古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

草刈りはいつまでできるかなー。

2009年05月22日 04時34分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 これは去年の6月に撮った写真で、借りている畑の土手の草刈りをすませたところです。去年は4月5月と土手の斜面で両足を踏ん張りながらなんとか草を刈ったけれど、年寄りには危ないと感じて足場をつくりました。材木で杭をつくり、防腐剤を塗って打ち込み、材木を渡しただけの足場です。
 この足場のお陰で6月からは楽に草を刈ることができるようになりました。でも「道路沿いは目障りだし短いところだからなんとか足場なしでやろう」と思っていました。しかし去年から今年に掛けて冬以外は毎月草を刈るうちに、道路沿いの斜面も足場をつくったほうがいいと思い、今年は足場をつけました。お陰で斜面の草を刈りやすくなりました。
 昨日は今年二回目の草刈りをしながら、ふっと体のゆらめきを感じました。ふらつくのでなく、危ないと感じるのでもなく、近い将来そうなるかなという予感のようなものです。それを「老い」というのでしょう。
 退職して神戸市西区神出の休耕田で『大豆畑トラスト』をやっていた数年間は、よく草刈りをしました。高い土手はほとんどなかったので上の畦と下の溝から刈払い機で刈ればきれいになりました。ですから刈払い機は使い慣れているし、身のこなし・足の踏ん張りはまだ大丈夫と思っていました。
『老い』の歩みはなんと確かなのでしょう。
 ぼくは「頑張らない」を信条として71年間生きてきたつもりです。でもよく考えてみると、それは「嫌いなこと・いやなことは頑張りたくない」であって、する必要のあることはそれなりに頑張ってこなしてきたのでしょうね。そう思ってまわりを見ると「頑張る老人」だらけ。頑張るつもりはなくても気がつけば頑張ってる。
 どこかで聞いたことがあります。人間の細胞と犬の細胞はちがわない。だから同じくらい生きるはずだ。ところが犬の寿命は長くても20年に届かない。人間は80歳を越えても生きる。なぜそんなにちがうか。犬は「明日は○○をしよう」と思って眠りにつき「今日は○○をしよう」と目覚めるのではないでしょう。生きる意志のちがいでしょうか。
「老いていく日々を慎重に生きたい」と書くつもりだったのにおかしな論調になりました。やっぱり人間は「頑張る」のが「たのしい」のかなー。「しあわせ」なのかなー。退職して無為にぶらぶらしているようでも常になにかに頑張りたい生き物なのでしょうか。
 
 
 
コメント
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