
イジメられている人間が何故、死を選ぶか?
もちろん辛さから開放されたい、
それが引き金だが、
その背景にはイジメられる自分自身に人としての価値や尊厳が見出せなくなっているからだ。
社会が、イジメられる人間に、貴方には問題はないんだ、
イジメる側に問題があるんだ。
死を選ぶことに社会は寛容ではないよ、という風潮になっていけば、
イジメの自殺の連鎖は断ち切れるのではないかと思うのだが。
残念ながら、イジメ自体は決して無くなりはしないと思う。
大人社会にだってあるイジメ、人間の普遍的な負の部分。
でも、減らしたり、そのイジメに負けない折れない心を持つことはできると思う。
対策をとらない学校側にだけ責任を問う今の風潮は
何も本質を考えてない無責任な社会の態度に感じる、
元イジメ被害者の所感です。