古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

今日は大働きしました。

2019年03月27日 23時43分09秒 | 古希からの田舎暮らし
 きのうは「物憂さ」と書きましたが、こころの波というか、「今日は大働き」しました。
 まず午前中は、老人クラブの役員さんで集まって、クラブ員の名簿をチェックしました。

 我が家で、真剣に話し合いました。
 お昼前には電動ウォーカーで30分(時速2,5キロ=1200メートルほど)を歩きました。膝の痛みはゼロではありませんが、それなりの運動になっています。
 昼寝のあと、午後は軽トラで「三木バイオ堆肥センター」に堆肥をもらいに行きました。近畿のあちこちから集めた食品残渣でいい堆肥ができています。軽トラにざっと一杯もらって帰り、堆肥入れに入れました。

 高さ60センチの畦板を2枚つないで円筒形にして、その中に堆肥を貯蔵します。軽トラの荷台に上がって、シャベルで堆肥を投入している図です。久しぶりに働いている感じがしました。円筒形の入れ物4つがほぼいっぱいになる量の堆肥でした。(堆肥は無料でもらえました)
 サツマイモの畝やまだ整備していなかった畝に、燻炭/鶏糞/三木バイオの堆肥/を入れて、何度も何度も耕運して 〈真砂土⇒畑の土〉 にします。
 そこで豊地農協に、燻炭と鶏糞をもらいに行きました。フジワラ・ファームの鶏糞をつかっていたのですが、近ごろなかなかもらえませんので。燻炭は豊地農協が、おそらく日本一安い。一袋770円です。もう一つ入れるものがあります。ヌカです。これは志染農協でもらうのですが、時間切れでまたもらいに行きます。
 畑は去年の秋、真砂土を入れて、それから「畑の土づくり」をしたのですが、植えた物はいい具合に育っています。道子さんは「ソラマメの間に植えたホウレンソウが驚くほど根を張って大きくなっている」と感心しています。去年の秋に一株100円で120株植えたイチゴ:宝交早生は、立派に育ち、花がついています。イチゴも期待できそう。

 今日はこころのうねりが、高波の頂上でした。疲れましたが、さわやかな気分です。
 
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母の文学仲間に手紙を書きました。

2019年03月27日 01時03分50秒 | 古希からの田舎暮らし
 14日に母は亡くなり、12日が過ぎてゆきました。葬式/役所の手続き/司法書士で後見人へ依頼(相続)/母の持ち物の片付け・処分/と目の前の仕事をすませたところです。
 もう一つ大きな仕事があります。母の文学仲間への手紙です。
 手っとり早く伝わるようにと、朝日新聞の「ひととき」欄に母の死を投稿することを考えていました。なんとか書いて投稿しましたがボツ。そこで文学仲間のみなさんに手紙を書きました。

 
 突然の手紙で失礼します。                吉岡妙子の長男・吉岡啓一です。
 母がお世話になりました。吉岡妙子は平成31年3月14日に亡くなりました。母の感謝を伝えようと手紙を書きます。

 父は22年前、1997年に行年89歳で亡くなりました。そのあとしばらくして、母は体調を崩しました。そのときは健康を回復しましたが、母は自分の図書や書き物を整理して、雑文集『でんでん虫の歌』を、2000年9月に自費出版しました。その「あとがき」にこう書いております。


     この世を去るにあたって  ……  御礼申しあげます。  ……  
     私個人の好みとして、葬儀・告別式無用、香典辞退、近親者だけで静かに
    送り出して頂きたいのです。  ……
     ではみなさま御機嫌よう。     吉岡妙子

  
 いま読み返してみると、明日にでも死ぬような「死ぬ気まんまん」の文章です。しかし〈妙子〉という「生命体」のほんとうの意志はちがっていたようです。
 父の死後10年、母は94歳の誕生日に、神戸市北区ひよどり台の家から、長男の私の家に引っ越してきました。(私は「田舎暮らし志向」で神戸から三木に移り住んでおりました)
 100歳に近くなり、デイ・サービスのお世話になりはじめました。また、私の妻の入院もあって、施設に数泊する「ショート・ステイ」のお世話になるようになり、だんだん弱ってきました。しかし、医者に薬をもらうこともなく、元気に過ごしておりました。
 母の100歳のお祝いには、私たち4人の子どもや連れ合いなどが三木に集まりました。母は、図書館で借りる大型活字本も読みにくくなり、100歳の祝いに自分用のテレビを贈りました。
 103歳のときは要介護5になり、妻の入院もあって、老健施設にずっと預かってもらうことになりました。また長年ひよどり台でいっしょに暮らした弟が急性心筋梗塞で亡くなり、彼の死と葬儀は母に知らせずに兄弟や連れ合いで行いました。
 母の施設には週に一度顔を見に寄っていました。今年3月に入ってからは一日おきに様子を見に行きました。
 母は、お医者さんに薬を処方してもらう病気はありませんでした。生きる力を使い切って、105歳10ヵ月で逝きました。
 64歳になって山陰の田舎から神戸に出て、お世話になった文学仲間のみなさんに、母の死をどう伝えようかと思案して、朝日新聞の「ひととき」に投稿しましたがボツでした。
 お世話になった方へは「とおりいっぺん」のあいさつ状でなく、母の気持ちを伝えたいと思って手紙を書きました。
 母の好きなミモザの咲く季節に、母は逝きました。子たち孫たち曾孫たちは、大和会館の『やわらぎホール』の母の葬儀に集まって、棺を花でいっぱいにしておくってくれました。
 母の100歳の写真を遺影用にしました。その写真とボツ投稿を同封いたします。
 ありがとうございました。

 書き終わってホッとしています。「母が亡くなる」という人生の出来事には、多くの人が出会います。その「こころの物憂さ」みたいなものと向き合っているときでしょうか。
 外仕事もするのですが、気力の乏しさを感じております。
 
 

 
 
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